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	<title>郭図 - 版の履歴</title>
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		<title>222.58.154.63: /* 初期の事跡 */</title>
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		<updated>2014-06-05T03:39:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;span class=&quot;autocomment&quot;&gt;初期の事跡&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{特殊文字}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 郭図&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[後漢]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 = 都督&lt;br /&gt;
|出生       = 生年不詳&lt;br /&gt;
|出身地     = [[豫州]]潁川郡&lt;br /&gt;
|死去       = [[建安 (漢)|建安]]10年（[[205年]]）&lt;br /&gt;
|死没地     = [[冀州]]勃海郡南皮県&lt;br /&gt;
|ピン音     = Guō Tú&lt;br /&gt;
|字         = 公則&lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = 陰脩→[[袁紹]]→[[袁譚]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;郭 図&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（かく と、? - [[205年]]）は、[[中国]][[後漢]]時代末期の政治家、武将。[[字]]は&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;公則&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&amp;lt;ref&amp;gt;《[[九州春秋]]》&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[豫州]]潁川郡の人。&lt;br /&gt;
== 正史の事跡 ==&lt;br /&gt;
=== 初期の事跡 ===&lt;br /&gt;
潁川郡で計吏に推挙された。&amp;lt;ref&amp;gt;謝承《後漢書》&amp;lt;/ref&amp;gt;その後、[[荀諶]]・[[辛評]]とともに[[袁紹]]に仕えた。[[初平]]2年（[[191年]]）に、荀諶・張導・[[高幹]]・[[辛評]]らと共に韓馥を説得し、[[冀州]]を袁紹に譲らせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書袁紹伝によると、[[興平 (漢)|興平]]2年（[[195年]]）に郭図は[[献帝]]の下へ使者として派遣されている。冀州に戻るや、郭図は袁紹にこれを迎えることを勧めたが、受け入れられなかった。しかし、同伝の注に引く『献帝伝』と『[[後漢書]]』袁紹伝によると、この進言は[[沮授]]によるもので、郭図は[[淳于瓊]]と共にむしろ献帝を迎えることに反対していたとされる。どちらが正しいかは不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[建安 (漢)|建安]]4年（[[199年]]）、沮授と[[田豊]]が、[[曹操]]と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は[[審配]]と共に短期決戦戦略の採用を主張した。すると袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図が、監軍（袁紹軍総司令官の地位に当たる）の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言したため、監軍の地位・権限は三[[都督]]へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 官渡の戦い ===&lt;br /&gt;
建安5年（[[200年]]）2月、[[官渡の戦い]]が始まると、郭図は淳于瓊・[[顔良]]と共に白馬に駐留する[[劉延]]を攻撃した。しかし曹操軍の迎撃に遭い顔良、さらには[[文醜]]の両将を喪失するなど苦戦した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年10月、袁紹が淳于瓊に命じて、烏巣の兵糧を守備させると、曹操はこれを攻撃しようと図った。この時、郭図はこの隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張した。しかし[[張コウ|張{{lang|zh|郃}}]]は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると反論した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。このため淳于瓊らが曹操軍に撃ち破られ、烏巣の兵糧庫も破壊されてしまった。このとき郭図が、責任追及を恐れて張{{lang|zh|郃}}のことを讒言したため、張{{lang|zh|郃}}は止む無く曹操に降伏することになった（『三国志』魏書張{{lang|zh|郃}}伝）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、『三国志』魏書武帝紀によれば、袁紹は騎兵を烏巣に向かわせ、張{{lang|zh|郃}}と[[高覧]]に曹操軍の本陣を守る[[曹洪]]を攻撃させたとしている。また袁紹軍は、張{{lang|zh|郃}}らが淳于瓊の敗北を聞いて降伏したため、総崩れになったとある。そのため、[[裴松之]]が張{{lang|zh|郃}}伝の注で指摘するように張{{lang|zh|郃}}伝と時系列の間に矛盾が生じている&amp;lt;ref&amp;gt;この他、『三国志』魏書袁紹伝は、武帝紀と同様、張{{lang|zh|郃}}と高覧が降伏してから袁紹軍が総崩れになったとしている。『後漢書』袁紹伝も、武帝紀と同様、張{{lang|zh|郃}}は曹操軍の本陣を攻撃したものの失敗し、淳于瓊の敗北を聞いて降伏したとしている。また、『三国志』魏書[[荀攸]]伝では、張{{lang|zh|郃}}らの降伏を怪しむ曹洪に、荀攸は「張{{lang|zh|郃}}は自分の計略が採用されなかった事を怒って降伏したのです。あなたはどうして疑うのです。」と言っている。このように張{{lang|zh|郃}}降伏に関する張{{lang|zh|郃}}伝と、武帝紀などとの記述の違いは大きい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 袁氏内紛と最期 ===&lt;br /&gt;
建安7年（[[202年]]）に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男[[袁譚]]を後継者に推戴した。これに対し、郭図・辛評と不仲であった審配・[[逢紀]]が三男[[袁尚]]を推戴したため、これが袁氏の内紛につながってしまう。翌8年（[[203年]]）、郭図と辛評は袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して、[[平原]]に追い込まれ苦境に陥った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため郭図は次の手として、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられた&amp;lt;ref&amp;gt;『[[英雄記]]』によれば、郭図は袁譚に「曹操と同盟を結び、曹操と袁尚が戦っている隙に勢力を拡大し、その後に曹操と対抗するべきです。」と提案した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。袁譚は[[辛ピ|辛{{Lang|zh|毗}}]]を派遣して、曹操と同盟を結んだ。曹操は袁尚を攻撃し、[[ギョウ|鄴]]を攻め落とし審配を処刑した&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』魏書袁紹伝注に引く『[[漢晋春秋]]』によると、後継者争いが激化し、曹操の河北進攻が強まった時、審配は袁譚に信書を送り、郭図の誅殺を求めたが、袁譚に拒否されている。『三国志』魏書袁紹伝注に引く『[[魏略|典略]]』によると、袁譚は審配の信書を読んで涙したが、実質的に影響力のあった郭図に逆らうことができなかったとされる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚も一度は勢力を盛り返した。しかし、それが原因で曹操から盟約違反と非難され、両軍は再び交戦することになった。建安10年（205年）春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 内紛における郭図 ===&lt;br /&gt;
審配が忠義を尽くして壮絶な最期を遂げたことと、官渡の戦いにおける郭図の所業の悪さが原因で、一般には袁氏内紛でも郭図が悪者とされがちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、袁紹による明確な後継者指名がなかったにもかかわらず、審配らは袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を推し、『後漢書』袁紹伝によれば袁紹の遺命まで偽造したとされる。また同伝によれば、衆目は年長の袁譚後継支持であったとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、その後の対応では、郭図も審配憎しで袁氏兄弟の対立を煽っており、袁譚に袁尚への先制攻撃を嗾けるなど、依然として問題行動が多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『後漢書』袁紹伝では、露骨に名指しで書かれている。[[荊州]]の[[劉表]]が、袁氏内紛に際し[[王粲]]に和解の手紙を書かせたが、そこには「変事は辛評・郭図より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」と記されている。また審配も袁譚に手紙を書き、そこにも「どうして凶悪な臣下郭図などに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 物語中の郭図 ==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では無能な参謀として描かれており、袁氏を衰亡させた戦犯のように扱われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
官渡の戦いの前哨戦で、[[関羽]]に文醜を討ち取られた際には、[[劉備]]を処刑するよう審配と共に袁紹に進言するが、劉備に巧言で逃れられている。また、劉備が劉表の下へ向かうと申し出ると、それを阻むよう袁紹に諫止したが、容れられていない。しかし結局、劉備は戻って来なかったため、袁紹がこれを討伐しようとすると、それよりも[[孫策]]と同盟して曹操を討つよう進言し、受け入れられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の官渡戦や袁氏内紛については、史実とほぼ同様の展開である。ただ、南皮の戦いでは[[楽進]]に弓で射られ、城の堀に転落して死んだことになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[范曄]]『[[後漢書]]』列伝64上袁紹伝上、列伝64下袁紹伝下、付・袁譚伝&lt;br /&gt;
* [[陳寿]]『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書巻6袁紹伝、付・袁譚袁尚伝 魏書巻1武帝紀 魏書巻11王修伝 魏書巻17楽進伝&lt;br /&gt;
* 『[[三国志演義|三国演義]]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かく と}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:205年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>222.58.154.63</name></author>
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