武沢豊
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テンプレート:BLP unsourced テンプレート:Infobox Musician 武沢 豊(たけざわ ゆたか、1958年5月16日 - )は、北海道旭川市出身のギタリスト、作曲家、音楽プロデューサーである。血液型はAB型。1973年からロックバンド『安全地帯』のメンバーとして活動中。「武沢 侑昂」の名も併せて用いている。
目次
来歴
幼少・青少年期
- 小学生の頃、ベンチャーズの影響を受けてギターを始め、クラシックギターも習う。
- 1972年、北海道旭川市へ転居。中学2年の同級生、玉置浩二と出逢う。
- 1973年、兄の俊也、玉置と共にバンド『インベーダー』を結成し、後に『安全地帯』と改名する。
- 1977年、安全地帯のベーシストとなる六土開正率いる『六土開正バンド』と合併。『安全地帯』の原型が完成する。
- 1981年、井上陽水のコンサートツアーのバックバンドに安全地帯が抜擢され、上京する。
バンド『安全地帯』デビュー
- 1982年、安全地帯1st.シングル『萠黄色のスナップ』でキティレコード(後にユニバーサル・ミュージック)からデビュー。
- 1988年、安全地帯のコンサートツアーと並行して、サポート・ミュージシャンの蛎崎弘と『蛎崎弘+"r"project』の活動を開始する。コンサートでも演奏を披露。8月に安全地帯が活動休止を宣言。これは、バンドメンバー個々の音楽活動の進化の影響とバンドの追求する音楽の方向性を模索する結果であった。
- 1990年、安全地帯の活動再開。洗練された都会的ロック指向から野性味のあるロックを目指し、社会問題からメッセージソングも取り入れた。
- 1993年、安全地帯23rd.シングル『ひとりぼっちのエール』発売以降、再度活動休止。プロデューサーに須藤晃を迎え、バンドの方向性に据えようと試みるが、それに伴うレコード会社移籍、音楽性志向に不安な状態のためであった。
音楽プロデューサー活動期
- 1994年、安全地帯を一時脱退を表明。プロデュース業に専念する。バンドリーダーの玉置のソロ活動は、模索段階も相まっての音楽が他メンバーの参加によって表現された。
- 1998年、安全地帯の活動再開を玉置が強く望み、ソロコンサートツアーへの参加要請に武沢も応じる。
- 1999年、バンド活動再開には至らないものの、玉置が安全地帯の楽曲集としてソロアルバム『ワインレッドの心』を発表する。武沢以外のメンバーがスタジオ・ミュージシャンとして参加している。
バンド『安全地帯』再合流
- 2001年、安全地帯の新譜録音に向けてメンバーが集結する。玉置ソロ活動のサポート・ミュージシャン・安藤さと子の支持活動が功を奏した。
- 2002年、安全地帯24th.シングル『出逢い』発売で、9年ぶりに活動再開。これをもって、バンドに正式復帰するが、事故に遭遇し、コンサートツアーには参加を断念。
- 2003年、安全地帯10th.アルバム『安全地帯X〜雨のち晴れ〜』を発表し、コンサートツアーに参加する。
- 2004年、安全地帯の活動休止。武沢の事故後の経過観察も影響した。以降は、メンバー個々の活動に入り、武沢は音楽プロデューサー、スタジオ・ミュージシャンの活動となった。
- 2009年、急性膵炎で2年間療養していた玉置が音楽活動再開を決意するにあたり、安全地帯のメンバーを招集。新譜制作・録音に向けて、合宿生活を始める。
- 2010年、安全地帯27th.シングル『蒼いバラ』発売。レコード会社をソニー・ミュージックからユニバーサル・ミュージックへ復帰。完全復活を宣言し、往年の楽曲にも意欲的に取り組んでいる。
- 2013年、安全地帯14th.アルバム『安全地帯ⅩⅣ - The Saltmoderate Show -』において『よかった』『~笑って~』2曲の作曲を担当した。
主な音楽活動
プロデュース担当したアーティスト
スタジオ・ミュージシャンとして参加したアーティスト・楽曲
サポート・ミュージシャンとして参加したアーティスト
- 井上陽水 1981年~1983年、安全地帯としてバックバンドを担当。