ラースロー4世
ラースロー4世(IV. László, 1262年 - 1290年7月10日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位:1272年 - 1290年)。父はイシュトヴァーン5世。母はクマン族出身の王妃(洗礼名エルジェーベト)。
幼少の頃、大貴族のケーセギ・ヘンリクによって拉致されたことがある。父王は息子ラースローを取り戻すべくヘンリクを追跡したが、その追跡中の1272年、病のために急死した。ラースローは父の跡を継いでラースロー4世として即位することとなったが、1274年にヘンリクが対立する貴族チャーク家に暗殺されるまではただの傀儡であった。
このような幼少時の経験から、成人したラースロー4世は王権強化を目指して軍備増強を目指した。そのためにドイツ王ルドルフ1世と協力してボヘミア王オタカル2世(ヘンリクを庇護していた)をマルヒフェルトの戦いで討ち取り、母の出身であるクマン族と手を結んだが、王権強化を嫌う大貴族はかえって団結し、ローマ教皇の干渉まで招くこととなった。そしてラースロー4世はローマ教皇と対立した結果、教皇から破門された。
しかしラースロー4世はなおも王権強化に執念を燃やし、クマン人の女性を王妃として迎え、クマン族との関係を深めた。そして、さらなる軍備増強のために異教徒であるイスラム教徒や祖父ベーラ4世の時代にハンガリーを荒らしたモンゴル人を招いたため、大貴族層はもちろんのこと、中小領主からも国民からもラースロー4世は見捨てられてしまう結果となる。そして1290年、大貴族層の放った刺客によって暗殺された。
ラースロー4世はクマン族との結びつきが強かったことから「クン・ラースロー」(クマン族のラースロー)とも呼ばれている。
1269年にシチリア王カルロ1世の娘イザベッラ(エルジェーベト)と結婚したが、1286年に離婚、修道院へ押し込めた。その後クマン族から王妃を迎えたが、どちらの結婚でも子は授からず、死後は従叔父のアンドラーシュ3世が王位に就いた。しかし、甥のカルロ・マルテッロ(姉マリーアとイザベッラの兄ナポリ王カルロ2世の長男)はアンドラーシュの即位を認めず、ハンガリー王位を請求した。
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