溝口宣勝
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溝口 宣勝(みぞぐち のぶかつ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。越後国新発田藩の第2代藩主。
生涯
天正10年(1582年)若狭国高浜(現福井県高浜町)に生まれる。はじめ父・溝口秀勝と共に豊臣秀吉に仕え、慶長2年(1597年)に秀吉の偏諱を受けて秀信と称す。のち宣勝と改める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、上杉景勝に扇動された越後一揆を父とともに制圧した。
慶長15年(1610年)、父の死により跡を継いだ。このとき、溝口氏は6万石の大名であったが、宣勝は相続にあたって弟の善勝に1万2000石を分与して沢海藩を立てさせたため、新発田藩の石高は5万石となった(2000石分は新田開発によるもの)。このとき善勝は、生前に父から分与されていた5000石の領地を兄・宣勝に返し、自らはわずかの領地を改めて分与されたいと申し出たが、宣勝は「自分は家督を継いで国元に行くが、善勝は江戸に留まるので領地が少なくては奉公を勤められない」と言って承知しなかった。これを聞いた徳川秀忠は感心して、上述の通りの分与を申しつけたというエピソードが伝わっている。
宣勝は治世を通じて積極的な新田開発を行ない、1万5500石を新たに得た。宣勝の死後、この1万5500石は次男・宣秋、三男・宣俊、四男・宣知の3人の息子にそれぞれ分与され、嫡男の宣直が継いだ新発田藩の石高はやはり5万石であった。
慶長20年(元和元年/1615年)の大坂の役では松平忠輝に属して出陣した。寛永5年(1628年)10月29日、江戸において47歳で歿して江戸神田の吉祥寺(のち駒込に移り東京都文京区本駒込に現存)に葬られ、同寺は江戸における同家代々の葬地となった。