霍弋
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霍 弋(かく よく、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋にかけての武将。蜀漢・西晋に仕えた。字は紹先。父は霍峻。子の名は不詳。孫は霍彪。
生涯
姓名 | 霍弋 |
---|---|
時代 | 三国時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 紹先(字) |
本貫・出身地等 | 荊州南郡枝江県 |
職官 | 太子舍人〔蜀漢〕→丞相記室〔蜀漢〕</br>
→黄門侍郎〔蜀漢〕→太子中庶子〔蜀漢〕</br> →參軍・庲降副貳都督〔蜀漢〕</br> →護軍〔蜀漢〕→永昌太守〔蜀漢〕</br> →監軍・翊軍将軍・領建寧太守〔蜀漢〕</br> →安南将軍〔蜀漢〕→南中都督〔曹魏〕 |
爵位・号等 | 列侯〔曹魏〕 |
陣営・所属等 | 劉備→劉禅→曹奐 |
家族・一族 | 父:霍峻 伯父:霍篤 孫:霍彪 |
諸葛亮にその才能を認められ、若い頃は諸葛亮の養子であった諸葛喬と共に、見聞を広めるため旅をした。諸葛亮の死後に黄門侍郎となった。また、皇太子劉璿の太子中庶子(補佐役)にもなり、父と同じく遊び呆けていた劉璿を諌めている。その後、永昌太守となり反乱を鎮圧したため、監軍・翊軍将軍・建寧太守となり、益州南部の軍政を統括した。蜀が滅亡した時、霍弋は蜀への忠義をなおも貫こうと考え降伏を躊躇ったが、劉禅が東に移ったと聞いたため、6郡の太守・大将を率いて魏に降伏した。
降伏後は、司馬昭にもその才能を認められて信任を受けた。264年、交州で魏・呉の間に緊張が起きた時、南中都督に任じられ南蛮の地の平定に尽力した。また交州の交趾・九真・日南の3郡をも平定して、列侯に封じられた。
孫は後に越嶲太守となったという。
参考文献
- 『三国志』蜀書11霍峻伝(付・霍弋伝)テンプレート:Asboxテンプレート:Chinese-history-stub