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	<title>皇道派 - 版の履歴</title>
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		<title>218.251.123.97: /* 誕生 */</title>
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		<updated>2014-08-23T02:46:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;span class=&quot;autocomment&quot;&gt;誕生&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;皇道派&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（こうどうは）は、[[大日本帝国陸軍]]内にかつて存在した[[派閥]]。[[北一輝]]らの影響を受けて、[[天皇親政]]の下での国家改造（[[昭和維新]]）を目指し、対外的には[[ソビエト連邦]]との対決を志向した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==名称と概説==&lt;br /&gt;
名前の由来は、理論的な指導者と目される[[荒木貞夫]]が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界（皇道派の理屈では「君側の奸」）を排除して[[天皇]]親政による国家改造を説いたことによる。荒木が[[陸軍大臣]]に就任した[[犬養内閣]]時に陸軍内の主導権を握ると、[[三月事件]]、[[十月事件]]の首謀者を中央から退けたが、この処置が露骨な皇道派優遇人事として多くの中堅幕僚層の反発を招く。これら非皇道派の中堅幕僚層は、後に[[永田鉄山]]や[[東條英機]]を中心に[[統制派]]として纏まり、陸軍中枢部から皇道派は排除されていくことになる。両派の路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件（[[相沢事件]]や[[二・二六事件]]など）を引き起こして衰退していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二・二六事件で決起した青年将校らは、皇道派ではなく[[国体原理派]]を自任しており、彼らの決起をいさめ、[[大川周明]]や[[北一輝]]、[[西田税]]などに近づくことを禁止する[[真崎甚三郎]]を、昭和維新を解さぬ耄碌者視するほどであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誕生 ==&lt;br /&gt;
荒木が[[真崎甚三郎]]と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、[[宇垣一成]]陸相の下で、いわゆる[[宇垣軍縮]]が実施された時期に生まれたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宇垣は[[永田鉄山]]を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、[[航空機]]・[[戦車]]部隊を新設し、歩兵に[[軽機関銃]]・[[重機関銃]]・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永田は、[[第一次世界大戦]]の[[観戦武官]]として、[[ヨーロッパ]]諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する[[総力戦]]体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、宇垣が軍の実権を握っている間、荒木・真崎らは宇垣閥外の人物として冷遇されていた。荒木は[[1918年]]の[[シベリア出兵]]当時、シベリア派遣軍[[参謀]]であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共の右派的体質を身につけただけでなく、[[ソビエト連邦|ソヴィエト]]の軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
折から、佐官・尉官クラスの青年将校の間に『国家改造』運動が広がってきた。その動機は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ソビエトが[[1928年]]にはじまる第一次五ヶ年計画を成功させると、日本軍が[[満州]]を占領することも、対ソ攻撃を開始することも不可能になるので、一刻も早く対ソ攻撃の拠点として満州を確保しようとする焦り。 &lt;br /&gt;
* 軍縮のため[[将校]]達の昇進が遅れ、待遇も以前と比べて悪化しそれに対する不平・不満が激化したこと。 &lt;br /&gt;
* 農村の恐慌や不況のため、[[農民]]出身者の兵士の中に[[共産主義]]に共鳴する者が増加し、軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えたこと。&lt;br /&gt;
* 農村の指導層（[[地主]]・[[教師]]・[[社家]]・寺族・商家など）出身の青年将校の中には、幼馴染や部下の[[兵]]の実家・姉妹が零落したり「[[人身売買|身売り]]」されたりするなど、農村の悲惨な実態を身近で見聞きしていた者が多かったため。&lt;br /&gt;
などである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
青年将校らは、このような状況を作り出しているのが、宇垣ら[[軍閥]]を始め、[[財閥]]・[[重臣]]・[[官僚]]閥であると考えたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1931年]]11月、[[十月事件]]の圧力を背景に、犬養内閣で荒木が陸相に就任すると、真崎嫌いで知られる[[金谷範三]]参謀総長を[[軍事参議官]]に廻し、後任に[[閑院宮載仁親王]]を引き出す。ついで[[1932年]]1月に[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]]司令官の真崎を参謀次長として呼び戻し、参謀本部の実権を握らせた。一方で[[杉山元]]、[[二宮治重]]らの宇垣側近を中央から遠ざけ、次官に[[柳川平助]]、軍務局長に[[山岡重厚]]を配する等、自派の勢力拡大を図った。人事局長の[[松浦淳六郎]]、軍事課長の[[山下奉文]]もこの系譜につながる。荒木は尉官クラスに官邸で連日のように酒を振る舞うなど、武力による「維新」を企てる青年将校らを鼓舞し、その支持を集めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
荒木や真崎は、[[日露戦争]]時期を理想化し、日本をその状態に復帰させることが、軍の拡大強化や対ソ戦を早く決行できる所以だと考えた。ここから、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「[[天皇]][[親政]]」を実現すべしという思想が引き出される。このような思想を抱く荒木らに対し、青年将校らは「無私誠忠の人格」として崇敬した。これが&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;皇道派&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 行動 ==&lt;br /&gt;
この派は荒木・真崎をシンボルとし、前述の将官の他、1932年（昭和7）2月に[[参謀本部]]第二課長（作戦担当）ついで第三部長（運輸・通信担当）となった[[小畑敏四郎]]、憲兵司令官ついで第二師団長となった[[秦真次]]、小畑の後任の作戦課長である[[鈴木率道]]、陸大教官の[[満井佐吉]]らが首脳部をなしていたが、省部の中堅将校からはほとんど孤立した存在であった。皇道派が「国家革新」の切り札と頼む武力発動の計画に当たったのは、[[村中孝次]]・[[磯部浅一]]ら尉官クラスの青年将校団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皇道派青年将校が[[クーデター]]計画に狂奔したのは、彼らが[[日本陸軍|陸軍]][[陸軍省|省]][[参謀本部 (日本)|部]]中央に近い[[統制派]]ほどに具体的な情勢判断と方針を持たず、互いに天皇への忠誠を誓い、結果を顧みずに「捨石」たらんとしたという思想的特質にもよる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
青年将校らは自分たちの行動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」（※2・26事件の首謀者の一人、[[栗原安秀]]中尉の尋問調書より）に期待するのみであった。[[相沢三郎]]中佐は、法廷で検察官の質問に答え「国家革新ということは絶対にない。いやしくも日本国民に革新はない。大御心に拠ってそのことを翼賛し奉ることである」と述べている。したがって彼等は「革命」「クーデター」という概念すら拒絶していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに[[財閥]]や[[官僚]]には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を担当する条件そのものが欠落していたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走るという特徴が表面に現れた。その特徴こそ、軍部・官僚・財閥のファッショ的支配を押し進める露払いの役割を果たしたのである。もともと荒木が陸相に就任したこと自体、[[三月事件]]・[[十月事件]]で政党首脳が恐怖を感じた結果であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
真崎は[[教育総監]]時代、[[天皇機関説]]排斥運動の中心となり、政党政治の最後の拠り所までも粉砕する役割を果たした。[[五・一五事件]]や[[相沢事件]]の公判は、裁判所を軍国主義の扇動を行う舞台に代え、国民に[[排外主義]]、[[国粋主義]]を浸透させる有力な機会として十分に利用された。この直後に引き起こされた[[二・二六事件]]は更に準戦時体制へと途を開くのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 凋落 ==&lt;br /&gt;
荒木は犬養内閣、さらに[[齋藤内閣]]において陸相をつとめたが、もともと軍令・教育畑が長く政治力に欠けるところがあり、[[高橋是清]]蔵相との陸軍予算折衝でも成果を挙げることが出来なかった。また側近の多くも軍政経験が乏しく、荒木を十分に補佐したとは言い難い。このため大臣末期には省部中堅の信を失い、青年将校からは突き上げを食うなど閉塞状況に陥った。結局は[[1934年]]1月、酒を飲み過ぎて風邪をこじらせ、肺炎となり陸相を辞任する。荒木は後任陸相に真崎参謀次長を推薦したが、真崎の独断に閉口していた閑院宮参謀総長に反対され、[[林銑十郎]]教育総監が陸相となり、真崎はその後任に回った。柳川以下の皇道派幕僚も相次いで中央を去り、さらに同年11月には青年将校らによる[[士官学校事件]]が起こり、これを契機に統制派による真崎排除の機運が高まる。[[1935年]]7月、林と閑院宮は三長官会議において強引に真崎を更迭、後任に[[渡辺錠太郎]]を据えた。荒木の辞職、真崎の更迭によって皇道派は中央での基盤を失い、青年将校を中心に相沢事件を経て二・二六事件の暴発につながる。その後、[[1936年]]から翌年にかけての、大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。現役に残ったのは山下奉文、鈴木率道ら少数の者に過ぎなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお大戦末期の[[1944年]]、[[昭和天皇]]に[[木戸幸一|木戸内大臣]]を通じて、「戦争指導に行き詰まり、経済、社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏した[[近衛文麿]]に対し、天皇は次のように論駁している。「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに[[国家社会主義]]ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の[[共産主義]]的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」（木戸幸一日記）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[昭和維新]]&lt;br /&gt;
* [[北一輝]]&lt;br /&gt;
* [[二・二六事件]]&lt;br /&gt;
* [[相沢事件]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義#国家社会主義（日本）]]&lt;br /&gt;
* [[統制派]]&lt;br /&gt;
* [[満州派 (大日本帝国陸軍)]]&lt;br /&gt;
* [[皇国史観]]&lt;br /&gt;
* [[ファシズム]]&lt;br /&gt;
* [[原理日本社]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{226}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こうとうは}}&lt;br /&gt;
[[Category:君主主義]]&lt;br /&gt;
[[Category:天皇制]]&lt;br /&gt;
[[Category:大日本帝国陸軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:二・二六事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:昭和維新]]&lt;br /&gt;
[[Category:皇道派|*]]&lt;/div&gt;</summary>
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