宗像氏
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テンプレート:日本の氏族 宗像氏(むなかたし)とは、筑前国の古族である。
目次
概要
出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする。宗像氏は、正三位中納言清氏親王を祖とするが、伝承の域を出ない。914年までは、胸形氏、宗形氏、胸肩氏等と表記された。また、平安時代末期辺りから武士化し、戦国大名としても活躍した。戦国時代に宗像氏貞をもって大宮司家が断絶した。氏貞には3人の娘がいたが、そのうちの一人が小早川隆景の重臣草刈重継に嫁ぎ、宗像氏の相伝文書は草刈家に伝来することになった。また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落を意味する。
歴史
- 古代は、海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。
- 仲哀天皇の頃、神功皇后が三韓征伐の直前に来宗した際に、宗像氏が宗像大神に神助を賜う。
- 雄略天皇が新羅に親征しようとしたが、宗像三女神のお告げにより中止する。
- 645年、大化の改新によって、国郡制が敷かれ、宗像氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任し、神郡の行政を司った。また、遠賀郡などの郡司も兼ねる。
- 654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。
- 天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。
- 690年(持統4年)、高市皇子が太政大臣になる。
- 767年、宗像大領で朝臣の宗像深津(宗形深津)の夫人に竹生王という皇族が降家した。
- 788年、宗像氏の中から潔清廉貞での祭事者を選んで神主とし、任期を6年と定めた。
- 800年、宗像大領が宗像神主を兼任することが禁止された。
- 914年、宇多天皇の御子源清氏に宗像の姓を賜り、宗像の地に配された。この頃から、宗像氏が大宰府の高官に任命されるようになった。
- 979年(天元2年)、太政官の命により、大宮司職が設けられる。
- 宗像氏は、自分の荘園を守る為に、京都の八条院と領主・本家の関係になる。
- 平安時代末期、大宰帥に宗像氏の名が見られる。
- 1185年、宗像氏実が、博多の貿易商・王氏の娘と、宗像氏忠は北宋商人・張氏の娘と2代に渡って中国人と縁組する。
- 1281年、弘安の役が起こる。宗像長氏は元(蒙古)の侵略から防戦し、鎌倉幕府から肥前国神埼郡神埼荘を賜る。
- 1330年、倭寇を指揮する。
- 1334年、宗像氏が帆柱山城を攻撃する。
- 1335年、北条時直の遺児が越後左近将監と謀り、佐加利山城で蜂起する。宗像氏範が鎮圧のために吉田頼景らと佐加利山城を攻撃する。
- 1336年、宗像氏範が入宗した足利尊氏を助け、多々良浜の戦いなどで奮戦する。その結果、楠橋荘(北九州市八幡西区)を与えられる。
- 1344年、壱岐の石田郷の地頭を、後に壱岐の守護を兼任した。
- 1375年、宗像氏経が、足利義満の命で菊池氏の領地である肥後国を攻めて、八代城を包囲する。その留守に宗像を攻めた少弐忠資を降伏させた。