小山秀朝
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小山 秀朝(おやま ひでとも[1]、生年不詳 - 建武2年7月13日(1335年8月2日)[1])は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。小山貞朝の子[1]。官位は大夫判官[1]。小山氏第8代当主。初名は小山高朝(たかとも)[1]。
生涯
下野国小山城を領していた大名で、初めは北条氏に従っており、北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第14代執権・北条高時より偏諱を受けて高朝と名乗っていた[2]。
元徳3年/元弘元年(1331年)の元弘の乱の際には、幕府軍の一員として後醍醐天皇の笠置城攻めや楠木正成の下赤坂城攻めに参加し、功を挙げた[1]。しかし正慶2/元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉攻略の兵を興すと寝返ってこれに応じ、幕府を滅ぼすのに一躍買った(東勝寺合戦)[1]。その功績により、後醍醐天皇の建武政権下では下野守に任じられた[1]。尚、具体的な年は不明だが、北条氏からの「高」の字を棄てて秀朝に改名したのもこの頃とみられる[3]。
だが、建武2年(1335年)に高時の遺子・北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉に攻め入ろうとすると、武蔵国府中でこれを迎撃しようとしたが、北条軍の猛攻の前に大敗を喫して、同年7月13日に戦死した[1]。
秀朝の死後、小山氏の家督は子の小山朝郷(ともさと、初め常犬丸・朝氏)、小山氏政の順に継承された。
脚注
参考文献
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 安田、1990年、p.113。
- ↑ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163))、その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されている(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)(→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)。よって、地域棟梁格の有力御家人であった小山氏(菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年)もその統制下にあり、足利氏のケース(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年))と同様に、宗長が北条時宗、貞朝・貞光兄弟が北条貞時、高朝が北条高時から1字を拝領したと考えられる。足利氏において通字の「氏」が付かない足利家時について「時」の字が北条氏からの偏諱であることが指摘されており(小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)、p.131))、「時」を通字としない小山氏においても、宗長の父である時長が同じケースと考えられ、年代的に北条経時か北条時頼から賜ったものとみられる。
- ↑ 同じ時期には足利尊氏(高氏)・足利直義(高国)、長井挙冬(高冬)なども同様に改名している。