ディヤルバクル
ディヤルバクル(テンプレート:Lang-tr, テンプレート:Lang-ku)はトルコ南東部の都市。ティグリス川に臨む。ディヤルバクル県の県都。人口は589,000人(2003年)。ただし、町をとりまくスラムの住民を含めると、人口は100万人を越えると推定される。住民の大半はクルド人。イスタンブルやアンカラと空路で結ばれ、トルコ空軍の基地がある。
トルコ内のクルド人の中心的な都市である。古くから交易地として栄えた。古代のアルメニア王国の首都であったころは、ティグラナケルト(Tigranakert)と呼ばれた。ローマ帝国時代にはアミダ(Amida)と呼ばれたが、629年にアラブ人に征服されて以後はアーミド( آمد Āmid)と呼ばれるようになった。イスラーム時代以降、北メソポタミア一帯はアラビア語でジャズィーラ地方と称し、このジャズィーラ地方北端のアーミドを中心とする東ローマ帝国との境域地域を特に「バクル族の国」(ディヤール・バクル ديار بكر Diyār bakr )と称した。1515年にオスマン帝国に占領されると、地方名であるディヤール・バクルがアーミドの都市名としても定着するようになり、トルコ共和国時代に至ってから Diyarbakır が正式名称となった。古代からイラン・イラク地方と黒海、地中海方面への諸街道を結ぶ結節点にあり、イスラーム時代以降も周辺諸勢力の消長に伴いその争奪の対象となった。現在、ディヤルバクル(「バクルの夢」の意)と呼ばれる。
もっとも古い部分は297年につくられたという長さ5.5kmの玄武岩の城壁が旧市街を囲む。市内には中世のモスクやマドラサが数多く残っている。11世紀のウル・ジャミイ(大モスク)や、16世紀のデリレル・ハン・マドラサなどが有名。もともとは紀元前1世紀につくられたアッシリア教会が今も機能している。
第一次世界大戦の際に、ディヤルバクルでは暴動が起こり、アッシリア人とアルメニア人の住民のほとんどが追放された。1918年にオスマン帝国が解体された後、一時、フランス軍が町を占領する。1925年にはケマル・アタテュルクのアンカラ政府に対するクルド人の大規模な反乱が起こった。
クルド労働者党(PKK)が1984年にゲリラ闘争を開始した後は、治安が悪化し、人口が減った。1990年代前半には、クルド労働者党や、市内にわずかに暮らすキリスト教徒のアルメニア人やアッシリア人を敵視するトルコ・ヒズボラの活発な活動も見られた。
クルド労働者党が2000年に武力闘争の停止を宣言して後、町は平静を取り戻しつつある。2002年11月30日、トルコ政府はそれまで15年間続いていた非常事態宣言を解除した。
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