前田宗辰

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前田 宗辰(まえだ むねとき、享保10年4月25日1725年6月5日) - 延享3年12月8日1747年1月18日))は、加賀藩の第6代藩主。加賀前田家7代。先代藩主前田吉徳の長男。母は側室の浄珠院(以与・上坂氏)。幼名は勝丸、犬千代。通称は又左衛門。初名は利勝(としかつ)。正室は会津藩松平正容の娘・常姫(梅園院)。続く4代の藩主重煕重靖重教治脩の異母兄・長兄にあたる。

来歴

享保10年(1725年)、金沢の金谷御殿にて生まれる。幼名は勝丸。同年松平の名字を与えられる[1]元文元年(1736年)9月江戸に上り、翌年4月、名を犬千代と改めた後、又左衛門と改め諱を利勝とする。6月、正四位下左近衛権少将に任じられ、佐渡守と称し、将軍徳川吉宗より偏諱を賜って宗辰と改めた。延享元年(1744年)4月、会津藩主松平正容の娘・常姫と結婚。延享2年(1745年)、延享2年(1745年)6月、父吉徳の死により家督を継ぐ。10月左近衛権中将となり、加賀守と称する。11月、正室常姫が男子を出産するが、母子ともに死亡。父や妻の後を追うように翌延享3年(1747年)12月、22歳の若さで死去した。その跡を宗辰の次弟の利安(重煕)が継いだ。

法名は大応院殿梅観雪峯大居士。

脚注

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  1. 村川浩平『日本近世武家政権論』