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	<title>田疇 - 版の履歴</title>
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		<title>121.87.64.252: ﾘﾝｸ修正など</title>
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		<updated>2013-12-13T13:26:49Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;ﾘﾝｸ修正など&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;田 疇&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（でん ちゅう、[[169年]] - [[214年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期の人。[[字]]は&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;子泰&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;、あるいは&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;子春&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&amp;lt;ref&amp;gt;『[[後漢書]]』巻73「劉虞伝」の[[李賢 (唐)|章懐太子]]注には「『魏志』曰、疇字子春」とある。また[[陶淵明]]「擬古九首」其二の「聞有田子泰、節義為士雄」を「田子春」に作るテキストもある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[幽州]][[右北平郡]]無終県（[[天津市]][[薊県]]）の出身。従子は[[田続]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
22歳の時（[[190年]]）、[[劉虞]]から招聘を受け、気に入られて従事に任命された。また、そのまま劉虞の命令を受けて、[[献帝]]への忠節を誓う使者に任じられ[[長安]]に赴き、任務を全うした。その際、義人であるとして献帝の勅命で[[騎都尉]]に任じられるが、天下騒乱の折りで天子も落ち着いていない情勢時に、自分だけ出世など出来ないとして固辞している。幽州に帰着すると、劉虞が[[公孫サン|公孫瓚]]によって殺されてしまっていた。田疇は劉虞の墓に赴き哭したが、その行為が公孫瓚の怒りを買い、捕らえられて殺されそうになった。しかし毅然とした態度で反論したため、殺されずに済んだ。その後、取り成しを経て釈放され郷里に戻り平民となって、一族郎党を引き連れて徐無山に登って隠棲した。そこで暮らす内に彼の人徳を慕って多くの人が集まり、家々が数千軒に膨れ上がったという。そこで田疇はリーダーに推されたため、法を整備し教育に力を入れた。いつの間にか田疇の集落は、[[烏桓]]・[[鮮卑]]が使節を派遣して誼を通じようとする程の規模となっていた。その噂を聞きつけた[[袁紹]]と子の[[袁尚]]が、何度も招聘して自陣営に田疇を引き込もうとしたが、彼はそれらを全て固辞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[207年]]、[[曹操]]の烏桓討伐の折、招聘を受けるとすぐさま曹操の宿営地に赴いた。到着すると、すぐに[[司空]]戸曹の属官に任命された。しかし曹操自身が彼と会見してみると、非常に立派な人物であると分かったため「彼はわしの下役人にして良い男ではない」として属官の件を撤回し、[[茂才]]に推挙した。その後、役職に就かないまま烏桓討伐に随行し、道案内役（田疇の故郷と烏桓の領地が境を接していたため、その辺りの地理に明るかった）を買って出て討伐の成功に大きく貢献した。その勲功によって亭侯の位を授けられるが、初志に反するとして、侯位を固辞した。所轄の役人が、田疇の固辞する態度が頑なで道に外れているとして、免職とし刑罰を加えるよう曹操に進言したが、曹操は問題にしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家族を引き連れて[[鄴]]に移り住んだ。しばらくして、かつて自分を招聘してくれた袁尚の首が鄴に届いたが、彼は禁令を犯して袁尚の遺骸を引き取り哭して弔った。その行為は本来死刑に値したが、曹操は彼の礼節心を嘉して、またもや問題にしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[荊州]]討伐から帰還した曹操は、田疇の先の功績が卓越していたのを思い出し、彼に爵位を与えなかったことを後悔した。そこで田疇の友人であった[[夏侯惇]]に、自分（曹操）の名前は出さないように内示して、それとなく田疇を説得し爵位の件を受諾させるよう依頼した。内示を受けた夏侯惇は早速田疇宅に赴いて宿泊し、その帰り際に「田君よ、曹操様のご厚意を全く無視するわけにはまいりませんぞ」と彼を諭した。しかし田疇は涙を流し「何ということをおっしゃいますか。私は本来世間から逃げ隠れした人間。今の立場でいられるのは僥倖に過ぎません。徐無山の集落を売って爵位に替えるような真似は出来ません。私を本来理解してくださっている筈の将軍ですら、そのようなことを申されますか。この首を掻き切って命を捧げたいと存じます」と言って固辞した。夏侯惇がそれらをありのままに報告すると、曹操もついに田疇へ侯位を授けるのを諦め、議郎に任命することにした。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
46歳で亡くなった。子供も早くに亡くなっていたという。[[魏 (三国)|魏]]帝国が成立すると、[[曹丕]]（文帝）の勅命によって田続が家を継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 陳寿の賛 ==&lt;br /&gt;
「田疇の節義　＝中略＝　は、世俗を矯正するに充分である」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[裴松之]]は田疇伝への注の中で、田疇が袁尚を哭して弔った行為について、田疇が烏桓討伐を手助けした結果、袁尚が捕まり殺されてしまったので「彼の哭した行為は偽善的である」と、批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;[[正史]][[三国志]]2　田疇伝　[[陳寿]]著・[[裴松之]]注　[[井波律子]]・[[今鷹真]]訳　[[ちくま学芸文庫]]1993年　ISBN4-480-08042-2 &amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物|てん ちゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:天津出身の人物|てん ちゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:169年生|てん ちゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:214年没|てん ちゆう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>121.87.64.252</name></author>
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