ミハイル・ホドルコフスキー
テンプレート:Infobox 人物 ミハイル・ボリソヴィチ・ホドルコフスキー(テンプレート:Lang-ru、ラテン文字転写の例:Mikhail Borisovich Khodorkovskii、1963年6月26日 - )は、ロシアの実業家、企業家。石油会社ユコス社の元社長。新興財閥(オリガルヒ)のひとり。
経歴
財閥形成
ユダヤ系ロシア人としてモスクワに生まれた。モスクワ化学技術大学卒業。コムソモール書記となる。
1988年、コムソモールの組織を土台として、メナテップ(部門間科学技術プログラム)グループを設立。ソ連ジルソツ銀行と合同し、同年12月、科学技術進歩商業革新銀行を設立し、同行は1990年、メナテップ銀行(バンク・メナテップ)と改称して、同行を中心にメナテップ・グループを拡大する。メナテップ銀行は、ソ連共産党の隠れ資産の運用・資金移転を実行していたとも言われる。1992年のエゴール・ガイダル、アナトリー・チュバイスが主導したバウチャー方式の民営化と、1995年に実施された株式担保型民営化の過程で多数の企業を取得し、同銀行を中心とする巨大な持株会社を形成した。
1995年9月、グループ管理会社として「ロスプロム」を設立。メナテップ・グループは、外国為替取引や国債運用でグループの資産を増やすと同時に、ロシア国内の有望な企業に対して投資・買収を実施していった。「ロスプロム」にはメナテップ・グループの投資部門が切り離され、「ロスプロム・グループ」として一大財閥を形成する。担保入札を通じて食品、繊維、建材、金属などの企業を傘下に収める。石油会社ユコスもそのような形で吸収した企業のひとつであった。一方、メナテップ銀行は、1998年の商業銀行ランキングでロシア第5位に至るも、同年のロシア金融危機によって破綻する。しかし、グループはユコスを中心として発展していく。ホドルコフスキーは、1998年ユコス社の社長に就任。原油の対米直接輸出を開始。ルクオイルと並ぶロシア最大の石油会社にユコスは成長する。2003年4月に「シブネフチ」社を吸収合併する計画を発表する。
逮捕・収監
しかし、2003年10月に、脱税などの罪で逮捕・起訴され、ユコスの社長を辞任した。
ホドルコフスキーの逮捕・追及は、2003年後半にホドルコフスキーがプーチン大統領への批判を公言し始め、ロシア連邦共産党を含む野党に対し献金を行っていたことが直接的な原因であるが、さらにエリツィン時代に台頭したボリス・ベレゾフスキーやウラジーミル・グシンスキー等のロシアの新興財閥(オリガルヒ)を抑圧するなど、これ以上のロシア政治への関与に反対するシロヴィキを中心としたプーチン政権側の警告というのが一般的な見方である。また、ユコスとシブネフチの合併で誕生するはずだった新会社の株式40%をアメリカの石油メジャーであるエクソンモービル社に取得させる交渉をしていたことも、石油の国家管理を進めるプーチン政権の反発を招いた。
検察当局は、ホドルコフスキーに対して禁固10年を求刑した。2005年5月31日、モスクワ市メシャンスキー地区裁判所は、ホドルコフスキーに対して、禁固9年の実刑判決を言い渡した。共犯とされたメナテップ社レベジェフ会長に対しても、禁固9年の実刑判決が言い渡された。
同年9月22日、モスクワ市裁判所は、控訴審判決で、ホドルコフスキーに対し、禁固9年とした1審の判決を減刑し、禁固8年を言い渡した。また、1999年から2000年まで約170億ルーブル(約652億円相当)を脱税したとして、詐欺罪、横領罪でも有罪とされた。刑の確定により、同年12月に予定される下院補欠選挙に立候補する資格を失った。プーチン政権による事実上の立候補妨害との観測が強い。
その後シベリア・チタ州(現在はザバイカリエ地方)の刑務所に収監された。2005年10月、プーチン大統領(当時)の誕生日を前に、面会に来た親族や弁護士を通し「色々と大変でしょう、中佐殿」(プーチン氏は軍での階級は中佐で、階級の上では大佐など上司がいることになる)といった皮肉をこめた表現を織り交ぜて、誕生日を祝った。半年後の2006年4月、刑務所で他の囚人にナイフで斬りつけられた。メドヴェージェフ政権発足後の2008年7月16日、刑期の半分が過ぎたことから仮釈放を申請したが、同年7月22日、ザバイカリエ地方チタ市の地区裁判所はこれを却下した。2010年末、刑期の2017年までの延長が決定された[1]。
2011年6月、欧州人権裁判所は、一連の公判や拘置環境の中で重大な人権侵害があったとして、ホドルコフスキーに対し、ロシア政府が2万4500ユーロを支払うよう命じた。
2013年12月19日、プーチン大統領は恩赦について明言。翌20日にホドルコフスキーは釈放され[2]、同日ドイツベルリンのシェーネフェルト空港空港に到着した。釈放の舞台裏には、ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー元独外相が仲介し、ドイツ政府も協力して秘密裏に行われた活動があったと観測されている[3]。