張温 (孫呉)
張 温(ちょう おん、193年 - 230年)は、中国三国時代の呉の武将、政治家。字は恵恕。揚州呉郡呉県の人。父は張允(劉表配下の張允ではない)。弟は張祗・張白。姉妹は女子三人(一人は顧承の妻)。『三国志』呉志に伝がある。
呉郡張氏は呉の四姓の一つに数えられ、父も地元で評判の人物であり、孫権に招かれ東曹掾となったが、早くに死去している。
張温は若い頃から行ないが良く、容貌も立派であった。孫権が張温の評判を聞き、その性格を配下に尋ねると、劉基は「全琮に肩を並べる人物」といい、また顧雍は劉基の言葉を否定した上で「肩を並べる人物など見当たらない」と、さらに絶賛した。孫権が彼の父に匹敵する人物と判断し、張温を呼び寄せ語らうと、張温の見事な振る舞いに呉の群臣は揃って感嘆した。このため孫権も態度を改め、鄭重に遇するようになった。張昭からは特に期待された。
議郎・選曹尚郎となり、孫登の教育係である太子太傅を務め、信任を得るようになった。また、太子中庶子の設置を提言している(「孫登伝」)。
224年、32歳の時に輔義中郎将に任命され、使者として蜀漢へ赴いた。孫権の信頼に応え大任を果たしたため、諸葛亮をはじめ蜀の人々にも賞賛された。この時に蜀の秦宓と問答したという。その後、豫章郡において兵士を募る仕事を任されたが、この頃から孫権に嫉まれるようになった。正史においては、張温が蜀の政治を賛美したことを孫権が不快に思ったことと、孫権が張温の名声の高さを妬んだことが、理由として挙げられている。
張温がかつて選曹郎に抜擢した人物に曁艶という者がいた。後に曁艶は尚書となったが、選曹郎の徐彪とともに人事で専断的な行動が目立ったため、呉の人々の恨みを買い失脚し自殺に追い込まれていた。正史によると、孫権はこの事件を利用して、曁艶の黒幕は張温であると決め付けた(実際、孫邵を貶めるような上奏を曁艶と共にしたこともあるという(「呉主伝」))。また、張温の豫章郡での仕事振りにも難癖をつけ、魏の侵攻があったときに兵を動かそうとしなかったと責めた。さらに、殷礼の任官など他の人事のいくつかについても難癖をつけた。駱統は張温のために理を尽くして弁護したが、孫権に容れられることはなかった。
結局張温は死罪を免れたが、左遷された上で呉郡に戻され、6年後に病死してしまった。弟二人は官職を没収され、また姉妹も皆離別させられて、奴婢に落されることになった。『文士伝』によると、顧承の妻となっていた妹は許されて再嫁することになったが、自害したという。
『会稽典録』によると、余姚県の虞俊は張温の失脚を予見していた。諸葛亮は張温の失脚を当初信じられなかったが、報せが届いた後しばらく考えた上で、その理由を悟ったという。
後に『呉書』を編纂した韋昭は張温と親しい関係であったという(「呉主伝」が引く『志林伝』)。