上杉能憲
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上杉 能憲(うえすぎ よしのり、元弘3年/正慶2年(1333年) - 天授4年/永和4年4月17日(1378年5月14日))は、南北朝時代の武将、守護大名。上野・武蔵・伊豆守護。父は上杉憲顕(山内上杉家)、養父は上杉重能(宅間上杉家)。兄弟に憲将、憲賢、憲春、憲方、憲英、憲栄。養子(甥)に憲孝。名は三郎。官位は修理亮・兵部少輔など。
父の従兄弟の上杉重能の養子となるが、重能は足利家の執事であった高師直との政争に敗れ暗殺されている。能憲は室町幕府初代将軍足利尊氏の弟の足利直義に仕え、正平5年/観応元年(1350年)の観応の擾乱では直義と共に尊氏に敵対する。能憲は常陸において挙兵し、翌正平6年/観応2年(1351年)には師直の従弟であった高師冬を甲斐須沢に攻め滅ぼした。関東の武士団を手中にした能憲は西上し、尊氏が直義と和解し師直ら高氏一族と共に帰還する隙を狙い、調略を用いて師直を摂津武庫川(兵庫県伊丹市)にて、一族ごと処刑した。
直義は再び京都を脱出して尊氏と対立し、能憲は尊氏の軍に駿河蒲原において敗れる。これにより一時流罪となるが後に許され、父の死後は従弟の上杉朝房と共に関東管領として鎌倉公方の足利氏満を補佐する。以後上杉家は関東管領の職を世襲する。天授4年/永和4年(1378年)に死去。享年46。関東管領は弟の憲春が、宅間上杉家は甥の憲孝が継承した。
遺体は自身が開基となった報恩寺に葬られた。法名は敬堂道諲敬堂居士。