森本一久
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テンプレート:出典の明記 森本 一久(もりもと かずひさ、永禄3年(1560年) - 慶長17年6月11日(1612年7月9日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名は力士。父は森本一慶で、子に森本一友、森本一房。通称は森本儀太夫(森本義太夫とも)。
生涯
永禄3年(1560年)、摂津の国人・森本一慶の子として誕生。
若い頃より加藤清正に仕え、飯田直景、庄林一心と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣であった。朝鮮出兵の際、第二次晋州城攻防戦において飯田直景と共に亀甲車なる装甲車で城の石垣を破壊し、黒田長政の配下で黒田八虎に挙げられる後藤基次と争いながらも一番乗りを果たし、その功により豊臣秀吉から「義」の字を与えられたという。また、土木普請も得意で、隈本城築城、江戸城築城にも才をなした。
慶長17年(1612年)、死去。
嫡子の森本一友は、加藤家二十四将に数えられる武勇の士で天草一揆鎮圧にも活躍した。加藤家改易後、5,100石で細川熊本藩に仕官した。次男の森本一房はカンボジア・アンコールワットへの落書で知られる。