紀元前318年
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テンプレート:Yearbox 紀元前318年は、ローマ暦の年である。当時は、「フラッキナトールとウェンノが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元436年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前318年と表記されるのが一般的となった。
できごと
マケドニア帝国
- アンティゴノスが、アジア全域の支配者になることを決意し、カッサンドロス、プトレマイオスと連合した。アンティゴノスはエウメネスにも連合を持ちかけたが、エウメネスは王家への忠誠を守った。エウメネスは決起し、東方のサトラップ(太守)たちと同盟を結んだ。次いで、エウメネスはアンティゴノス側からバビロンを奪取した。
- アンティゴノスはエウメネスに向かった進軍し、エウメネスは東方へ退き、チグリス川東岸のサトラップたちと合流した。
- プトレマイオス、アンティゴノスと結んだカッサンドロスは、帝国摂政ポリュペルコンに宣戦布告した。ギリシアのほとんどの都市国家は、アテナイを含め、カッサンドロス側についた。
- ポリュペルコンは、ギリシア諸都市に自由を保障することで、当初は影響力を保ったものの、ポリュペルコン方の艦隊は、アンティゴノスによって撃破された。
ギリシア
- アンティパトロスの没後、アテナイでは権力闘争が起こり、民主政治の復活を望むアテナイ市民たちによって、フォキオン (Phocion) が支配者の座から追われ、反逆罪に問われて処刑された。その後、間もなく、アテナイ市民たちはフォキオンを讃えて、公式の葬儀を行ない、像を建てた
音楽
- アリストテレスの弟子のひとりで、ギリシアの逍遙学派(ペリパトス派)の哲学者であり、音楽やリズムについて記述を残したアリストクセノス (Aristoxenus) が、『ハルモニア原論』と題された論文を書いた。