「尾道鉄道」の版間の差分
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2014年5月24日 (土) 13:34時点における最新版
|} 尾道鉄道(おのみちてつどう)は、かつて広島県の尾道市と御調郡御調町(現在の尾道市の一部)を結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者である。
目次
概要
尾道 - 石畦(いしぐろ)間で開業し、後に石畦 - 市(いち)間が開通した。しかしモータリゼーションの進行と利用客数の低迷から石畦 - 市間が1957年(昭和32年)に廃止され、1964年(昭和39年)に全線廃止となり、路線バスの運行に切り替えられた。
尾道 - 上下間の免許を取得しており、また現在の三次市に至る支線を通し日本海側と連絡する計画もあったが、実現しなかった。
会社自体は鉄道廃止後も社名を変更せずバス事業者として営業を続け、1970年(昭和45年)にニコニコバスに吸収合併された。ニコニコバスは社名変更し中国バスとなっている。
路線データ
- 路線距離(営業キロ):17.1km
- 軌間:1067mm
- 駅数:18駅(起終点駅、御所橋駅含む)
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:全線電化(直流600V)
- 閉塞方式:
- 尾道 - 三成間:タブレット閉塞
- 三成 - 市間:票券閉塞
運行
- 運行回数
- 第二次世界大戦前:16-17往復
- 1954年(昭和24年)頃:14往復
- 1959年(昭和29年)頃:21往復
- 1962年(昭和37年)現在:尾道 - 石畦20往復、尾道 - 三成不定期1往復
- 所要時間
- 第二次世界大戦前:尾道 - 市55-56分
- 戦後1950年頃まで:尾道 - 市60-70分
- その後:尾道 - 市50-59分
- 1962年(昭和37年)現在:尾道 - 石畦25-27分
- 貨物列車
- 1962年(昭和37年)現在:定期なし、臨時で尾道 - 西尾道に国鉄貨車を電動客車が牽引する
歴史
- 1913年(大正2年)8月15日 御調郡栗原村(西尾道)- 市村 - 甲奴郡上下町間軽便鉄道法免許[1]
- 1918年(大正7年)12月20日[2] 尾道軽便鉄道会社設立[3]
- 1923年(大正12年)5月3日 尾道鉄道に社名変更届出[4]
- 1925年(大正14年)11月1日 西尾道 - 石畦 (5M38C) 直流600V動力で開業[5]
- 1926年(大正15年)4月28日 石畦 - 市 (4M77C) 開業[6]
- 1931年(昭和6年)9月12日 御所橋(仮) - 西尾道を開業[7]
- 1932年(昭和5年)11月30日 - 起業廃止(御調郡市村-甲奴郡上下町間)[8]
- 1933年(昭和8年)3月28日 尾道 - 御所橋(仮)を開業[9]。尾道 - 市 (17.1km) 全線開通。同時に国鉄との連絡運輸を開始
- 1941年(昭和16年)9月 尾道自動車を合併。路線バス事業を兼営
- 1946年(昭和21年)8月13日 市行き列車が畑駅付近で故障。勾配を逆走し、石畦駅北方のカーブで脱線転覆。死者37名、重軽傷者101名を出す大事故となった(尾道鉄道電車脱線転覆事故)。
- 1957年(昭和32年)2月1日 石畦 - 市を廃止
- 1964年(昭和39年)8月1日 尾道 - 石畦を廃止し鉄道事業廃止。これ以後、社名を変更しないままバス専業となる
- 1970年(昭和45年)2月1日 ニコニコバスに吸収合併され会社解散。同時にニコニコバスは社名を中国バスに改称
当初、終点の市駅を起点に連絡バスを走らせていたが、並行する国道184号の改良に伴い、次第に尾道駅からの運行に切り替わっていった。このため、自社の路線バスが鉄道部門のライバルとなるという事態となった。特に石畦以北ではバスの方が集落に近い場所を走り利便性に優れていたため、鉄道利用客を奪っていったと伝える。
1949年(昭和24年)には、鉄道線と並行し閑古鳥であった栗原通りのバス路線免許を尾道市営バス(当時)に売却するという大失態を演じてしまう。みるみる内に電車とバスの優位は逆転し、栗原駅以南の市街地の乗客を市営バスに献上する事態となる。
駅及び施設
※呼称は廃止時点のもの。御所橋は仮駅。
尾道駅 - 御所橋駅(仮) - 西尾道駅 - 地方事務所裏駅 - 青山病院前駅 - 宮ノ前駅 - 栗原駅 - 尾道高校下駅 - 三美園駅(さんびえん)- 三成駅(みなり)- 木梨口駅 - 遊亀橋駅(ゆうきばし)- 木頃本郷駅(きごろほんごう)- 石畦駅(いしぐろ)- 西校上駅(にしこううえ)- 畑駅 - 諸原駅 - 市駅(いち)
路線中の最高所は畑駅。諸原駅は高低差があるためスイッチバックであった。車庫および変電所は三成に設けていた。また、旧栗原駅の北側には1988年に山陽新幹線の新尾道駅が設けられている。
仮駅である御所橋駅と同名の橋が、埋め立てて西側の現在の位置に付け替えられた、旧栗原川に架けられていた。
接続路線
事業者名は廃止時点のもの
輸送・収支実績
年度 | 輸送人員(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 営業益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) | 政府補助金(円) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1926 | 322,549 | 4,168 | 79,756 | 85,244 | ▲ 5,488 | 雑損5,099 | 50,963 | 104,568 |
1927 | 318,376 | 6,270 | 82,627 | 73,757 | 8,870 | 雑損96 | 59,764 | 92,536 |
1928 | 323,073 | 5,787 | 81,769 | 77,707 | 4,062 | 雑損86 | 58,324 | 92,657 |
1929 | 301,393 | 3,765 | 73,197 | 72,990 | 207 | 雑損501 | 56,638 | 92,844 |
1930 | 228,559 | 1,569 | 55,560 | 55,691 | ▲ 131 | 雑損償却金18,710 | 59,946 | 93,886 |
1931 | 195,179 | 760 | 52,666 | 49,906 | 2,760 | 償却金24,079 | 57,347 | 79,561 |
1932 | 181,689 | 1,663 | 51,104 | 45,135 | 5,969 | 雑損償却金46,181 | 56,202 | 96,479 |
1933 | 205,066 | 3,207 | 55,084 | 50,793 | 4,291 | 償却金47,154 | 53,063 | 96,369 |
1934 | 210,296 | 1,863 | 53,296 | 50,458 | 2,838 | 償却金51,682 | 43,652 | 93,986 |
1935 | 227,568 | 1,148 | 61,123 | 47,720 | 13,403 | 47,844 | 36,011 | 72,193 |
1936 | 273,137 | 548 | 68,973 | 40,353 | 28,620 | 雑損214 | 28,501 | |
1937 | 362,094 | 722 | 74,366 | 48,215 | 26,151 | 償却金12,876雑損134 | 28,228 | 15,844 |
1939 | 586,713 | 1,433 | ||||||
1941 | 902,060 | 2,937 | ||||||
1945 | 2,085,995 | 1,402 | ||||||
1952 | 1,482,354 | 3,899 |
- 鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道統計年報各年度版より
車両
開業時に用意された車両は電動客車(定員50人)3両、附随客車(定員50人)3両、電動貨車3両、無蓋貨車5両すべて梅鉢鉄工所製四輪車[10]。1926年に附随客車(53)を電動客車化。廃車した電動貨車(101)[11]の電装品を使用[12][13]。1932年電動貨車(102)を有蓋貨車に改造[14][15]。1933年附随客車(52)を電動客車(5)に改造[16][17]。
※廃止時点で在籍した車両
電車
尾道鉄道では、電動車に「デキ」(デンドウキャクシャの略)、制御車・付随車に「キ」の記号を使用した。
- デキ15・16
- 1950年に近江鉄道クハ21・22(初代)を購入し、台枠などを流用し自社工場において1953年に車体を新製したもの。種車から流用したリンケホフマン製台車を履く。
- デキ21
- 1925年梅鉢鉄工所製のデキ1を改造したもの。開業時から使用されており、もとは2軸車であったが、1957年に車体延長を行いボギー車となり、デキ21に改番。
- デキ25
- 1948年広瀬車輌製の水間鉄道モハ55を譲り受けたもの。
- デキ31・32
- 1959年自社工場製。尾道鉄道最後の新製車両で窓枠がアルミサッシとなっていたが、台車は流用品のブリル27GE-2であった。製造からわずか5年で廃線により他車とともに廃車。
- デキ45
- 1926年日本車輌製の名古屋鉄道モ458を1947年に譲り受けたもの。もとは各務原鉄道K1-BE形8。1954年に鋼体化。
- キ51(2代目)
- 1947年日本鉄道自動車製の近江鉄道クハ21(2代)を1961年に譲り受けたもの。譲受時に運転台は撤去。
- キ61
- 1929年日本車輌製の近江鉄道カハ100を1947年に譲り受けたもの。もとは芸備鉄道(現・芸備線)のガソリンカーのキハ2として製造された後、八日市鉄道に譲渡され、さらに同社が近江鉄道に合併されたのち、客車に改造、後に尾道鉄道に入線。
貨車
- ト152・153(ト151形)
- 1925年梅鉢鉄工所製の無蓋車。当初は151-155の5両があったが、廃止時には上記2両のみであった。
現況
尾道鉄道線は尾道駅の北側から発着していた。駅跡は現在駐輪場等に使用されている。西尾道駅跡には、ホテルが建てられたが、現在は解体されておりマンションが建設された。市街地においては、僅かに橋桁等が残っている。石畦 - 畑間の盛土区間については、しばらく放置されていたが、改良工事の上、1986年(昭和61年)に国道184号バイパスとして開通した。一部のトンネルが歩行者用として再利用されたほか、国道のルートから外れたトンネルが、現在でも煉瓦造りの姿をそのままに残している。現在、当該区間には、かつての電車線の終点である市へ、また市より別の起業家が鉄道敷設を目指した府中方面へのバスが数本走っている。三成にあった車庫は現在中国バスの尾道営業所、市駅跡は市出張所となっている。
山陽本線とは離れた位置に建設された、山陽新幹線新尾道駅付近を走行していた。尾道鉄道が実際に敷設されたルートは現在の国道184号線に沿っており、石見銀山で産出された銀を、海上輸送のため尾道まで運搬した、石見銀山街道と平行、または近接している(ただし木梨口 - 畑間付近の木ノ庄地区において鉄道・国道は西側、街道は東側を経由する違いがある)。また終点として計画された上下は街道の宿場町として栄えた場所であるが、鉄道の輸送ルートとしては、結果的に使用されることなく、上下・三次には福山から現在の福塩線が伸び、福山市と鉄道で結ばれることになった。吉舎 - 上下 - 府中 - 神辺と至るこの経路もまた、尾道へ至るルートから別れ、笠岡に向かった銀山街道を追っている[18]。
廃線跡は、地上から確認するのは困難であるが、航空写真等で上空から見ると宮ノ前 - 尾道間は住宅が廃線跡の上に沿うように、長細く連なっているのが確認できる。
現在市街地で遺構を確認できるものは、宮ノ前 - 栗原間の栗原の本通りと交差する部分にあった踏み切りの台座と、その先にある川にある橋台くらいである。
バス路線
- 三原車庫-三原駅前-垣内-久井-甲山
- 垣内-市
- 尾道駅前-(栗原本通/長江)-尾高前-三成-石畦駅前-畑-市-甲山-吉舎-三良坂-塩町-三次駅-尾関山
- 三良坂-備後庄原駅前
- 尾道駅前-長江-尾高前-三成-木梨口-前田店-枝-前前後-大塔-後前後-府中駅前
- 造船所前-桑田渡し-浄土寺下-防地口-長江口…(各地)
- 甲山-赤屋-東駐在所-青近口-反田-小童-甲奴-上下駅前
- 甲山-備後三川駅前
中国バス尾道営業所は三成にあるが、鉄道営業当時バスの車庫は本社も所在した西尾道駅構内にあった。バス専業化後は本社兼車庫として、中国バスに併合された以後も尾道営業所兼車庫として存在した。三成車庫に集約されるのは国道184号線(通称:桜土手)が整備された後年のことである。そしてその跡地に、かの中国バス直営ホテルが建設されることとなる。
脚注
参考文献
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- 『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
- 『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
関連項目
- 宇部鉄道の電車 - 同社の電車が、1950年に国鉄を経て3両譲渡されている。
外部リンク
- ひろしま戦前の風景 - 中国放送(RCC)。戦前の映像がある。
- ↑ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年8月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 『日本全国諸会社役員録. 第27回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正12年度』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年11月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年5月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年9月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道一部起業廃止」『官報』1932年12月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1933年4月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ No.34「西尾道石畦間運輸営業開始ノ件」11頁『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』
- ↑ No.55「電動貨車減少ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』
- ↑ No.52「附随客車ヲ電動客車ニ改造ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』
- ↑ No.54「車輌竣功ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』
- ↑ No.47「貨車設計変更ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』
- ↑ No.50「車輌竣功ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』
- ↑ No.54「車輌設計変更ノ件ニ関スル通牒(八年二月二十四日届)」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』
- ↑ No.59「電動客車竣功ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』
- ↑ 中国新聞・銀の道物語、国土交通省・中国地方の歴史街道を参考に構成した。