泉二新熊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年5月1日 (木) 18:00時点におけるClaw of Slime (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox Officeholder 泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年1月27日 - 1947年10月25日)は、鹿児島県奄美大島出身の裁判官官僚刑法学者

経歴

東京帝国大学卒業後、司法省に入り、1915年(大正4年)大審院判事、1936年(昭和11年)検事総長、1938年(昭和13年)大審院長となる。退官後、枢密顧問官、その間、刑法学者として折衷的客観主義の立場から刑事司法の解釈・実務論を展開、泉二刑法と称された。[1]東京帝大教授であった牧野英一と並ぶ戦前を代表する刑法学者である。

いわゆる「方法の錯誤」について、法定的符合説(抽象的法定符合説)をとった大正六年の大審院連合部判決に関与した。

旧刑法には方法の錯誤の場合に故意犯の成立を認める誤殺傷罪があったが、現行刑法ではそれが削除された。 その立案関係者が関与した前年の大審院判決は具体的符合説を判示していたところ、判例変更したものである。 以降、最高裁も法定的符合説をとり、現在も判例の立場となっている[2]

年譜

著書

  • 『改正日本刑法論』(有斐閣、1908年) 版を重ねて『日本刑法論上巻(総論)』(有斐閣、増訂43版、1933年)、『日本刑法論下巻(各論)』(有斐閣、増訂42版、1931年)となる
  • 『刑法大要』(1911年
  • 『刑事学研究』(1920年
  • 『法窓餘滴』(1942年

脚注・出典

テンプレート:Reflist


先代:
池田寅二郎
大審院長
第17代:1939年 - 1941年
次代:
長島毅

テンプレート:検事総長

テンプレート:Academic-bio-stub

テンプレート:Law-stub
  1. 慈愛の法学者-泉二(もとじ)新熊先生
  2. この段落については、安田拓人「錯誤論(上)」法学教室273号69頁を参考。