留別村
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村名の由来は、アイヌ語のル・ペッ(道・川)からで、日本で最も面積の広い村である。
当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を、現状に関してはサハリン州#クリル管区、択捉島#ソ連崩壊後の択捉島の項目を参照のこと。
目次
地理
択捉島の南西側、ほぼ半分を占め、国後水道をはさんで国後島の安渡移矢岬とは約20kmの距離。 地勢は平野部が多く、湖沼も発達している。また萌消湾と単冠湾、ポロノツ鼻(大岬)や野斗路岬などの地形から、天然の良港に多く恵まれている。
中心集落の留別[1]は留別本村とも呼ばれ、漁業の中心地として、また島の両岸を結ぶ交通の要所として発展した。 一方、冬季に流氷で閉ざされる留別港を補う形で、南岸の単冠湾に面する年萌[2]も発展し、さらに天寧には海軍飛行場が建設されるなど、昭和期には択捉島産業の中心となり、紗那を越え人口も増加を続けた。
- 山:西単冠山(1,506m)、ベルタルベ山(活火山、1,221m)、阿登佐岳(活火山、1,206m)
- 河川:留別川、得茂別川(ウルモンベツ川、ベニザケ繁殖地の南限[3])
- 湖沼:得茂別湖(うるもんべつこ、5.71km²)、年萌湖(としもいこ、4.25km²)、ヤンケトウ沼
隣接している自治体
沿革
- 留別村成立以前の歴史については、択捉島の歴史を参照
合併前の留別村
- 1869年(明治2年)8月15日 北海道11国が置かれ、翌年紗那郡留別村が成立
- 1880年(明治13年) 留別に漁業会社(汪綱社)が設立される
- 1884年(明治17年) 紗那村、振別村、蘂取村に戸長役場がおかれる
- 留別村は郡内の紗那ではなく振別の所轄とされ[4]、合併で郡が分かれる下地となった
- 1885年(明治18年) 留別に小学校が開設[5]
- 1886年(明治19年)8月 振別外四ケ村戸長役場が留別に移転し、留別外四ケ村戸長役場と改称(1884年7月~1886年12月まで、内保と丹根萌が分かれ、留別外二村戸長役場)
- 1889年(明治22年) 留別で商店が開業
- 1902年(明治35年) 年萠に小学校が開設
- 1920年(大正9年)4月1日 根室蘂取線の建設が認定され、幹線道路の整備がはじまる
合併前の留別村以外
- 1870年(明治3年) 択捉郡丹根萌村(たんねもい)、内保村(ないぼ)、振別郡振別村(ふれべつ)、老門村(おいと)が成立
- 1873年(明治6年) 振別に根室支庁派出所(全島管轄)が置かれる
- 1874年(明治7年) 内保に密漁監視所(猟虎猟取締所)が置かれる
- 1879年(明治12年) 振別に、郡区編成による振別択捉紗那蘂取郡役所(全島所轄)が置かれる
- 1885年(明治18年) 振別外三郡役所が紗那に移転して紗那外三郡役所と改称、振別には振別外四ケ村戸長役場がおかれる
- 1895年(明治28年) 内保に三井物産合名会社が進出
- 1897年(明治30年) 内保に小学校が開設
合併後
- 1923年(大正12年)4月1日 択捉郡丹根萌村、内保村、振別郡振別村、老門村と合併し、行政権を持つ二級町村として択捉郡留別村が成立
- 1932年(昭和7年) 択捉阿登佐岳が噴火
- 1945年(昭和20年)8月28日 留別湾にブルンシテイン海軍中佐以下のソ連軍が上陸[6]
- 1946年(昭和21年)2月1日 ソビエト連邦政府が領有を宣言
- 1947年(昭和22年)10月 住民が強制送還でサハリンへ送られる[7]
- 1990年(平成2年)8月24日~8月28日 元居住者が留別墓地に墓参[8]
- 2005年(平成17年) 岐阜県高山市の合併により、「最も面積の広い町村」となる。
行政
- 村長:首長名(xxxx年から)
- 現在、留別村に関する戸籍事務は根室市役所が代行している。なお、戦前の戸籍簿・除籍簿の一部は釧路地方法務局根室支局に保管され、根室支局が証明書の請求窓口となっている。
経済
産業
島の北西岸(西前)と、南東岸(東前)で産物が違い、主に西が漁業、東が採藻業。 冷蔵装置を積んだ冷蔵船が沿岸を巡回し、定置網の漁獲を回収して根室へ出荷された。
- 漁業(マス、サケ、タラ、マグロ)
- 採藻業(コンブ、千島海苔)
- 畜産業(馬、牛の放牧)
- 捕鯨(東洋捕鯨)
- 缶詰製造工場(日本水産、年萌、具谷、紅鱒、アシリコイトイヒ)
- 製紙工場(北越製紙)、製材所
- 造船所(内保)
公共機関
- 留別村役場
- 留別登記所
- 紗那警察署巡査派出所(留別、天寧、年萌)
- 郵便局(留別、年萌、天寧、入里節、内保)
- 紗那営林区署駐在所
- 北海道鮭鱒孵化場(留別支場、オフユ孵化場、ウルモンベツ紅鱒孵化場)
- 桜ヶ丘グランド
- 競馬場
軍事施設
- 天寧海軍飛行場
- 天寧海軍司令部(第五一警備隊天寧派遣隊)
- 混成第三旅団司令部
- 年萌陸軍機関砲陣地
地域
人口
- 総人口:2,258人
- 男性: ---人
- 女性: ---人
- 世帯数:424世帯
1920年(大正9年) | 1,053人 | 男647人、女406人 | 世帯数223 |
1925年(大正14年) | 2,350人 | ||
1930年(昭和5年) | 2,542人 | ||
1935年(昭和10年) | 2,554人 | 男1,548人、女1,006人 | 定住人口2,033人 |
1940年(昭和15年) | 2,814人 | 男1,697人、女1,117人 | 世帯数478 |
健康
- 留別病院
- 内保診療所
教育
交通
道路
- 準地方費道
- 準地方費道85号線根室蘂取線(北海道の地方費道一覧)
- 官設駅逓
- 留別
- 内保
- 入里節
- 具谷
- 天寧
- 年萌
- 振別
- 三区
船舶
その他
墓地
- 留別墓地
- 年萌墓地
- 新天寧墓地
- 旧天寧墓地
- 豊浜墓地
- 具谷墓地
- 入里節墓地
- 振別墓地
寺社
- 留別神社
- 内保神社
- 巌島神社
- 年萌神社
- 昭和神社
- 具谷神社
- 北海千光寺
- 法蔵寺
- 法蔵寺曹洞宗入里節説教所
温泉
- 瀬石温泉
ロシア人の村
ソ連占領後の留別は、ロシア名クイビシェフ(Куйбышев))村、内保はドブロエ(Доброе)村となったが、現在は廃村。 旧天寧飛行場(ブレヴェスニク空港)のある天寧のみがブレヴェスニク(Буревестник)村として残っており、1992年の人口は、6,500人。
脚注
- ↑ 留別(るべつ) 北方四島居住地図 千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 年萌(としもえ)・ヤンケトウ 北方四島居住地図 千島歯舞諸島居住者連盟
- ↑ 択捉島ウルモベツ産紅鱒の降海期の幼魚に就いて独立行政法人水産総合研究センター さけますセンター
- ↑ 地方行政区画便覧 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
- ↑ 千島の島々と「北方領土」社会科副読本らうす 羅臼町教育委員会
- ↑ ボリス・スラヴィンスキー「千島占領」、から孫引き
- ↑ 占領生活、脱出、樺太を経由して引き上げ 佐藤 正二元島民が語る「北方領土」 北方領土問題対策協会
- ↑ 北方四島への墓参 北方領土問題対策協会
- ↑ 北方領土の人口 独立行政法人北方領土問題対策協会
- ↑ 北方領土の行政、交通・通信 北方領土問題対策協会