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	<title>潘濬 - 版の履歴</title>
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		<title>240F:63:D61B:1:B87B:AF68:4E15:E811: /* 参考文献 */</title>
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		<updated>2014-08-14T04:58:47Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;span class=&quot;autocomment&quot;&gt;参考文献&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 潘濬&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[呉 (三国)|呉]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 = 劉陽侯 / [[太常]]&lt;br /&gt;
|出生       = 生年不詳&lt;br /&gt;
|出身地     = [[荊州]][[武陵]]郡漢寿県&lt;br /&gt;
|死去       = [[赤烏]]2年（239年）&lt;br /&gt;
|死没地     = &lt;br /&gt;
|ピン音     =&lt;br /&gt;
|字         = 承明&lt;br /&gt;
|諡号       =&lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[劉表]]→[[劉備]]→[[孫権]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;潘 濬&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（はん しゅん、? - [[239年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将・政治家。[[荊州]][[武陵]]郡漢寿の人。[[字]]は&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;承明&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;。妻は[[蒋エン|蒋琬]]の妹&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志2&amp;quot;&amp;gt;『三国志』潘濬伝注『江表伝』 &amp;lt;/ref&amp;gt;。子は潘翥・潘祕・女子一人（[[孫慮]]の妻）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[劉表]]・[[劉備]]に仕え、両者から有能だと評価された。その後は[[呉 (三国)|呉]]に仕え、[[孫権]]からは特に信任され、重く用いられた。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志に伝がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 正史の事績 ==&lt;br /&gt;
20歳前後の時、[[宋忠]]から学問を学んだ。『呉書』によると、聡明な資質を持ち、人との応対は機敏で、その言葉は理論立っていたとされ、[[王粲]]に高く評価されたのを機に、荊州の人士の間で名声を得た。30歳以前の時、劉表に召し出され[[江夏区|江夏]]郡の従事となった。当時、江夏郡は汚職官吏の横行によって統治が乱れていたが、潘濬は彼等を法に照らして処罰したので、民衆は彼の厳格な法の適用を恐れ、郡を挙げて従うようになった。その後、湘郷[[県令]]として優れた治績を上げたため、人々からの評判が極めて高くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備が荊州を治めるようになると、その配下となり荊州の従事を務めた。劉備が[[益州]]に入ると荊州に留められ、州の事務を一任される事になった。劉備には信任されていたが、[[関羽]]には[[糜芳]]・[[士仁]]と同様に疎まれていたという&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』[[楊戯]]伝の「季漢輔臣賛」。 &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[219年]]、[[呂蒙]]の計略により、荊州は糜芳・士仁が寝返って関羽も殺害され、孫権に占領された&amp;lt;ref  name=&amp;quot;三国志1&amp;quot;&amp;gt;『三国志』呉主伝 &amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』呂蒙伝 &amp;lt;/ref&amp;gt;。『江表伝』によると、荊州にいた劉備配下の部将や役人のほとんどは孫権に帰順したが、潘濬だけが自宅に退き出頭しなかった。孫権は部下に命じて潘濬の説得を試みたが、潘濬は寝台の上で泣くばかりで出頭を拒否した。そのため孫権は潘濬を寝台に括り付けて自分の下に連行させ、自ら親しくその説得に当たり、心服させた。潘濬は輔軍[[中郎将]]に任じられ、荊州の軍事を委任された（『江表伝』によると治中も兼任）。まもなく奮威将軍に昇進し、常遷亭侯に封じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『江表伝』・『襄陽記』によると、[[220年]]に武陵の部従事であった樊抽が異民族（武陵蛮）をまとめあげ、[[221年]]には以前の潘濬の同僚である習珍もこれに呼応し、昭陵[[太守]]を自称した&amp;lt;ref&amp;gt;劉備の征呉東侵に呼応するため。&amp;lt;/ref&amp;gt;。孫権は、潘濬が樊抽達の旧知であり、荊州の事情にも通じていたため、仮節を授け諸軍を統率させ、[[歩隲|歩騭]]と共に鎮圧させた。潘濬は信賞必罰をもって軍規を徹底した上で討伐にあたり、異民族を鎮撫する事に成功した。ついで習珍にも、一時は軍を引き下げて降伏を勧めたが、これは拒絶されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に、[[周魴]]が[[魏 (三国)|魏]]の[[曹休]]に送った偽降の手紙によると、潘濬は異民族の降伏者を多数編入し、強大な軍勢を率いていたという&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』周魴伝 &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[226年]]、古参の将軍の一族である芮玄（[[孫登]]の妻の父）が亡くなった後、その兵士を与えられ[[夏口]]に駐屯したという&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志&amp;quot;&amp;gt;『三国志』潘濬伝注『呉書』 &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[229年]]、孫権が即位すると、潘濬は[[少府]]に任じられ、劉陽侯に封じられた。やがて[[太常]]に昇進した。[[陸遜]]と共に[[武昌]]の守備にあたったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これより以前、歩騭は226年に漚口へ駐屯するようになったが、[[驃騎将軍]]となった229年以降に&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志3&amp;quot;&amp;gt;『三国志』歩騭伝 &amp;lt;/ref&amp;gt;軍勢の強化を図るため、私兵を雇う事を孫権に願い出た。しかし、潘濬が歩騭の[[軍閥]]化を危惧する意見を出したため、孫権はこの意見に従い許可しなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。また、名声が高く横暴な振る舞いが目立っていた、中郎将である豫章の徐宗を斬った&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。これらは、潘濬が法を重んじて人々の評判を意に介さなかった例として挙げられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[230年]]、魏の隠蕃という人物が投降し、[[朱拠]]や[[カク普|郝普]]など多くの人物が彼を賞賛したが&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』[[胡綜]]伝 &amp;lt;/ref&amp;gt;、潘濬は投降者の彼と付き合おうとする子を叱りつけた。後に、隠蕃が密偵であったことが判明すると、潘濬の先見の明が賞賛された&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時期や経緯は不明だが、娘を孫慮に嫁がせている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[231年]]、五谿の異民族（五谿蛮）が反乱を起こすと、五万の兵を率いて出陣した&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志1&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。このとき、[[長沙]]にいた[[呂岱]]の協力も受け&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志0&amp;quot;&amp;gt;『三国志』呂岱伝 &amp;lt;/ref&amp;gt;、[[呂拠]]・[[朱績]]・[[鍾離牧]]といった将軍を率いていたが、鍾離牧を一時置き去りにしなければならないほど苦戦したこともあったという&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』[[呂範]]伝付呂拠伝 &amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』朱然伝付朱績伝&amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』鍾離牧伝注『会稽典録』 &amp;lt;/ref&amp;gt;。[[234年]]冬11月になって、ようやく反乱を鎮圧した&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志1&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。このとき、数万の敵を斬るか捕虜にしたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
異民族討伐を終えると、再び武昌の守備についた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]が没し、その跡を受けて蒋琬が[[大将軍]]になると、彼との縁戚関係から、潘濬の蜀との内通を疑う意見が出された。これを真に受けた武陵太守の衛旌が孫権に報告したところ、孫権はそれを聞き入れず、封をしたまま潘濬に手紙を渡し、衛旌を中央に召喚し免職にした&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志2&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、[[呂壱]]が家臣の昇進や処罰を妄りに行ない、権勢をほしいままにしていた。建安太守の鄭冑が呂壱の讒言により獄に下されたときも、[[陳表]]と共にこれを諌め、無罪放免にさせたという&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』呉主伝注『文士伝』 &amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに、[[顧雍]]や朱拠までもが軟禁されるという宮中の混乱に潘濬は激怒し、同じく事態を憂慮していた陸遜と協力し&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』陸遜伝 &amp;lt;/ref&amp;gt;、呂壱の排除を計画した。呂壱は顧雍を排除した後、潘濬がその後任になることを知ると、慌てて顧雍を無罪放免とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
潘濬は上京して孫権に直訴しようとしたが、既に孫登の諫言すらも取り上げられなかったことを知ったため、百官を全て集めその場で呂壱を殺そうと計画した。しかし、呂壱が事前に察知して参内を避けたため果たせなかった。その後も潘濬は孫権に目通りする度に呂壱の悪事を糾弾した。歩騭もまた、潘濬や陸遜の意見を支持したという&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志3&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため孫権の呂壱への寵愛もやがて失せ、[[238年]]に呂壱は処刑された。孫権は、自らの不明を百官に謝罪すると共に、呂壱の悪事を諌めなかった重臣も同時に糾弾した。潘濬は陸遜と共に、涙を流しながら苦しげな態度をとったため、孫権を不安にさせたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志1&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
239年死去。潘翥が跡を継いだ。『呉書』によると、潘翥は若くして亡くなったため、潘祕が跡を継ぎ孫権の姪（姉の子）を娶ったという。荊州での任務については呂岱が引き継いだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志0&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 物語中の潘濬 ==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、関羽の家臣として登場し、[[王甫]]から「信用できない小者」と評されており、また酒好きな人物とされている。物語中ではこの場面で名前が出るのみであり、糜芳・傳士仁・[[范彊]]・[[張達]]ら蜀にとっての反逆者や、[[徐晃]]・呂蒙・[[潘璋]]・[[朱然]]といった関羽を追い詰めた他勢力の人物とは違い、その後の出番も無く、死因を変えられたりもしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
『[[季漢輔臣賛]]』では糜芳・士仁・郝普と並び、呉蜀二国において裏切り者・笑い者との評を得たとされている。歩騭を何度か警戒するような行動をとったが、当の歩騭からは高く評価されていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;三国志3&amp;quot;&amp;gt; &amp;lt;/ref&amp;gt;。[[陳寿]]は、彼が私利を求めず国家の大事を求めたことを評価している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉書16潘濬伝 呉書2呉主伝 呉書9呂蒙伝 呉書15呂岱周魴鍾離牧伝 呉書7歩騭伝 呉書17胡綜伝 呉書11呂範伝付・呂拠伝 呉書13陸遜伝 蜀書15楊戯伝&lt;br /&gt;
*『[[三国志演義|三国演義]]』&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はん しゆん}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:漢代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:239年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:常徳出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:B87B:AF68:4E15:E811</name></author>
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