<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
	<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1</id>
	<title>渡辺崋山 - 版の履歴</title>
	<link rel="self" type="application/atom+xml" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1"/>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1&amp;action=history"/>
	<updated>2026-09-29T07:21:13Z</updated>
	<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
	<generator>MediaWiki 1.44.2</generator>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1&amp;diff=40782&amp;oldid=prev</id>
		<title>2014年4月11日 (金) 19:14に221.94.14.18による</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1&amp;diff=40782&amp;oldid=prev"/>
		<updated>2014-04-11T19:14:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;[[画像:Watanabe Kazan.jpg‎|thumb|200px|渡辺崋山像。崋山の弟子、椿椿山によって崋山の死後12年後の嘉永6年（1853年）に描かれたもの。田原市博物館蔵。重要文化財。]]&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;渡辺 崋山&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（わたなべ かざん、[[寛政]]5年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]（[[1793年]][[10月20日]]） - [[天保]]12年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]（[[1841年]][[11月23日]]））は、[[江戸時代]]後期の[[武士]]、[[画家]]。[[三河国]][[田原藩]]（現在の愛知県[[田原市]]東部）の藩士であり、のち[[家老]]となった。通称は登（のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫）、[[諱]]は定静（さだやす）。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。号は他にも全楽堂、寓画堂など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 誕生と苦難の幼少時代 ===&lt;br /&gt;
江戸詰（定府）の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、[[江戸]]・[[麹町]]（現在の[[東京都]][[千代田区]]の[[三宅坂]]付近）の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから15人扶持（石に直すと田原藩では27石）に削られ、さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は極端な貧窮の中に育った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて[[太平洋戦争]]以前の[[修身]]の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになる。のちに[[谷文晁]]に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活に苦労せずにすむようになることができた。一方で学問にも励み、田原藩士の[[鷹見星皐]]から[[儒学]]（[[朱子学]]）を学び、18歳のときには[[昌平坂学問所]]に通い[[佐藤一斎]]から教えを受け、後には[[松崎慊堂]]からも学んだ。また、[[佐藤信淵]]からは[[農学]]を学んでいる。&lt;br /&gt;
[[画像:池ノ原公園崋山幽居跡.JPG|thumb|250px|right|池ノ原公園崋山幽居跡。1955年に復元したもの。詳しくは[[池ノ原公園]]を参照（2004年9月19日撮影）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 田原藩士として ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藩士としては、8歳で時の藩主[[三宅康友]]の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉（後の藩主・[[三宅康明]]）の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目であった。[[文政]]6年（[[1823年]]）、田原藩の和田氏の娘・たかと結婚し、同8年（[[1825年]]）には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を引き継いだ（父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた）。同9年には取次役となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、翌10年に藩主康明が28歳の若さで病死してしまい、藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった[[姫路藩]]から養子を持参金付きで迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の[[真木定前]]らとともに康明の異母弟・[[三宅友信|友信]]の擁立運動を行った。結局藩上層部の意思がとおって養子・[[三宅康直|康直]]が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子（のちの[[三宅康保]]）を次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、[[巣鴨]]に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、のちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の[[明治]]14年（[[1881年]]）に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保3年（[[1832年]]）5月、崋山は田原藩の年寄役末席（家老職）に就任する。20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者[[大蔵永常]]を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に[[鯨油]]による[[イネ]]の害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な気候の渥美半島に着目して[[サトウキビ]]栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、[[ハゼノキ|ハゼ]]・[[コウゾ]]の栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保7年（[[1836年]]）から翌年にかけての[[天保の大飢饉]]の際には、あらかじめ食料備蓄庫（報民倉と命名）を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「蘭学にて大施主」 ===&lt;br /&gt;
また、[[紀州藩]]儒官[[遠藤勝助]]が設立した[[尚歯会]]に参加し、[[高野長英]]などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英は[[ジャガイモ]]（馬鈴薯）と[[ソバ]]（早ソバ）を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。その後この学問会は[[モリソン号事件]]とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や[[小関三英]]、[[幡崎鼎]]、幕臣の[[川路聖謨]]、[[羽倉簡堂]]、[[江川英龍]]（太郎左衛門）などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けている。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある[[藤田東湖]]は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちの指導者的存在であるとみなしての呼び名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 蛮社の獄とその最期 ===&lt;br /&gt;
[[File:Watanabe Kazan&amp;#039;s Family Graves.jpg|thumb|愛知県田原市城宝寺の墓所]]&lt;br /&gt;
かつて、蛮社の獄は、幕府の保守派、目付[[鳥居耀蔵]]が蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、これは明治の[[藤田茂吉]]がこれを[[自由民権運動]]との連想で書いたためである。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773082 『文明東漸史』百八頁]カ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;こういった経緯のために昭和戦時下、左翼文学者の[[藤森成吉]]らが崋山を好んで描き、左翼運動の隠喩とした。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが実際には、鳥居と[[江川英龍]]との確執が原因であり、天保10年（[[1839年]]）5月、鳥居は江川とその仲間を罪に落とそうとした。江川は老中[[水野忠邦]]にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『[[慎機論]]』が発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで、田原で蟄居することとなった。翌々年、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人[[福田半香]]の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち（一説には藩内の反崋山派による策動とされている）、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の[[渡辺小崋]]が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという（江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の[[明治]]元年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]（[[1868年]][[4月7日]]）のことであった）。なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
著書に『西洋事情書』など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 画家・文人としての崋山 ==&lt;br /&gt;
[[Image:A landscape of weaving sound under moon light.jpg|left|thumb|190px|月下鳴機図 天保12年（1841年）の作。静嘉堂文庫美術館蔵、重要美術品]]&lt;br /&gt;
[[Image:A portrait of Takami Senseki by Watanabe Kazan.jpg|right|thumb|190px|鷹見泉石像 天保8年（1837年）の作。東京国立博物館蔵。国宝]]&lt;br /&gt;
[[画像:A portrait of Satoh Issai by Watanabe Kazan.jpg|thumb|190px|佐藤一斎像 文政4年（1821年）の作。東京国立博物館蔵、重要文化財]]&lt;br /&gt;
華山は年少の頃より生計を支える為に画業を志した。最初、大叔父の平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて[[白川芝山]]に師事したが付届けができないことを理由に破門された。これを憐れんだ父は、藩主の姻戚の家来というつてを頼って[[金子金陵]]に崋山の弟子入りを頼み、受け入れられた（文化6年＝崋山17歳&amp;lt;ref&amp;gt;佐藤昌介『渡辺崋山』&amp;lt;/ref&amp;gt;）。金陵は崋山に眼をかけ、崋山の画力は向上した。このころ、初午灯篭の絵を描く内職を手がけた。崋山によれば百枚書いて、銭一貫だったというが、このときに絵を速く描く技術を身につけたことは、後年の紀行文中の素描などに大きく役立ったであろうことがうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、金陵の師である[[谷文晁]]にも教えを受けた。文晁は華山の才能を見抜き、画技のみならず[[文人画|文人画家]]としての手本となった。師の文晁に倣って[[南画]]のみならず様々な系統の画派を広く吸収した。文人画は清の[[惲南田]]に強く影響されている。また肖像画は陰影を巧みに用いて高い写実表現に成功している。西洋画の影響があったことは間違いないがかつて例のない独自の画法を確立させた。当時から華山の肖像画は人気があり多くの作品を画いた。代表作としては、「[[鷹見泉石]]像」・「[[佐藤一斎]]像」・「[[市河米庵]]像」などが知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:A portrait of Ichikawa Beian 市河米庵像.jpg|thumb|190px|left|市河米庵像 天保8年（1837年）の作。京都国立博物館蔵、重要文化財]]&lt;br /&gt;
[[Image:A portrait of Takizawa Kinrei by Watanabe Kazan.jpg|thumb|190px|滝沢琴嶺像 天保6年（1835年）の作。個人蔵、天理大学付属天理図書館寄託]]&lt;br /&gt;
こうした崋山の写実性へのこだわりを示す逸話がある。[[1835年]]（天保6）、画家友達であった[[滝沢琴嶺]]が没し、崋山は葬儀の場で琴嶺の父・[[曲亭馬琴|滝沢馬琴]]にその肖像画の作成を依頼された。当時、肖像画は当人の没後に描かれることが多く、画家はしばしば実際に実物を見ることなく、やむを得ず死者を思い出しながら描くことがしばしばあり、崋山の琴嶺像執筆もそうなる予定だった。ところが崋山はそれを受け入れず、棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込んで素描し、さらに顔に直接触れたという（馬琴『後の為の記』）。これらは当時の価値観や風習から大きく外れた行動であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元々崋山は貧しさをしのぐ目的もあり画業を始めたのだが、それが大きく花開き、また画業を習得する際に得た視野や人脈は、崋山の発想を大きくするために得がたいものとなった。代表作に当時の風俗を写生した「一掃百態図」など。また、[[文人]]としては随筆紀行文である『全楽堂日録』『日光紀行』などを残し、文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景を髣髴させるとともに、当時を文化・風俗を知る重要な資料となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弟子に[[椿椿山]]・[[福田半香]]などが育った。末弟の[[渡辺如山|如山]]を椿山の画塾に入門させ将来を嘱望される画家としたが、僅か22歳で夭折した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==弟子の一覧==&lt;br /&gt;
===崋山十哲===&lt;br /&gt;
*[[椿椿山]]&lt;br /&gt;
*[[福田半香]]&lt;br /&gt;
*[[平井顕斎]]&lt;br /&gt;
*[[永村茜山]]&lt;br /&gt;
*[[井上竹逸]]&lt;br /&gt;
*[[山本栞谷]]&lt;br /&gt;
*[[小田甫川]]&lt;br /&gt;
*[[立原春沙]]　[[立原杏所]]の長女&lt;br /&gt;
*[[斎藤香玉]]&lt;br /&gt;
*[[岡本秋暉]]　師友&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[金子豊水]]&lt;br /&gt;
*[[鈴木三岳]]&lt;br /&gt;
*[[高木悟庵]]&lt;br /&gt;
*[[桜間青涯]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作文献 ==&lt;br /&gt;
*『渡辺崋山集』全7巻　[[芳賀登]]ほか監修、[[日本図書センター]]、[[1999年]]&lt;br /&gt;
*『定本渡辺崋山』全3巻　[[常葉美術館]]編、郷土出版社、1991年&lt;br /&gt;
*『崋山画譜』2冊組　[[芸艸堂]]、元版は[[吉川弘文館]]、明治44年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 崋山を題材とした作品 ==&lt;br /&gt;
===伝記・評論===&lt;br /&gt;
*[[石川淳]]『渡辺崋山』 [[三笠書房]]、1941／筑摩叢書、1964&lt;br /&gt;
*[[森銑三]]『渡辺崋山』 創元選書、1941／[[中公文庫]]、1978&lt;br /&gt;
*[[田村栄太郎]]『渡辺崋山の人と思想』今日の問題社　1943&lt;br /&gt;
*[[菅沼貞三]]『崋山の研究』座右宝刊行会　1947／木耳社 1969　&lt;br /&gt;
*[[太田黒克彦]]『渡辺崋山』むさし書房　1950&lt;br /&gt;
*[[佐藤昌介]]『渡辺崋山』[[人物叢書]]：吉川弘文館、新版1986&lt;br /&gt;
*[[吉沢忠]]『渡辺崋山』東京大学出版会・日本美術史叢書 1956 新版1972&lt;br /&gt;
*[[藤森成吉]]『渡辺崋山の人と芸術』春秋社 1962&lt;br /&gt;
*[[蔵原惟人]]『渡辺崋山 思想と芸術』新日本出版社 1973 &lt;br /&gt;
*[[芳賀徹]]『渡辺崋山　優しい旅びと(日本の旅人）』 淡交社、1974／[[朝日選書]]、1986&lt;br /&gt;
*[[鎌田道隆]]『渡辺崋山 洋学開花期の芸術と思想』平凡社、1979 &lt;br /&gt;
*[[日比野秀男]]『渡辺崋山 秘められた海防思想』ぺりかん社　1994 &lt;br /&gt;
*[[加藤文三]]『渡辺崋山』大月書店　1996 &lt;br /&gt;
*[[小澤耕一]]『渡辺崋山研究 三河田原藩の周辺と画論を中心に』日本図書センター　1998 &lt;br /&gt;
*芳賀登『士魂の人 渡辺崋山探訪』つくばね舎　2004 &lt;br /&gt;
*[[ドナルド・キーン]]『渡辺崋山』 [[角地幸男]]訳、[[新潮社]]、2007&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===小説===&lt;br /&gt;
*藤森成吉『渡辺崋山』改造社、1935、同（上下）、1951&lt;br /&gt;
*[[杉浦明平]]『小説渡辺崋山』（[[朝日新聞社]]、1971、[[朝日新聞出版|朝日文庫]]全8巻、1982）&lt;br /&gt;
*藤森成吉『渡辺崋山と[[冷泉為恭]]』 高見沢木版社、1939。以下は随筆&lt;br /&gt;
*藤森成吉『渡辺崋山 夜明け前のエレジイ』造形社　1971  &lt;br /&gt;
*杉浦明平『わたしの崋山』（[[未來社]]、1967／ファラオ企画、1991）&lt;br /&gt;
*杉浦明平『崋山探索』（[[河出書房新社]]、1972／[[岩波書店]]同時代ライブラリー、1998）&lt;br /&gt;
*杉浦明平『崋山と長英』（[[第三文明社]]レグルス文庫、1977）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===漫画===&lt;br /&gt;
[[みなもと太郎]]『[[風雲児たち]]』（潮出版社、新版リイド社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ラジオドラマ===&lt;br /&gt;
*名作劇場『渡辺崋山』（[[NHK]]東京／1967年／脚本：和田勝一／出演：[[花柳喜章]]、[[斎藤隆 (声優)|斎藤隆]]、[[桜井英一]]、[[山田清]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*[[佐藤昌介 (歴史学者)|佐藤昌介]]　『渡辺崋山　人物叢書』（[[吉川弘文館]]、新装版1986年）&lt;br /&gt;
*日比野秀男  『新潮日本美術文庫20　渡辺崋山』（日本アートセンター編、[[新潮社]]、1997年）ISBN 4-10-601540-4.&lt;br /&gt;
*別所興一　『渡辺崋山─郷国と世界へのまなざし』（愛知大学綜合郷土研究所ブックレット、2004年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Category:Watanabe Kazan}}&lt;br /&gt;
* [[尚歯会]]&lt;br /&gt;
* [[高野長英]]&lt;br /&gt;
* [[小関三英]]&lt;br /&gt;
* [[村上範致]]&lt;br /&gt;
* [[椿椿山]]&lt;br /&gt;
* [[福田半香]]&lt;br /&gt;
* [[高久靄厓]]&lt;br /&gt;
* [[立原杏所]]&lt;br /&gt;
* [[岡本秋暉]]&lt;br /&gt;
* [[蛮社の獄]]&lt;br /&gt;
* [[崋山神社]]&lt;br /&gt;
* [[田原市博物館]]&lt;br /&gt;
* [[蘭癖]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/ 田原市博物館]&lt;br /&gt;
*[http://www.hirano-museum.jp// 平野美術館（[[浜松市]]）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:わたなへ かさん}}&lt;br /&gt;
[[Category:蘭学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の画家]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の文人]]&lt;br /&gt;
[[Category:19世紀の美術家]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の随筆家]]&lt;br /&gt;
[[Category:田原藩の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1793年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1841年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>221.94.14.18</name></author>
	</entry>
</feed>