道上伯
道上伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 2002年8月4日)は、愛媛県八幡浜市出身の日本の柔道家である。身長173センチメートル。
人物
来歴
1926年、愛媛県立八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)入学を機に柔道を始め、1927年に大日本武徳会柔道初段を取得。しかし実際は1926年の時点で既に昇段審査を通過しており、13歳という当時としては異例の若さでの合格だった為、試験官の一存によりこの時点での昇段は見送られていた。その後、15歳の誕生日を迎えた時に改めて正式に初段の段位を与えられている。
1929年、大日本武徳会柔道二段を取得。1930年、アメリカ渡航の夢を抱き、誰にも告げずに八幡浜から出奔。およそ5ヶ月間大阪府に滞在した後、貨物船に乗り込み乗務員として働いていた。それからしばらくして実家に連れ戻されるが、八幡浜商業学校への復学が認められなかった為、1931年、吉田町立吉田中学校(現・愛媛県立吉田高等学校)に転入した。1932年、大日本武徳会柔道三段を取得。
1933年、吉田中学を卒業し立命館大学に入学。翌1934年には武道専門学校柔道科に入学した。1935年、大日本武徳会柔道四段を取得。同年、稽古中の事故で右膝靭帯を切断し、この時の後遺症により道上の右膝は、生涯自力で90度以下に曲げることができなくなった。1937年、大日本武徳会柔道五段を取得。
1938年、武道専門学校を卒業し、助教授として旧制高知高等学校へ赴任。1940年、上海の東亜同文書院へ学生生徒主事として招聘される。1942年、大日本武徳会柔道六段・教士号を取得。1945年、日中戦争ならびに太平洋戦争の激化に伴って故郷・八幡浜市へ帰還し、戦後、東亜同文書院の閉校に伴って失職。上海から引き上げてきた資金を基に水産会社を設立し、後年渡仏するまで社長として経営に当たっていた。1951年、講道館柔道七段を取得。失職していた時期には、柔道整復師の免許を取得している。
1953年、フランス柔道連盟の要請を受けて渡仏し、以降ボルドーに定住。指導者としてヨーロッパ・アフリカ・アメリカなど36の国と地域において柔道の普及に努めた[1]。1975年、フランス柔道連盟・フランス政府から、一段飛ばしで柔道九段を贈られる。
日本に一時帰国中だった2002年8月4日、心不全によりさいたま市内の病院で死去。テンプレート:没年齢。8月19日に東京港区の増上寺にて葬儀が[1]、9月7日にはボルドーの道場にて告別式が執り行われた[2]。
実績
柔道の試合においては生涯無敗を誇った。学生時代のみならず、指導者として海外で臨んだ様々な試合においても、一度も敗戦していない。1953年11月にクーベルタンスタジアムで行われた試合では、フランスを代表する強豪10名と連続して対戦し、わずか6分30秒、たった13回技を掛けたのみで10人抜きを達成している。
指導者としての道上は、アントン・ヘーシンクを育てた事で知られている。1955年にオランダを訪れた際、当時建設作業員だった20歳のヘーシンクの才能を見出し、柔道の技術だけでなく、筋力トレーニングをはじめとする先鋭的な体力作りの手法を教授。その結果ヘーシンクは、1961年の世界柔道選手権大会無差別級に優勝し、1964年の東京オリンピック柔道無差別級でも金メダルを獲得、日本柔道界に計り知れない衝撃をもたらした。東京オリンピックにはオランダ代表チームの一員として道上も参加していたが、ヘーシンクが決勝戦で神永昭夫を袈裟固で抑え込む30秒の間、オランダ関係者が勝利を確信し喜びの表情を見せている中にあって、一人だけ厳しい顔をして試合場を見つめる道上の写真が残されている。道上はこの時の心境を、生涯周囲に語ることはなかったという。
柔道だけでなく空手道にも造詣が深かった。1983年には全日本空手道連盟七段位を取得している。但し、空手家としての道上の実績は明らかになっていない。
生前は、戦後主流となったスポーツ柔道に異を唱え、1963年に『文藝春秋』に寄稿した『講道館柔道への爆弾宣言』を初めとして、事あるごとに講道館に対し批判的な発言を繰り返していた。加えて拠点を海外に持ち、日本国内での活動が皆無に等しかった事もあって、オランダをはじめ各国柔道界の技術顧問を務めるなどの確かな実績[1]に反して、日本での知名度は高くない。
脚注
出典
参考文献
- 『ヘーシンクを育てた男』(著・眞神博 文藝春秋刊)
- Acoreおおみや「Last Samurai 柔道家 道上伯の生涯」