ミル・マスカラス
ミル・マスカラス(Mil Máscaras、本名:Aaron Rodríguez、1942年7月15日 - )は、メキシコのプロレスラー。
「千の顔を持つ男」「仮面貴族」などのニックネームを持つ。入場テーマ曲はジグソーの『スカイ・ハイ』。
メキシコのルチャリブレを代表するルチャドールの一人、そして世界で最も著名な覆面レスラーの一人として、華麗な空中殺法で人気を博した。
来歴
学生時代からレスリングとボディビルに熱中。レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。1964年4月に仮デビュー、1965年7月大キャンペーンの後、メキシコの大会場アレナ・メヒコでデビュー。空手や柔道なども日本から遠征して来た渡辺貞三から習った。
1968年から1971年にかけてはアメリカのNWAロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)を主戦場に活動し、バディ・オースチン、ザ・シーク、ジョン・トロスらを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座(WWA世界ヘビー級王座の実質的な後継タイトル)を通算4回獲得[1]。1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した[2]。同地区ではアーニー・ラッドやブル・ラモスなどの巨漢ヒールとも抗争を展開しており、ラモスとの抗争は髪と覆面を賭けて闘うカベジェラ・コントラ・マスカラ[3]やチェーン・デスマッチにまで発展している[4]。なお、ロサンゼルス時代のマスカラスは絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから、日本においては "悪魔仮面" などと呼ばれていた[5]。
1970年はロサンゼルスを一時離れ、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス東部のNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦。同地区のトップ・ヒールだったジョニー・バレンタインをはじめ、キラー・カール・コックス、グレート・マレンコ、マイケル・シクルナ、キラー・コワルスキーらと対戦し、タッグではワフー・マクダニエルとのコンビで活躍した[6]。
初来日は1971年2月の日本プロレス。スパイロス・アリオンと組んでジャイアント馬場&アントニオ猪木のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、猪木とのシングルマッチも行われた。1973年10月からは全日本プロレスに参戦し、ジャンボ鶴田やザ・デストロイヤーと好勝負を展開。1977年8月25日に田園コロシアムにて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した試合は、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。全日本では1970年代後半から1980年代前半にかけて、『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに例年参戦しており、ドス・カラスとの兄弟コンビでの来日は全日本プロレスの「夏の風物詩」ともいわれた。1980年9月12日には、全日本のリングでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[7]。
1986年1月の来日を最後に全日本プロレスへの登場が途絶えていたが、2000年に三沢光晴らの大量離脱が起こった後、再び参戦を開始。2006年9月には大阪プロレスに登場した。近年では2009年3月の『仮面貴族FIESTA2009〜ミル・マスカラス華麗ナルゴールデンタイム伝説〜』に来日し、初代タイガーマスクとタッグを組んで藤波辰爾&グラン浜田と対戦している。さらに女子プロレスながら70歳を過ぎてもスターダムに参戦している[8]。
また、マディソン・スクエア・ガーデンにおける「覆面レスラーはマスクを脱いで素顔で出場しなければならない」という理不尽な決まりを、1972年12月18日に素顔のザ・スポイラーとの対戦[9]にて破り、初めて覆面を被ったままMSGに登場した人物である。ニューヨークのWWFには1970年代から1990年代にかけて不定期に単発参戦し、1978年には当時のWWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムにも挑戦。同年1月23日のMSG定期戦で行われたタイトルマッチでは、ボブ・バックランドがマスカラスのセコンドを務めている[10]。
1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米侵攻サーキットにも、中西部地区のビッグイベントを中心に出場[11]。同年6月15日にはセントルイスのキール・オーディトリアムにてS・D・ジョーンズをパートナーに、ディック・マードック&アドリアン・アドニスが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦している[11]。1997年1月19日には、メキシカン人口の多いテキサス州サンアントニオで行われたロイヤルランブル(第10回大会)にも出場した[12]。
アメリカや日本のみならずヨーロッパにも遠征しており、1974年10月には西ドイツ(当時)のミュンヘン・トーナメントに参加。同年8月に新日本プロレスでデビューしたばかりの吉田光雄やローラン・ボックと対戦した(吉田には勝利し、ボックには敗退。トーナメントの戦績は7勝3敗1分の第4位)[13]。
俳優としても活動しており、これまで20本以上の映画(ルチャシネマ)に出演している。日本では『愛と宿命のルチャ』がBOX東中野で公開され、TBSの深夜映画枠で『ミル・マスカラスの幻の美女とチャンピオン』が放映されたことがある。2007年には久々に主演作品 "Mil Mascaras Versus The Aztec Mummy" (『ミル・マスカラス対アステカのミイラ』)が製作・公開された[14]。
2011年10月16日、メキシコのパラシオ・デ・ロス・デポルテスで行われたWWEのスマックダウン収録に登場。2012年にはWWE殿堂に迎えられ、甥のアルベルト・デル・リオが殿堂入り式典のインダクターを務めた。
「千の顔を持つ男」
試合毎にマスクを変えることから "千の顔を持つ男" と呼ばれた。リングネームはスペイン語で「千の仮面(マスク)」という意味である。日本で試合に出場した時には複数枚のマスクを用意して、リングに入場する際、マスクの上に別のマスクを更に被り(オーバーマスク)、そのオーバーマスクを投げファンにプレゼントするパフォーマンスが人気を集めたほか、全日本プロレス中継の視聴者プレゼント用にもマスクを提供するということもした。また、別のマスクを被る時は顔を隠しながらアゴのあたりからスルッと(2枚のマスクで頭を包むようにして)被り直す特技もあり、絶対に素顔を晒さなかった。
親族
実弟に同じくプロレスラーのドス・カラス、エル・シコデリコ(エル・サイコデリコ)がおり、ドス・カラスとは兄弟での来日も多い。
甥のドス・カラス・ジュニアとシコデリコ・ジュニア(サイコデリコ・ジュニア)は共にプロレスラーとなっており、ドス・カラス・ジュニアは総合格闘技を経て、アルベルト・デル・リオのリングネームでWWEにて活躍している。
得意技
- フライング・クロス・チョップ(フライング・クロス・アタック)
- ダイビング・ボディ・アタック
- ドロップキック
- プランチャ・スイシーダ
- ロメロ・スペシャル
- ヘッドシザーズ・ホイップ
- メキシカン・ストレッチ
- サーフボード・ストレッチ
獲得タイトル
- ナショナル・ライトヘビー級王座 : 2回
- NWAハリウッド・レスリング
- NWAアメリカス・ヘビー級王座 : 4回
- NWAアメリカス・タッグ王座 : 2回(w / アルフォンソ・ダンテス、レイ・メンドーサ)
- IWA
- IWA世界ヘビー級王座 : 1回(国際プロレスが認定していた同名の王座とは別物。1970年代中盤に活動していたアメリカ北東部の独立団体の認定タイトルだったが、団体崩壊後もマスカラスの虎の子のタイトルとして、長期間にわたって防衛戦が続けられた。日本でも1980年代に、チャボ・ゲレロ、ジプシー・ジョー、天龍源一郎、マイティ井上らの挑戦を受けたことがある)
- WWAヘビー級王座 : 1回
- ALLL
- HWP
- HWPアメリカ王座 : 1回
- NWA殿堂 : 2009年度
- WWE殿堂 : 2012年度
入場テーマ曲
- 全日本プロレスで使用されたのは、映画主題歌としての「メインタイトル」バージョンである。他団体参戦時には、アップテンポなシングルカット版も使われた。
脚注
外部リンク
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- ↑ 『別冊ゴング 1978年5月号』 P134-137 / ミル・マスカラス思い出の名勝負 海外編3(1978年、日本スポーツ出版社)
- ↑ 『Gスピリッツ Vol.18』 P66-67 / ミル・マスカラスが「悪魔仮面」と呼ばれた時代(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808661)
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- ↑ 11.0 11.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ 『Gスピリッツ Vol.23』 P76-77(2012年、辰巳出版、ISBN 4777810054)
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