立花鑑賢
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テンプレート:基礎情報 武士 立花 鑑賢(たちばな あきかた)は、筑後国柳河藩の第9代藩主。幼名は友之丞、亀寿。
第7代藩主・立花鑑通の嫡子だった立花鑑一の長男。母は立花茂久の娘。正室は第8代藩主・立花鑑寿の娘。子に立花鑑広(長男)、立花鑑備(次男)、娘(内藤政義正室)ら。
生涯
寛政元年7月8日(1789年8月28日)、柳河にて生まれる。父・鑑一は寛政元年8月11日(1789年9月29日)の立花鑑門の死去により、祖父・鑑通の嗣子となったが、寛政5年(1793年)に鑑通より先に早世した。その跡を幼少の鑑賢が継ぐわけにもいかず、家督は叔父で鑑一の弟・立花鑑寿が継いだ。寛政11年(1799年)9月28日、鑑寿の養嗣子となる。文化5年(1808年)、養父・鑑寿の娘と結婚する。そして鑑寿死後の文政3年(1820年)6月19日、家督を相続した。その後は藩政改革に取り組み、藩校である伝習院を創設する。さらに検見法を石見に改め、米札を発行し、さらに郷方仕組を制定する。また、農業の副業奨励、新田開発、有明海沿岸の埋め立てなどにも尽力している。幕府からも鶴岡八幡宮の普請手伝いを請け負っている。
文政13年(1830年)3月23日、長男・鑑広を嗣子として指名し、同年4月11日(1830年6月1日)に江戸で42歳の生涯を閉じた。跡を鑑広が継いだ。
主要家臣
文政3年(1820年)頃の主要家臣は以下のとおり。参考文献は「文政武鑑1」掲載の文政3年刊行の武鑑と「柳河藩立花家分限帳」の『文政二卯月七月分限帳』。
【一門家、両家】
- 立花主水(高2300石)、立花内膳(高1000石)、立花虎次郎(主水嫡子、高の記載なし)、立花造酒(内膳嫡子、高の記載なし)
【家老】
- 小野勘解由(組頭、高2000石)、矢島隼人(組頭、高2000石)、十時三弥(組頭、高2000石、文政3年武鑑に記載なし)、立花織衛(大組外、高1000石役知300石)、立花縫殿助(大組外、高1000石役知300石)、立花主計(大組外、高1500石)
【中老】
- 吉田舎人(大組外、高400石)、立花庄太夫(大組外、高500石)、大村主馬(大組外、高300石役知50石)、十時宇兵衛(大組外、高300石役知50石)、立花一角(大組外、高450石)、戸次丹治(大組外、高300石役知50石)、吉弘儀左衛門(隠居料20人扶持)
【用人】
- 水原三左衛門(附役兼務、小姓組、高150石役知150石)、十時吉兵衛(小姓組、役知250石役知50石)、吉田孫一郎(附役兼務、小姓組、高の記載なし)、吉弘貞之進(小姓組、高400石)、竹迫五郎兵衛(小姓組、高210石役知90石)、森九郎左衛門(小姓組、高200石役知100石)、幸丸勘助(小姓組、高150石役知150石)
【城使】
- 馬場善左衛門(定府、大組外、高100石役知350石)
【留守居添役】
- 西原三郎太郎(定府、大組外、高の記載なし)