小玉明利

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テンプレート:Infobox baseball player 小玉 明利(こだま はるとし)、1935年6月10日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手内野手)・元プロ野球監督。通称「あきとし」。

来歴・人物

プロ入り前

神崎工業高校2年生時の1953年近鉄パールスの入団テストを受ける[1]。。その際、捕手の根本陸夫に打撃の素質を見出され、根本は監督の芥田武夫に「ぜひ採用すべきだ」と進言した[1]。ところが芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには・・・」と躊躇した[1]。だが根本は「3年まで待つと他球団に取られる。」として強引に口説いた[1]。小玉は高校中退してプロ入団か、進級して高校生活を続けるか、という選択を迫られ、自ら高校を中退して入団の道を選んだ。

現役時代

プロ入り2年目となった1954年に一軍出場を果たし、以降も三塁手のレギュラーを務めた。チーム成績が思わしくなく、長打力のある打者が少なかったピストル打線と呼ばれた弱小球団の中で、小玉は1962年から1965年まで4年連続3割を記録するなど、長きにわたって巧打者として活躍。特に1958年は、チームが29勝97敗で勝率.238という成績の最下位に終わったが、小玉だけはリーグ4位の打率.301を記録した。同年はチーム打率.215で、規定打席に到達した打者の中で2割を超えている選手が小玉だけという有様だった。

近鉄では数少ない全国区のスター選手だった。1957年から1965年にかけて9年連続でオールスターゲームに選ばれる。特に1962年から1965年は4年連続ファン投票で選出され[1]1963年と1965年はリーグ最多得票での出場だった。1958年のオールスター第2戦では金田正一から左翼へソロ本塁打を放ち、1963年にも第2戦で金田から左翼へ2ラン本塁打を放った[1]。しかし活躍したときにパ・リーグが敗れることが多かったため、オールスターMVPは1度も獲得できなかった。オールスター戦通算打率は.357(42打数15安打)を記録している[1]

1965年からは兼任コーチ、1967年には3年連続最下位に低迷するチーム再建の切り札として、31歳にして選手兼任監督となった。開幕投手に鈴木啓示を抜擢した[2]。同年6月14日の阪急戦でダリル・スペンサーにヘルメットを投げて退場処分を受けている[3]。5月14日には14年ぶりに単独首位に立ったが[2]、自らが選手として出場する機会が減ったためか、チームを最下位から脱出させることはできず、近鉄はさらなる切り札として名将三原脩を招聘することとなり、小玉はわずか1年で解任された。結局、小玉が在籍中、近鉄は3位以内に入ることすらできなかった。三原の意向もあってベテランを大量に放出して体質改善を図ることになり伊藤幸男と同時に1968年に一選手として阪神タイガースへトレードされ移籍する[1]

阪神でも期待され、同年5月15日には史上初となる「代打先頭打者本塁打」を放った。しかし、1年間苦労の多い兼任監督を務めた影響もあり、選手としての実力は急激に衰えてしまった。1969年、通算2000本安打まであと37本を残して34歳で現役引退。投高打低の時代でプレーしながら打率3割を6回記録し、打率ベストテン入りを9回記録した。近鉄は2004年に球団統合によって消滅したが、小玉が近鉄で記録した1877安打は、近鉄在籍選手の最多通算安打記録である[4]。阪神時代同僚だった村山実とは幼馴染で1968年から2年間同僚だったが村山は小玉について「もし、彼が神崎工高からそのまま阪神入りしていたら、紛れもなく藤村富美男の後継者としてタイガースは変わっていたかも知れんなぁ・・・」と言っていた[1]

引退後

その後は野球界と距離を置くようになり、1度も現場に復帰することはなかった。忘れられた名選手と言える存在であったが、1999年に行われた大阪近鉄バファローズ創立50周年記念OB戦では、久方ぶりに公の場に姿を見せた。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 近鉄 132 483 439 50 116 24 7 3 163 46 13 13 9 2 31 -- 2 33 16 .264 .316 .371 .687
テンプレート:By2 129 521 493 50 143 25 4 5 191 68 10 7 3 6 18 0 1 38 17 .290 .316 .387 .704
テンプレート:By2 151 607 571 69 156 26 4 13 229 82 16 24 1 3 29 4 3 47 18 .273 .312 .401 .713
テンプレート:By2 116 467 423 45 122 19 1 10 173 72 10 6 0 5 35 4 3 36 13 .288 .347 .409 .756
テンプレート:By2 115 449 412 44 124 32 2 6 178 43 11 3 1 5 29 4 1 45 9 .301 .348 .432 .780
テンプレート:By2 131 522 482 54 141 23 2 12 204 47 12 6 2 1 37 5 0 38 23 .293 .343 .423 .766
テンプレート:By2 122 489 438 62 132 29 1 20 223 69 8 5 0 2 39 8 4 47 18 .301 .364 .509 .873
テンプレート:By2 138 572 520 61 153 42 1 9 224 43 7 8 2 2 45 6 2 43 17 .294 .353 .431 .784
テンプレート:By2 121 498 468 59 147 24 7 5 200 59 11 8 2 1 26 1 1 34 15 .314 .352 .427 .779
テンプレート:By2 145 584 539 70 165 30 3 8 225 57 13 7 3 5 33 1 3 43 18 .306 .350 .417 .767
テンプレート:By2 140 565 516 68 157 25 2 12 222 51 5 9 2 2 40 2 5 31 17 .304 .360 .430 .790
テンプレート:By2 127 478 431 52 131 21 2 13 195 50 5 1 0 2 44 3 1 28 13 .304 .370 .452 .822
テンプレート:By2 121 469 428 36 105 18 3 4 141 32 5 2 3 2 36 0 0 23 9 .245 .304 .329 .633
テンプレート:By2 102 329 310 27 85 11 4 5 119 39 4 6 0 1 14 2 3 27 11 .274 .312 .384 .696
テンプレート:By2 阪神 108 339 306 34 65 8 1 5 90 25 5 0 5 1 26 2 1 43 11 .212 .276 .294 .570
テンプレート:By2 48 107 99 8 21 1 0 0 22 5 0 0 0 1 7 0 0 14 4 .212 .264 .222 .486
通算:16年 1946 7479 6875 789 1963 358 44 130 2799 788 135 105 33 41 489 42 30 570 229 .286 .336 .407 .743
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算監督成績

  • 132試合 59勝71敗2分 勝率.454

表彰

記録

背番号

  • 52 (1953年 - 1954年)
  • 2 (1955年 - 1967年)
  • 3 (1968年 - 1969年)

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:パシフィック・リーグ ベストナイン (三塁手)

テンプレート:大阪近鉄バファローズ歴代監督
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 ベースボールマガジン、2012年7月号、P66-P67
  2. 2.0 2.1 『週刊プロ野球データファイル』2012年59号、ベースボール・マガジン社、P34
  3. 日本プロ野球事件史―1934ー2013、ベースボール・マガジン社、2013年、P110
  4. 週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ