サントドミンゴ
テンプレート:世界の市 サント・ドミンゴ(テンプレート:Lang-es)はドミニカ共和国の首都である。カリブ海有数の世界都市。人口2,061,200人(2003年)。サント・ドミンゴの植民都市はアンティル諸島で一番古い市である。
歴史
1492年にクリストファー・コロンブスが到着する前、タイノ族は彼らがキスケヤ (Quisqueya) またはアイチ (Ayiti) と呼んでいた島に住んでいた。コロンブスはこの島をイスパニョーラ島と名付けた。ドミニカ共和国だけでなく、現在のハイチ共和国もこの島の一部である。当時、島はマリエン (Marién)、マグア (Maguá)、マグアナ (Maguana)、ジャラグア (Jaragua)、ヒグエイ (Higüey) の5種の族長の領土であった。5つの領土は、それぞれグアカナガリクス (Guacanagarix)、グアリオネクス (Guarionex)、カオナボ (Caonabo)、ボヘチョ (Bohechío)、カヤコア (Cayacoa) のカシケ(首長)によって統治されていた。
1496年、スペイン人が島に定住し、1498年8月5日、公式にサントドミンゴは南北アメリカで最も古い欧州風の都市となった。クリストファー・コロンブスの弟バーソロミュー・コロンブスは、居住区を創設し、スペイン女王のイサベル1世にちなんで、居住区をイザベラ (La Isabela) と名付けた。そこは後にドミニコに敬意を表してサント・ドミンゴと改名された。
1502年にサント・ドミンゴはハリケーンによって破壊されたため、新統治者ニコラス・デ・オバンドは、付近の別の土地に街を再建した。 都市の元のレイアウトとその防護壁の大部分は、今日でも、コロニアル・ゾーン (Colonial Zone) の至る所で確認することができる。1990年に歴史的なコロニアル・ゾーンは、「サントドミンゴの植民都市」として、ユネスコの世界遺産に登録された。このエリアはオザマ川 (Rio Ozama) に隣接し、エリア内には、中世後期の時代の建築様式を反映した宮殿風の住宅や荘厳な教会を含む、16世紀の印象的な建物物が多く存在する。
コロンブス到着後の最初の100年、サント・ドミンゴは、新大陸の探検や征服の拠点となった。エルナン・コルテスのメキシコ征服やバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの太平洋の調査などの遠征は、すべてサント・ドミンゴが拠点となった。1586年フランシス・ドレークが、街を占領して身代金を要求した。イスパニョーラ島でのドレークの侵略や海賊行為は、50年以上に渡って、スペインによる島の支配を弱体化させ、街が放棄され、海賊行為が横行するまでになった。1655年英国のオリバー・クロムウェルによって派遣された軍がサント・ドミンゴを襲撃したが、敗れて撤収し、街の代わりにジャマイカ島を占領した。
1795年から1822年まで、植民エリアの変化に伴い、街の所有者も何度か変わった。1795年にフランスに譲渡され、1801年にハイチ革命で(解放)奴隷により占領され、1802年にフランスが再占領し、1809年にはスペインが再占領した。1821年にサント・ドミンゴは、ハイチ人により征服され、その2ヶ月後に独立国家であるスペイン・ハイチ共和国 (Republic of Spanish Haiti) の首都となった。これらの結果、街や植民エリアのスペイン人の人口は激減した。
サント・ドミンゴは、1844年2月27日に、ドミニカ人が国民的英雄テンプレート:仮リンクに率いられ、ハイチの支配から独立を勝ち取り、再び自由国家の首都となった。
その後、街は様々な政治的な派閥による抗争の標的となり、不安定な数十年間を迎える。加えて、ドミニカはハイチとも数度に渡って戦闘を繰り返さなければならなかった。3月19日の戦い (Battle of March 19) 、3月30日の戦い (Battle of March 30) 、ラス・カレラスの戦い (Battle of Las Carreras) 、べレルの戦い (Battle of Beler) などが最も有名な戦闘で、これらの戦いにちなんだ街路が存在し、国歌にも登場する。 1861年スペインが再び現れ、ドミニカの指導者であったペドロ・サンタナと取引をして、新しい国家のスペインの支配下への併合との交換条件に、スペインに多くの称号や特権を認めさせた。しかし1863年にテンプレート:仮リンクが始まり、1865年にスペインが撤退した後、ドミニカは再び自由国となった。
次の60年間、サントドミンゴとドミニカ共和国は幾多の革命、支配権力の変化、1916年から1924年までのアメリカ合衆国による占領を経験した。1930年、街はハリケーン San Zenónによって破壊され、多くの損害が出た。再建後、1930年から1961年までドミニカを統治した、独裁者のラファエル・トルヒーヨの治世において、街はシウダー・トルヒーヨ (Ciudad Trujillo) と改称されたが、1961年にトルヒーヨが暗殺され、街の名前はサントドミンゴに戻された。1965年のドミニカ内戦でアメリカ合衆国が軍事侵攻した際、サントドミンゴでは市街戦が行われた。
1992年に、クリストファー・コロンブスの新大陸発見から500年を迎えた。テンプレート:仮リンクが、サントドミンゴに約4億ペソの費用で立てられ、論争の対象となっている。
気候
交通
- ラス・アメリカス国際空港
- スペインの協力によりサントドミンゴ地下鉄が2009年1月30日より営業を開始した。今後20年間にわたって合計で6路線を開業させる予定である。
姉妹都市
- テンプレート:Flagicon ブエノスアイレス、アルゼンチン
- テンプレート:Flagicon 台北、台湾
- テンプレート:Flagicon ニューヨーク、アメリカ合衆国(1983年)
- テンプレート:Flagicon マイアミ、アメリカ合衆国
- テンプレート:Flagicon マドリード、スペイン