第一次ベララベラ海戦
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 第一次ベララベラ海戦 | |
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 300px テンプレート:Small | |
戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争 | |
年月日:1943年8月17日 | |
場所:ソロモン諸島、ベラ湾 | |
結果:日本軍の輸送は成功 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 | テンプレート:USA1912 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 伊集院松治大佐 | トーマス・J・ライアン大佐 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 駆逐艦4 補助艦艇および司令官艇など約20 |
駆逐艦4 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 補助艦艇4沈没 駆逐艦2小破 |
なし |
テンプレート:Tnavbar |
第一次ベララベラ海戦(だいいちじベララベラかいせん、テンプレート:Lang-en)とは、太平洋戦争中の1943年8月17日にソロモン諸島ベラ湾で発生した海戦。アメリカ軍側の呼称は、ウィキペディア英文版では前記のようにホラニウ海戦としているが、特に記していない資料もある[1]。
背景
テンプレート:Seealso テンプレート:Seealso 7月5日以降のニュージョージア島での戦いでアメリカ軍は、度重なる苦戦や上陸部隊指揮官の入れ替え、可能な限りの予備兵力の投入などを経て[2]、8月5日にはムンダ飛行場の占領に成功。しかし、ニュージョージア島に残っていた日本軍はその後も数週間にわたってアメリカ軍を翻弄し、一部兵力は敵わないと見るやコロンバンガラ島へ逃れて同島の防備隊に加わった[3][4]。第3艦隊(南太平洋部隊)司令官ウィリアム・ハルゼー大将やその幕僚たちは、ムンダ占領には一応の満足を示したものの、その経過については極めて不満であり[4]、これ以上ジャングルでの戦闘を重ねるべきではないという考えすら芽生えていた[5]。次の攻略目標はコロンバンガラ島テンプレート:仮リンクにある日本軍飛行場であったが[3]、増援が重ねられていたコロンバンガラ島の兵力は相当なものであると見積もられていた[3][5]。そこでハルゼー大将は、アリューシャン方面の戦いでキスカ島より西方のアッツ島を攻略した先例に倣い、コロンバンガラ島を無視して、その西方にあり防御が手薄なベララベラ島を攻略することに決めた[3][6]。ハルゼー大将は作戦計画変更のため、南西太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサー大将の下にオーブリー・フィッチ少将を派遣して作戦計画変更の承認を何とか取りつけ、ベララベラ島攻略が正式に決まった[7]。
8月15日、セオドア・S・ウィルキンソン少将率いる第三水陸両用部隊は、占領したばかりのムンダ飛行場に配備された戦闘機部隊の援護の下、ベララベラ島南端のビロア地区に約6,000名の部隊を上陸させた[8][9]。ベララベラ島の日本軍の守備隊は600名だったばかりか[8]、上陸地点の地区には配備させていなかった[8]。日本軍は基地航空隊による攻撃を行ったが、ほとんど戦果はあげられなかった[10]。上陸したアメリカ軍は陣地を構築し、シービーズが飛行場の建設を始めた[11]。やがて、アメリカ軍に対する反撃がないと確信すると、上陸部隊は海岸沿いに二手に分かれて戦線を北上させ、またニュージーランド軍部隊を呼び寄せて戦力の増強を行った[8]。
ベララベラ島上陸は、日本軍の防衛計画を根本から揺るがせることとなった。コロンバンガラ島への兵力増強策が、ブーゲンビル島防衛強化の時間稼ぎにつながっていたものが[8]、ブーゲンビル島と海峡一つ隔てたベララベラ島[12]にアメリカ軍が上陸したことで、ブーゲンビル島やショートランド諸島が直接の脅威に晒される可能性が極めて大きくなった。これに対し日本軍は、ベララベラ島北東のホラニウへ陸軍部隊と海軍陸戦隊を送り込む事を決める[13]。陸軍部隊は、ラバウルからブインに送られた、第六師団(神田正種中将)から派遣された二個中隊をあてる事とした[13]。
参加艦艇
日本海軍
- 警戒隊:艦載水雷艇1隻[13]、武装大発2隻[13]、第5号駆潜特務艇[15]、第12号駆潜特務艇[15]、陸軍装甲艇1隻[13]
- 輸送隊:艦載水雷艇3隻[13]、陸軍大発10隻[13]、海軍大発3隻[13]
アメリカ海軍
戦闘経過
8月17日3時、夜戦部隊の駆逐艦4隻はラバウルを出撃[17]。ブーゲンビル島の東を通ってベララベラ島近海へと向かう[17]。輸送隊は同日7時にブインを出撃[13]。21時ごろに夜戦部隊と輸送部隊はベララベラ島北東海面で合同するが、夜戦部隊はこの少し前に夜間爆撃を受けたものの撃退[17][18]。輸送部隊は順調にホラニウに向かい、8月18日1時ごろには入泊可能と判断された[17]。
輸送部隊がホラニウに向かっている頃の22時32分、「漣」はベラ湾の方向約15,000メートル先に「ポートランド級重巡洋艦あるいはアトランタ級軽巡洋艦4隻を含む敵艦隊を発見[13][17]。直ちに集結を令し、敵艦隊、すなわち第41駆逐群を北方へと誘い込むべく行動を起こすも、先の夜間爆撃により単艦行動状態となっていて、「浜風」、「磯風」、「時雨」はそれぞれ単独で魚雷を発射するも、全て回避されて命中しなかった[17]。22時59分頃からは夜戦部隊と第41駆逐群の砲戦に移り[17]、23時11分には「磯風」が単独で二度目の雷撃を行うも、これまた命中した様子はなかった[19]。交戦は23時30分頃まで続き[17]、23時40分に戦場から去っていった[20]。戦場から去る際、「磯風」は二発の命中弾を受けて負傷者を出し、「浜風」も被弾損傷した[20][21]。夜戦部隊はショートランドを経て、8月18日13時30分にラバウルに帰投した[20]。第三水雷戦隊では、この戦闘で「大型駆逐艦又ハ巡洋艦一隻轟沈」し[20]、「駆逐艦二隻ニ命中弾各数発ヲ与」えたと判断したが[20]、実際には第41駆逐群に損害はなかった[15]。「時雨」に乗艦していた原為一と「磯風」の下士官もそれぞれ敵艦の火災を目撃し、雷撃により巡洋艦を撃沈したと報告しているが、前述のように対応するアメリカ艦艇は存在しない[22][23]。
輸送部隊は22時30分から第41駆逐群の砲火を受け、第5号駆潜特務艇と第12号駆潜特務艇、大発1隻が沈没[15]。また、艦載水雷艇1隻がホラニウ沿岸で座礁し、後刻焼却処分された[15]。また、揚陸地点にいるはずの陸戦隊が見当たらなかったので、いったん退避の上8月19日夜に揚陸を行った[15]。
海戦の後
ホラニウへの輸送は一応成功し、これを受けてホラニウ方面を確保しつつ、好機を見てベララベラ島上陸部隊を撃滅するという方針が確認された[24]。しかし、上陸部隊が9月上旬から進撃を開始するとベララベラ島の戦況は一気に悪化する事となった[25]。ベララベラ島の日本軍は舟艇などによる補給輸送がことごとく妨害され、水上偵察機によってわずかに補給を受けているに過ぎず[25]、兵力も圧倒的なアメリカ軍およびニュージーランド軍の圧迫により徐々に減少して、その運命は時間の問題と考えられるようになっていった[25]。
脚注
参考文献
- 『自昭和十八年八月一日至昭和十八年八月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』 第三水雷戦隊司令部、C08030105900(『第三水雷戦隊戦時日誌』)
- 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- 海軍水雷史刊行会(編纂)『海軍水雷史』海軍水雷史刊行会、1979年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
- C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
- 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8
- 原為一『帝国海軍の最後』(河出書房、1962)102-108頁。</br> 第27駆逐隊司令官として時雨に乗艦。
- 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』(光人社、1999年)70-73頁
- ↑ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ↑ ニミッツ、ポッター、167ページ
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 ニミッツ、ポッター、168ページ
- ↑ 4.0 4.1 ポッター, 363ページ
- ↑ 5.0 5.1 ポッター, 365ページ
- ↑ ポッター, 366ページ
- ↑ ポッター, 366、367、368ページ
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 ニミッツ、ポッター、169ページ
- ↑ 『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030105900, pp.21
- ↑ 佐藤, 89ページ
- ↑ ポッター, 368ページ
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 13.5 13.6 13.7 13.8 13.9 『戦史叢書96』267ページ
- ↑ 『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030105900, pp.22
- ↑ 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 『戦史叢書96』268ページ
- ↑ 木俣, 354ページ
- ↑ 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 17.6 17.7 『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030105900, pp.22
- ↑ 原為一『帝国海軍の最後』102頁
- ↑ 『海軍水雷史』544ページ
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030105900, pp.23
- ↑ 木俣, 356ページ
- ↑ 原為一『帝国海軍の最後』106頁
- ↑ 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』72頁
- ↑ 『戦史叢書96』264ページ
- ↑ 25.0 25.1 25.2 『戦史叢書96』304ページ