武田信時
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武田 信時(たけだ のぶとき、生年不詳 - 1289年3月2日(正応2年2月9日))は、鎌倉時代中期の武将。甲斐武田氏の第7代当主。室町・戦国期の甲斐国守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖。通称は武田五郎次郎。
父は第6代当主・武田信政。兄弟に政綱(五郎三郎)[1]。子に武田時頼、武田政頼、武田時綱、武田信実などがいる。
生涯
信時の祖父にあたる武田信光は文治5年(1189年)の奥州合戦において安芸国への出陣催促を行っており、平家討伐後には西国へも鎌倉幕府の影響力が及び、信光は安芸守護としての職権を行使していることが指摘されており(佐藤進一『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』)、承久の乱を経て再び安芸守護を在職し、文暦2年(1235年)5月9日まで在任している。
信時期の文永6年(1269年)4月には信時の守護代武藤時定の動向が見られ、同年11月には蒙古襲来(元寇)に備え御家人を率いて西国への出向を命じられている[2]。以来建治2年(1276年)まで西国における動向が見られ、信時は安芸守護に在職していたと考えられている(河村昭一『安芸武田氏』)。
正応2年(1289年)に死去し、跡を子の武田時綱が継いだ。信時は室町・戦国期の甲斐守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖で、南北朝期には信時の曾孫にあたる信武が石和流武田氏の政義を排斥して甲斐国守護を継承し、以来室町・戦国期に至るまで甲斐守護を継承している。