パルミーロ・トリアッティ
パルミーロ・トリアッティ(Palmiro Togliatti, 1893年3月26日ジェノヴァ - 1964年8月21日ヤルタ)はイタリア共産党の指導者。パルタイネームとして「エル・コリ」がある。
第一次世界大戦前、イタリア社会党に入党。戦後、トリノでアントニオ・グラムシの"L'Ordine Nuovo" 「新秩序」誌のグループの一員となる。
イタリア共産党創設時のメンバーで最高指導者のグラムシがベニート・ムッソリーニのファシスト政権によって投獄された後、その死までイタリア共産党の最高指導者を務めた。
フランス・スペイン・ソ連などを放浪する1930年代の亡命(その間、1935年のコミンテルン第7回大会では、統一戦線問題に関しての報告を担当している)の後、1944年にイタリアへ戻り、その指導のもとイタリア共産党をいわゆる「サレルノの転換」へ導いた。この政策転換は、イタリアの改革を議会制民主主義的手段により支援し、社会主義社会を実現するために暴力革命を引き起こすことを否定する政党への転換であった。それはパルティザンに支配された共産主義者の武装解除を意味した。サレルノの転換は他の、主に西ヨーロッパの各共産党に影響を与え、そこから生まれた共産主義の潮流は1970年代になってユーロコミュニズムと呼ばれた。またこの転換は、一般党員に支持されている位置より、より政策を右に移動させることとなり、最終的に社会民主主義政党である左翼民主主義者への転換につながった。この間、1948年7月14日議事堂から出て来た所をテロリストに襲われ、3発の銃弾を浴び重体に陥るも一命を取りとめた。
そのリーダーシップの下で、イタリア共産党はイタリアで最大の党となり、ヨーロッパで最大の統治しない共産党になった。共和制移行後のイタリアでは政権に入ることはなかった(王政末期には副首相・法務大臣を歴任していた)が、多くの地方自治体を運営し、大きな影響力を行使した。
1964年、フルシチョフ失脚後のソ連を訪問し、ヤルタで休暇中に脳内出血で急死した。ロシア中部の自動車の町トリヤッチは彼の支援でフィアットとの合弁企業アフトヴァースが成立した場所で、死後にソ連政府が彼を記念して改名した。
日本語版の著作集として、合同出版から『トリアッティ選集』全3巻、大月書店の国民文庫に『平和論集』『婦人問題講話』『統一戦線の諸問題』、青木文庫に『アントニオ・グラムシ』『コミンテルン史論』がある。