支援戦闘機

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ファイル:Mitsubishi F-2 landing.JPG
現行のF-2。主任務である海上攻撃の為、洋上迷彩を施す。

支援戦闘機(しえんせんとうき)は、かつて用いられていた航空自衛隊の機体種別で、自衛隊用語の一つ。後述の理由により、『攻撃』という単語を使用できなかったため、地上部隊(陸上自衛隊)や艦隊(海上自衛隊)を空から「支援」する、ということにより名づけられた、戦闘攻撃機に相当する種別である。英語ではFighter Supporterとされ、略称にFSを用いる。

歴史

日本における「支援戦闘機」の歴史は、日本の「戦闘機国産化」の願望を実現するべく歩んだ歴史とも言える。

空から地上または海上を攻撃することの高い有効性は、第二次世界大戦において証明されたが、敗戦後の日本に発足した自衛隊は「専守防衛」「諸外国への配慮」「国内世論対策」と言った政治事情のため、高い対地・対艦攻撃能力を持つ航空機の導入は長く踏みとどまらざるを得なかった。同じく、戦前に多数の戦闘機を作った日本だったが、技術的或いは政治的な事情により、戦後長く戦闘機の自主開発を行う機会に恵まれず、戦闘機を国内開発できる総合的な防衛力を考えた際、「戦闘機国産化」は多くの防衛・航空関係者が望むところであった。この「攻撃機不在の解消」と「戦闘機国産化」の願望が、戦後30年近い時勢の中で、実現できる環境へと変化していった。

「支援戦闘機」誕生における直接のきっかけは、F-104Jの配備で余剰となったF-86Fをどのように扱うかに端を発する。航空自衛隊の戦闘機は、1965年昭和40年)にはF-86F、F-86D、F-104J/DJあわせて19個飛行隊が存在し、F-86Dは早期に退役したものの、アメリカ軍供与機180機にライセンス生産300機の計480機を取得し、多すぎるからと供与機から45機を返還したF-86Fは、未だ10個飛行隊を占めていた。このうち、供与機と初期の国産機は退役するが、それ以外の機体は耐用年数に達しておらず、主力戦闘機として230機の大量調達を行うF-104配備後の処遇が問題となった。

そこで、本来は航空格闘用に製作されたF-86Fに、対地攻撃能力を付与して攻撃機とする事としたが、専守防衛を掲げる日本で、「攻撃」という積極的な名は避けられ、「支援戦闘機」という名称に定められた。「支援戦闘機」部隊としての「指定」は北部航空方面隊中部航空方面隊西部航空方面隊に各1隊ずつ3個飛行隊に行われたが、当時から「ただでさえ足りない戦闘機を任務ごとに分けるな」「支援戦闘機であっても要撃戦闘飛行隊を補佐し、対戦闘機戦闘や要撃任務を遂行せよ」などという声は根強かった事もあり、これらのF-86F飛行隊は支援戦闘飛行隊として再編制されたわけではなく、要撃戦闘飛行隊に「支援戦闘飛行隊としての任務を付与」する体裁をとっており、あくまで本業は要撃戦闘であり、支援戦闘機部隊としての指定を受けていても、対領空侵犯措置任務は継続して行っていた。このため、「戦闘機」の能力も名称も維持されているわけである。

1976年(昭和51年)10月に閣議了承された、平時における日本の防衛力を定めた「防衛計画の大綱」(防衛大綱)において、「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機」と決定されたが、上記の経過が根拠となっている。航空自衛隊にしてもオペレーションリサーチの明白な結果によって支援戦闘飛行隊3個という数字を出したわけではないが、F-1やF-2において「攻撃機」だけでなく「戦闘機」としての能力が要求される所以も、この支援戦闘機隊の成立の経緯と深く関わっている。この防衛大綱によって、支援戦闘機の必要数は3個飛行隊100機と決定され、三沢基地の第3・第8飛行隊と築城基地の第6飛行隊に所属するF-86Fに「支援戦闘機」としての任務が付与された。

しかし、空戦に特化して開発されたF-86の対地・対艦攻撃能力は、「支援戦闘機」と指定される以前から限定運用していたとは言え、たかが知れたもので、早期に後継機が求められた。というより、防衛大綱は戦闘機の国内開発と現状をすり合わせる意味合いが大きく、主力戦闘機の国内開発は技術・能力的、或いは政治的に不可能な状況の中、総合防衛力として理想的な戦闘機国産化を実現するため、能力を限定した機体を自衛隊に配備できる環境を作ったわけである。

ファイル:F-1Support fighter01.jpg
『支援戦闘機』として最初に作られたF-1。全機が陸上迷彩を施された。
ファイル:自衛隊F4戦闘機01.jpg
F-1とF-2の「つなぎ」として配備したF-4EJ改

F-86Fの後継機三菱 F-1(FS-T2改)の開発は51年防衛大綱の以前の1972年(昭和47年)に始まっており、1977年(昭和52年)に配備が開始された。F-1は国産のT-2超音速練習機から発展したが故に、機体の能力は限定的なもので、戦闘機としての空対空格闘能力はほとんど無く、同時開発された80式空対艦誘導弾(ASM-1)による艦船への一撃必殺を主任務とした。調達数は126機を計画されたが次々に削減され、3個飛行隊は維持されたものの、77機の配備に留められた。また機体の能力向上は図られず、すぐに陳腐化してしまった。

次いで、F-1後継機として三菱 F-2A/B(FS-X)の開発にかかるが、様々な経過によって配備までに時間がかかり、F-1の耐用年数を迎えたため、F-2配備までの暫定措置として、F-15J/DJの整備で余剰となったF-4EJ要撃機を配備して1個飛行隊を転換した。F-4EJ改は、元来陸上・海上攻撃能力を持つF-4を日本が採用する際、「諸外国への配慮」から空戦能力のみに限定されたものを、能力向上を図る近代化改修(90機対象)に合わせて対地対艦攻撃能力を回復させたものであり、よって改修後に配備された要撃飛行隊の機体と支援飛行隊の機体に能力の差は無い。

F-2の完成により、2個F-1飛行隊はF-2によって転換され、次いでF-4EJも転換された。また、T-2が配備されていた1個教育飛行隊がF-2Bに転換されたことにより、支援戦闘飛行隊は実質4個飛行隊となっている(ただし教育飛行隊は実働任務には就かない)。F-2はアメリカ合衆国の小型戦闘機F-16を基本に、米国と共同開発されたもので、元々優れた空中戦能力に、日本の求める対地対艦攻撃能力を加える為、機体全般を改修し、また新技術を多数投入した。空戦能力を持つ小型機ながら、大型対艦ミサイル4発を運用できる能力は世界に類を見ない。しかし、それ故に開発と試験に長時間を必要とし、開発費の高騰によって高額な戦闘機となった。その価格を主な理由に、130機の導入計画は次々に削減され、最終的に試作機4機を含めて98機の生産となった。

21世紀に入り、防衛省では将来的に、飛行隊の数を維持しつつも、要撃と支援の区別を廃止し、全機種をマルチロールファイター(多用途戦闘機)とする方針を発表し、平成17年に改定された防衛大綱から正式に要撃機と支援戦闘機の区分を廃止した[1]。近年F-2はマルチロール化のための空戦能力向上が図られており、F-4EJ後継機についても多用途戦闘機であるF-35が選定された。

歴代機種と配備期間

飛行隊

出典

  1. 2005年版防衛白書 第2章わが国の防衛政策の基本と新防衛大綱、新中期防など

関連項目