野田山
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野田山(のだやま)は、石川県金沢市の市街地からほど近い山である。
頂上近くに国土地理院の三等三角点(「野田山」と命名)があり、その標高は175.09mだが、山の最高点はここから南東方にあり、地形図の等高線から標高180mを越えると考えられる。
頂上付近にはリンゴ園があり、市街地に面した北側のなだらかな斜面には野田山墓地が広がる。麓には大乗寺がある。
野田山墓地
1587年(天正15年)前田利家が兄利久を葬ったのが始まり。その後利家本人もここに葬られ前田氏の墓所となり、さらに家臣、町人、百姓など身分、宗派に関わらぬ墓地となった。現在は概ね前田家墓所、市営墓地、及び石川県が陸軍から引き継いだ戦没者墓地の3つのエリアに分別される。
前田家墓所
加賀藩の藩主であった前田氏の墓所である。江戸時代の大名家の墓所としては、会津藩の物に次ぐ規模を持つ。殉死者の墓もこのエリアに含まれる。
市営墓地
金沢市が管理する。明治時代に金沢を離れた人たちの先祖の墓が近年無縁墓となるケースが急増しており調査が進められている。ここに葬られている人たちには
などがいる。
戦没者墓苑
戊辰戦争から太平洋戦争の主に陸軍関係者の墓地であるが、日露戦争のロシア人捕虜たちも、このエリアに葬られている。1962年から石川県が管理している。
その他
朝鮮人独立運動家尹奉吉の慰霊塔が、処刑後その死体が埋められていた陸軍墓地通路近辺に、在日朝鮮人によって設けられている。
野田山三角点古墳
三角点が立つ微高地は「野田山三角点古墳」[1]に指定されている。
直径42mの円墳で、北加賀では最大級の規模を持つが、周囲との比高は2~3mと、直径に比して低平な墳丘である。尾根側には幅8mの溝、斜面には幅1.5mのテラス状整形を施すことで周囲との境としている。
年代を確認する遺物資料を得ていないが、低平な墳丘から、定形化古墳が出現する以前の4世紀段階の所産と考えられている。
脚注
- ↑ 「北加賀地域古墳群分布調査報告」『石川考古学研究会々誌 第22号』石川考古学研究会(1979年)