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	<title>黄皓 - 版の履歴</title>
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		<title>2013年12月13日 (金) 12:44に121.87.64.252による</title>
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		<updated>2013-12-13T12:44:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 黄皓&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[蜀漢]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 = [[中常侍]]&lt;br /&gt;
|出生       = [[215年]]以前&lt;br /&gt;
|出身地     = &lt;br /&gt;
|死去       = [[264年]]以降&lt;br /&gt;
|死没地     = &lt;br /&gt;
|ピン音     =&lt;br /&gt;
|字         = &lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[劉禅]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;黄 皓&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（こう こう、[[215年]]以前~[[264年]]以降）は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[宦官]]。[[蜀漢]]に仕えた。卑しい身分から出世して、皇帝[[劉禅]]の寵愛を受けて権力を掌握し、政治を壟断して蜀漢の滅亡を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経歴==&lt;br /&gt;
[[諸葛亮]]の死後、劉禅に寵愛され引き立てられた。監視役の[[董允]]の存命中は黄門丞という低い役職のままであったが、[[陳祗]]が董允の死後に後任となるや、結託して政務を預かるようになり、黄門令に昇進した。陳祗の死後は一気に[[中常侍]]・奉車都尉へ昇格し、国の実権を握るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[景耀]]5年（[[262年]]）、[[姜維]]を追放して代わりに[[閻宇]]を立てようと画策した。この画策は黄皓の独断ではなく、[[諸葛瞻]]・[[董厥]]も同調している。姜維は黄皓の専横を憎み、処刑するよう劉禅に請願したが聞き入れられなかったため、以降[[成都]]に帰還出来なくなった。なお、黄皓は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の著者である[[陳寿]]が蜀漢に仕えていた際、彼を憎んで免職にしている。また、甘陵王の[[劉永 (蜀漢)|劉永]]は黄皓を憎んでいたため、この事で黄皓から讒訴され、十余年に亘って朝廷への謁見が許されなかった。更に[[羅憲]]も黄皓に阿らなかったため、中央から巴東[[太守]]に左遷されている。諸葛瞻・董厥・[[樊建]]は当時の政務を担っていたが、互いに庇い合うばかりで黄皓の専横を止める事ができず、政治の乱れを矯正できなかった（ただ、樊建は黄皓と親しくする事がなかった）。一方で[[郤正]]は、宮廷内の官職に就いてからというもの、彼と屋敷を並べて働く事30年にも亘った（このことから、遅くとも[[233年]]の時点で彼が仕官して暫く時間が経過している事が分かる）が、気に入られも憎まれもしなかったため、官位も600石（地方の[[太守]]が2000石）を超える事がなく、讒言による被害も免れている。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また同時期に、蜀での使者の任務を終えて帰った[[呉 (三国)|呉]]の[[薛珝]]は、[[孫休]]に蜀の政治を問われた際、黄皓の名前を挙げてはいないが、「主は暗愚で過ちに気付かず、臣下は我が身が可愛くて、一向罪を被らない様に努め、朝政でも正言を聞く事が出来無い」と言っている。呉の[[張悌]]は宦官が蜀の朝政を恣にしているため、国家の正式な政令が権威を持っていないと断じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌年、[[魏 (三国)|魏]]が攻撃準備をしていると姜維から援軍要請があったが、黄皓はこれを握り潰した。そのため、蜀は迎撃体制が整わぬまま魏の攻撃を迎える事になった。[[綿竹]]で魏軍と戦った[[諸葛尚]]は、魏に敗れた際「早く黄皓を斬らなかったがためにこんな事になってしまった。生きていて何になろう」と言って突撃し、戦死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蜀滅亡後、魏の[[鄧艾]]は成都に入ると黄皓の邪悪・陰険さを聞き知り、逮捕・幽閉して殺害しようとした。しかし黄皓は、鄧艾の側近に手厚く賄賂を贈ったため死を免れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三国志演義での扱い==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では史実よりかなり早く、諸葛亮の存命中から権力を握った佞臣として登場する。魏から賄賂を貰って姜維を[[北伐]]の前線から呼び戻すなど、私腹を肥やす悪辣な人物として描かれる。蜀漢滅亡の直前には、劉禅に巫女の神託による政治を勧めて軍の派遣を阻んだり、江油城の落城を隠蔽したりと、滅亡を招いた最大の元凶にされている。成都を攻略した鄧艾から処刑されそうになるが、その部下に賄賂を渡して一時死を免れる。しかし最後は、[[司馬昭]]に五体を斬り刻まれ処刑される事になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こう こう}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の宦官]]&lt;br /&gt;
[[Category:蜀漢の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>121.87.64.252</name></author>
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