細川顕氏
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細川 顕氏(ほそかわ あきうじ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。細川氏の一門。細川頼貞の子。
生涯
父の頼貞は細川氏の庶流の一族の一人で、中先代の乱の際に戦死したが、頼貞には顕氏、直俊、定禅、皇海の四子があり、それぞれが活躍した。
従兄弟の和氏と共に元弘の乱頃から足利尊氏に仕えて討幕運動で活躍した。1336年、尊氏の命で和氏と共に四国に渡海し、四国における諸大名や国人衆の統率に功を挙げた。その功績により、讃岐国や河内国、そして和泉国の守護と侍所の頭人に任じられ、嫡流の和氏の死後はその弟の頼春と共に細川一門を主導した。その後も尊氏に従って畿内における南朝方の勢力と戦い、多くの武功を挙げた。1350年からの観応の擾乱では同族の頼春が尊氏に味方する一方で、足利直義側に与して尊氏と敵対するが、やがて再び帰順するなど、両陣営を巧みに渡り歩くしたたかさを見せた。このとき、引付頭人に任じられた。
1352年2月、南朝方の攻勢にさらされ京が失陥した際には足利義詮を守って撤退するが(このとき頼春は戦死)、その後同年4月には北朝軍の主将として南朝方勢力と戦い勝利を収めた。しかし、同年7月5日に病死した。
顕氏の系統は、顕氏の官位・陸奥守からその後「奥州家」と呼ばれるようになった。顕氏の死後は子の繁氏の後、養子の業氏(なりうじ)が家督を継承し、細川輝経はその末裔である。