佐藤継信
佐藤 継信(さとう つぐのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王に数えられる。奥州藤原氏の家臣・佐藤基治の子。
生涯
治承4年(1180年)、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした。『吾妻鏡』元暦2年(1185年)2月19日の条によると、義経は継信の死を非常に嘆き悲しみ、一人の僧侶を招き千株松の根元に葬った。また御幸供奉の時に後白河院から賜り、毎回戦場で乗っていた名馬「太夫黒」を僧侶に与えた。『吾妻鏡』は「これは戦士を慈しむ手本である。これを美談としない者はない。」と書いている。
『平家物語』で継信は平教経が義経を狙って放った矢を身代わりとなって受けて戦死したとされているが、『吾妻鏡』では教経は一ノ谷の戦いですでに戦死した事になっている。
『源平盛衰記』によると享年は28。(佐藤氏の菩提寺である医王寺 の継信の石塔には享年36とある)高松市牟礼町洲崎寺に継信と太夫黒の墓がある。
盛衰記では継信は義経の乳母子とされている。
「嗣信最後」
『平家物語』巻第十一「嗣信最後」における継信の最期の様子を以下に簡略に示す(名の表記は「継信」とする)。
屋島の戦いにおいて、王城一の強弓精兵である平教経の矢先にまわる者で射落とされないものはなかった。なかでも源氏の大将である義経を一矢で射落とそうとねらったが、源氏方も一騎当千の兵たちがそれを防ごうと矢面に馳せた。真っ先に進んだ継信は弓手の肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬した。義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下り手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は「別に何事も思い置くべきことはない。しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは元より期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です」と答えて亡くなった。義経は鎧の袖を顔に押し当てさめざめと泣き、近くに僧がいないか探させ、その僧に大夫黒という鵯越を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。継信の弟の忠信をはじめ、これを見た侍たちは皆涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べた。
史跡・伝説
出身は奥州信夫郡(現在の福島市飯坂地区)で、佐藤氏の居館「大鳥城」が舘の山公園として存在する。継信、忠信兄弟が奉ってある佐藤氏の菩提寺・医王寺には、伝武蔵坊弁慶の「笈」(県重要文化財)とされるものや、伝継信所用とされる「鞍」(市重要文化財)が残されている。また、寺の敷地内には継信・忠信の母乙和御前の悲しみが乗り移って、花が咲く前につぼみが落ちてしまうという「乙和の椿」がある。
医王寺にある継信・忠信の石塔(墓)は「粉にして飲むと体が強くなる」という言い伝えにより、薬として利用され、石塔の半ばほどが大きく削り取られている。
脚注
参考文献
- 上横手雅敬編著『源義経 流浪の勇者』 文英堂、2004年。