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	<title>松平信康 - 版の履歴</title>
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		<title>59.146.39.9: 引き続き出典求む</title>
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		<updated>2014-08-20T12:04:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;引き続き出典求む&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{Otheruses|徳川家康の長男|徳川家康の叔父|松平信康 (源次郎)}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 松平 信康&lt;br /&gt;
| 画像 =&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = &lt;br /&gt;
| 画像説明 = 松平信康像([[勝蓮寺]]所蔵)&lt;br /&gt;
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[永禄]]2年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]（[[1559年]][[4月13日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[天正]]7年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]（[[1579年]][[10月5日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 竹千代（幼名）→信康&lt;br /&gt;
| 別名 = 次郎三郎、岡崎三郎（通称）&amp;lt;br /&amp;gt;隆岩、隆厳（号）&amp;lt;ref&amp;gt;『系図綜覧』では隆岩。『系図纂要』では隆厳。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;br /&amp;gt;徳川信康&lt;br /&gt;
| 諡号 = &lt;br /&gt;
| 神号 = &lt;br /&gt;
| 戒名 = 騰雲院殿隆厳長越大居士&lt;br /&gt;
| 霊名 = &lt;br /&gt;
| 墓所 = [[大樹寺|成道山松安院大樹寺]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[愛知県]][[岡崎市]]の[[若宮八幡宮]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[静岡県]][[浜松市]][[天竜区]]二俣町の[[清滝寺]]&amp;lt;br /&amp;gt;静岡県[[静岡市]][[清水区]]江尻東の[[江浄寺]]&lt;br /&gt;
| 官位 = &lt;br /&gt;
| 幕府 = &lt;br /&gt;
| 主君 = 徳川家康&lt;br /&gt;
| 藩   = &lt;br /&gt;
| 氏族 = [[松平氏]]（[[徳川氏]]）&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[徳川家康]]、母：[[築山殿]]（築山御前）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;信康&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;、[[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]、[[結城秀康|秀康]]、[[督姫]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[徳川秀忠|秀忠]]、[[松平忠吉|忠吉]]、[[正清院|振姫]]、[[武田信吉|信吉]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[松平忠輝|忠輝]]、[[松平松千代|松千代]]、[[松平仙千代|仙千代]]、[[徳川義直|義直]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[徳川頼宣|頼宣]]、[[徳川頼房|頼房]]、[[市姫]]&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;[[徳姫]]&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（[[織田信長]]の娘）&amp;lt;br /&amp;gt;側室：[[浅原昌時]]の娘&amp;lt;br&amp;gt;側室：[[日向時昌|日向大和守時昌]]の娘&lt;br /&gt;
| 子   = [[登久姫]]（[[小笠原秀政]]正室、生母：徳姫）、&amp;lt;br&amp;gt;[[妙高院]]（[[本多忠政]]正室、生母：徳姫）、&amp;lt;br&amp;gt;[[萬千代]]（生母：日向時昌女）&amp;lt;ref&amp;gt;『[[系図纂要]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 特記事項 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;松平 信康&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（まつだいら のぶやす）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[徳川家康]]の長男（嫡男）。母は[[関口親永|瀬名義広]]の娘で[[今川義元]]の姪の瀬名（[[築山殿]]）。また、後に[[松平氏|松平宗家]]の居城の[[岡崎城|岡崎城主]]（[[愛知県]][[岡崎市]]）を務めたため、祖父[[松平広忠|広忠]]同様に&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;岡崎三郎&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;と名乗った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名乗り ==&lt;br /&gt;
[[徳川氏]]を継ぐことなく死去したため徳川氏を名乗っていないとされるが、今日では&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;徳川 信康&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（とくがわ のぶやす）と表記されることも少なくない。理由は江戸時代に入ってから、[[江戸幕府]]は将軍家と御三家のみ「徳川」を名乗ることを許可したので、それ以後に表記の再統一が行われ、存命中は徳川家康の嫡男として“徳川信康”と名乗っていたが、後世には“松平信康”と伝わった可能性も否定できないからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[永禄]]2年（[[1559年]]）3月6日、松平元康（後の徳川家康）の長男（嫡男）として[[駿府]]で生まれる。[[今川氏]]の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、[[桶狭間の戦い]]の後に徳川軍の捕虜となった[[鵜殿氏長]]・[[鵜殿氏次|氏次]]との人質交換により岡崎城に移る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄5年（[[1562年]]）、家康と[[織田信長]]による[[清洲同盟]]が成立する。永禄10年（[[1567年]]）5月、信長の娘である[[徳姫]]と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城（[[浜松市]][[中区 (浜松市)|中区]]）に移り、岡崎城を譲られた。7月に[[元服]]して信長より[[偏諱]]の「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;信&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;」の字を、父・家康から「康」の字をそれぞれ与えられて&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;信康&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;と名乗る。[[元亀]]元年（[[1570年]]）に正式に岡崎城主となる&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国172&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信康は若い頃から勇猛果敢で、[[天正]]元年（[[1573年]]）に[[初陣]]する&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国172&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（[[1575年]]）5月の[[長篠の戦い]]では徳川軍の一手の大将として参加し&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国173&amp;quot;&amp;gt;歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P173&amp;lt;/ref&amp;gt;、その後も[[武田氏]]との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。特に天正5年（[[1577年]]）8月の[[遠江横須賀の戦い]]で退却時の殿軍を務め、武田軍に[[大井川]]を越させなかったと伝わる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）8月3日、家康が岡崎城に訪れ、翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移された。その後、信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられた。[[享年]]21（満20歳没）。なお、ほぼ同時期に[[松平家忠]]をはじめとした徳川家臣たちが&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;「信康に内通しない」という起請文を書かされている。&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 信康自刃事件について ==&lt;br /&gt;
=== 事件の通説 ===&lt;br /&gt;
信康の切腹については『[[三河物語]]』の記述が詳しい。それによると、[[織田信長|信長]]の娘である[[徳姫]]は今川の血を引く姑の[[築山殿]]との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年（1579年）、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣[[酒井忠次]]に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は[[武田勝頼]]と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた&amp;lt;ref&amp;gt;元禄期の軍記物『[[総見記]]』にも、この時両者の間で密談があったとしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の[[平岩親吉]]は、責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし家康は、徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、そのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し、信康の処断を決断した。[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]、まず築山殿が[[二俣城]]（守将は[[大久保忠世]]）への護送中に[[佐鳴湖]]の畔で、徳川家家臣の[[岡本時仲]]、[[野中重政]]により殺害された。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城（浜松市[[天竜区]]）にいた信康に切腹を命じた。介錯人は[[服部正成]]だったが、正成は主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、検死の武士[[天方道綱]]が介錯にあたった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 信康と築山殿の不行状と疑問 ===&lt;br /&gt;
信康や築山殿の乱暴不行状については『[[三河物語]]』には記載されておらず、『[[松平記]]』『[[三河後風土記]]』の両書がくわしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信康については、「気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった」「領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺した。「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張している」「鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した（狩の際、[[僧|僧侶]]に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出合った僧に腹を立てたため）。これに対して信康は後日、お詫びをしている」「五徳が産んだ子が二人とも女子だったので腹を立て夫婦の仲が冷え切った」というものである。また、『[[当代記]]』にも、信康は家臣に対し無常・非道な行いがあったとしている。だが、これらはとかく単なる中傷として解釈されることもある&amp;lt;ref&amp;gt;[[谷口克広]]『信長と消えた家臣たち &amp;lt;small&amp;gt;失脚・粛清・謀反&amp;lt;/small&amp;gt;』中公新書 2007年 p206&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
築山殿については、「家康が今川方を裏切り織田方に付いたため、父が詰め腹を切らさせられたことを恨み、家康をひどく憎んでいた。そして[[減敬]]という[[唐]]人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、密かに武田氏に通じた」というものである。これらのうち、特に減敬のエピソードについては築山殿を貶める中傷であるともいわれる&amp;lt;ref&amp;gt;谷口『信長と消えた家臣たち』p206&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 通説への疑問 ===&lt;br /&gt;
五徳（[[徳姫]]）との不仲は[[松平家忠]]の『[[家忠日記]]』によると事実のようだ&amp;lt;ref&amp;gt;[[盛本昌広]]『松平家忠日記』角川選書 1999年 p27-28&amp;lt;/ref&amp;gt;が、不仲や不行状というだけで信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問である&amp;lt;ref&amp;gt;谷口『信長と消えた家臣たち』p205-206&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、家忠が日記に記した｢家康が仲裁するほどの喧嘩相手｣の部分は原著では「御○○○の中なおしニ」と破損しており、信康が仲違いしたのは「御新造」（徳姫）ではなく「御家門」（[[松平康忠]]、[[久松俊勝]]、[[松平康元]]）であるとの説も提示されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国176&amp;quot;&amp;gt;歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P176&amp;lt;/ref&amp;gt;。また「御母様（＝築山殿）」の可能性もあるし、「御前様」つまり家康の生母・[[於大の方]]の可能性もある&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国176&amp;quot;/&amp;gt;。御前に関しては天正3年（[[1575年]]）12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた[[石川数正]]によって実兄の[[水野信元]]が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、祖母と信康の仲が険悪になっていた可能性がある&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国176&amp;quot;/&amp;gt;。ちなみに数正は後年に徳川家から出奔している&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国176&amp;quot;/&amp;gt;（[[橋場日月]]の説）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、このような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は伺えないし、徳川政権成立後に、事件の発端となった五徳に対して、家康が2,000石の領地を与えている理由もよく分かっていない（実際に所領を給与したのは五徳の義弟にあたる[[松平忠吉]]）&amp;lt;ref&amp;gt;[[典厩五郎]]『家康、封印された過去 &amp;lt;small&amp;gt;なぜ長男と正妻を抹殺したのか&amp;lt;/small&amp;gt;』PHP研究所 1998年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、[[築山殿]]がいかに家康の正室といえども、武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問である。しかも、信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。それにも関わらず、家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解である&amp;lt;ref&amp;gt;典厩『家康、封印された過去』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、『[[三河物語]]』では、信康を庇わなかった[[酒井忠次]]は「知らないと言えばいいのに」と家康に嘆かれ、他の家臣達に憎まれたとされているが、その後も徳川家の重臣の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっている&amp;lt;ref&amp;gt;谷口『信長と消えた家臣たち』p206-207&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに、家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていない&amp;lt;ref&amp;gt;典厩『家康、封印された過去』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 父子不仲説 ===&lt;br /&gt;
このため近年では、家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『安土日記』（『[[信長公記]]』諸本の中で最も古態をとどめているもの）や『[[当代記]]』&amp;lt;ref&amp;gt;『当代記』は『安土日記』を引用したと思われる（[[田中敏貴]]・[[小山真人]]「近世初期の自然災害記録媒体としての『当代記』の特性分析」 『[[歴史地震]]』第16号、2000年 収録）。&amp;lt;/ref&amp;gt;では、信康処断の理由は「逆心（＝謀反）」であり、また家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。また信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。これは家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということのようである&amp;lt;ref&amp;gt;谷口『信長と消えた家臣たち』p208-209&amp;lt;/ref&amp;gt;。また『[[家忠日記]]』によると、事件が起きる前年の天正6年（1578年）9月22日に、家康から三河国衆に対して、（信康のいる）岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている&amp;lt;ref&amp;gt;高澤等『戦国武将　敗者の子孫たち』第6章「松平信康」p176&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことが伺える&amp;lt;ref&amp;gt;盛本『松平家忠日記』p26-28&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また『[[大三川志]]』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」&amp;lt;ref&amp;gt;国立公文書館アーカイブよりhttp://www.archives.go.jp/owning/monthly/0805/archives_index.html&amp;lt;/ref&amp;gt;とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また信康の異母弟・[[松平忠輝]]は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残している。「面貌怪異、三郎（松平信康）ノ稚顔ニ似タリ」（[[野史]]）。「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」（『[[藩翰譜]]』）。この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ家康は晩年になって「父子の仲平ならざりし」とこの時の事件について後悔している&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国174&amp;quot;&amp;gt;歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P174&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 派閥抗争説 ===&lt;br /&gt;
作家の[[典厩五郎]]は、この時期の徳川家は、常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;浜松城派&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や（織田家との）外交問題を担当していた&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;岡崎城派&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部正成に暗殺された疑いがあるとして、この事件から甲斐武田家における[[武田義信]]事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えている。また信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電（逃亡）する者が続出し、派閥抗争の末の粛清や懲罰があったと唱えている&amp;lt;ref&amp;gt;典厩『家康、封印された過去』。典厩は岡崎派と浜松派に分裂していたという直接的な根拠を具体的な史料を挙げて説明していないが、懲罰の例として[[石川数正]]、[[松平康忠]]、[[松平近正]]、[[本多重富]]、[[本多重次]]、[[天野康景]]、[[高力清長]]、[[天野貞久]]、[[伊奈忠次]]、[[榊原清政]]、[[植村家次]]の事件後の処遇を挙げている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。歴史研究家の[[谷口克広]]も典厩の説を支持し、岡崎衆は家康への不満か家康の旗本に対する反発から信康を担いでクーデターを起こすことを企み、築山殿もそれに関係していたのではないかと推測している&amp;lt;ref&amp;gt;谷口『信長と消えた家臣たち』p209-211&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--=== 酒井忠次陰謀説 ===&lt;br /&gt;
{{出典の明記|section=1|date=2013年2月|ソートキー=人1579年没}}&lt;br /&gt;
{{要出典範囲|date=2013年2月|重臣・[[酒井忠次]]個人による陰謀・讒言によるものという説。そもそも松平信康の養育役とされていたのが忠次の政敵・[[石川数正]]であった。数正は信康の養父として徳川家内部で確固たる地位を得ていた。これに対して、忠次は数正を追い込むため数正が養育する嫡子・信康に謀反の嫌疑を与え、その生母に対しても武田家との内通の疑惑を与え、結果として数正を徳川家から排除して不動の地位を得て事実上、徳川家を我が意のものとしようとしたというもの。徳川家内部にはかつて[[築山殿]]の縁戚だった[[今川家]]に従属を強いられた苦い過去や、織田・徳川同盟締結後に[[織田家]]に従属させられている現状に対する不満分子が多かった。こうした内部抗争に対し、信長は信頼する家康に抗争への不介入を宣言して家康個人の裁量に任せた。だが、家康は祖父、父共に家臣の内部抗争の結果殺害されたという痛ましい過去を抱えており、このような陰謀に対して強硬な態度を取って忠次一派の排除が出来ず、結果として妻子を家臣に殺されるという痛ましい事態となった。数正は後年、信康自刃後の嫡子・[[結城秀康]]の養父となっており、[[小牧・長久手の戦い]]の後に和睦のため秀康が[[豊臣秀吉]]の養子として人質となる際に自らの嫡子も人質として同行させており、その後は秀吉に調略されて豊臣家に寝返っている。家康が徳川家を完全に掌握して安定させた後になって酒井忠次に対する苦言を行っていることから考え、家康にとっては岐路に立たされる極めて微妙な時期に陰謀が発生し、事態が忠次の思うがままに進展してしまった結果、家康が妻子を失うことになったこと。この事件に対する警戒から、家康がなかなか跡継ぎを選ぼうとせず、結果として「[[関ヶ原の戦い]]」の後に徳川家が豊臣家にかわる政権を担う際になって[[結城秀康]]と[[徳川秀忠]]が跡目を争う結果になったという説。}} 1年以上も出典が出ていないので一旦オフにさせていただきます。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他・家臣団との対立 ===&lt;br /&gt;
[[村岡素一郎]]が説いた徳川家康の影武者説では、徳川家康と松平元康を別人として、家康と信康との親子関係を否定している。信康の成人後、家康が信康に家督を譲渡する誓約がなされていたが、家康に実子が生まれたため、家康により信康の排除が行われたと、著書「史疑徳川家康事蹟」で村岡は主張している。&lt;br /&gt;
{{Main|徳川家康の影武者説}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信康は勇猛なためか横暴な面があり、家臣の[[松平親宅]]は「御若気の儀これあり候につき、毎度御諌め申し上げ候えども」として信康により追放されている（『[[寛政重修諸家譜]]』）。また信康は同母の妹である[[亀姫]]が[[武田信玄]]没後に徳川に寝返ったにすぎない[[奥平信昌]]の正室になる（つまり義弟になる）事に「敵方の者を聟にはなかなか成し難し」と強硬に反対した（『[[三河東海記]]』）話もあるなど、信康と家臣団の間で軋轢が生まれていた面も伺わせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生存説 ==&lt;br /&gt;
異説として、信康には葬られた遺体は替え玉で、本人は同情した家臣達に助けられ、浜松山中の村に逃れたという生存説が存在する。それは次の通りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寛永]]10年（[[1633年]]）頃、西国大名に仕える飛脚が江戸に向かう道中[[掛川市|掛川]]の辺りを通った際、年齢70代半ば頃と思われる非常に貫禄のある老人がどこからともなく現れて、飛脚にこんな事を問うたという。「今は誰の時世かな?」と。飛脚が内心そんなことも知らないのかと毒づきながら「3代将軍[[徳川家光|家光]]公の時世だよ」と答えると、その老人は頷き、次に「土井甚三郎は元気でいるか?」と問うてきたという。しかし飛脚はそれが誰のことを言っているのか分からず、どうも頭のおかしい老人らしいと考え、無視して行ってしまった。しかし江戸でその話が伝わると、土井甚三郎は現在の[[老中]]・[[土井利勝]]の幼名だということが判明する。そして「土井利勝をそんな名で呼ぶ人物は只者ではないぞ。徳川家の何らかの関係者ではないのか?」という話となった。一時期それは、岡崎三奉行の一人で後に改易させられた[[天野康景]]ではないのかとも噂されたが、仮に天野だとすると生きていれば100歳過ぎになるため、どうも有りそうにない。そこで他に該当するような人物を考えた末、もしかするとその老人は信康の老体ではないのかという推定が出て来たのである。確かに当時信康が生きていれば70代半ば頃になるし、事実その老人の現れた周辺の村の村長の家には、とても常人が持つものとは思われない立派な鎧兜や鏡が安置され、村の住民は皆藤原姓を名乗っていることが「[[東海道名所図会]]」という資料に載っている。藤原姓はかつて家康も名乗ったこともある名字のため、もしかすると信康は追及を逃れ、浜松の村に隠れ住んで余生を送ったのではないか、というのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこれらの記述は、江戸期の随筆『塩尻』（[[天野信景]]著）に記されている記事ではあるものの、事実かどうかは疑わしく、仮に事実としても、その老人が信康だとするのはかなり飛躍した仮定でもあるため、真偽は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった[[大久保忠世]]に自らの無実を改めて強く主張したが、[[服部正成]]の介錯で自刃したという。この時、正成が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死の武士[[天方道綱]]（山城守）が代わって介錯したとの話も残る。道綱は家康が嘆き悲しむのを見て出家したと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家康も信康の死をいたく悲しみ、[[関ヶ原の戦い]]で三男の[[徳川秀忠|秀忠]]が遅参した時、「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;戦国172&amp;quot;&amp;gt;歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P172&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の21年目の命日であった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、[[酒井忠次]]が嫡男・[[酒井家次|家次]]の所領が少ないことに対する不満を家康に訴え出たところ、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという逸話が残っている。また、[[幸若舞]]を忠世・忠次と共に見た時、主のために自分の子の首を差し出す場面を見て落涙した家康が「両者あれを見ろ」と言い、それに対し両者が恐縮したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は英邁な信康を恐れたという（なお、[[高柳光壽]]は、信長が自分の嫡男・[[織田信忠|信忠]]より優れた器量を持つ信康の将来を恐れたという説を唱えているが、根拠となる史料は示していない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 以上の逸話のうち、服部正成の逸話は『柏崎物語』、関ヶ原での家康の嘆き、家康と忠次の問答、幸若舞の場面、信長が信康を恐れたという逸話は『武辺雑談』『東武談叢』『寛元聞書』をそれぞれ出典として『[[徳川実紀]]』中に紹介されている。&lt;br /&gt;
* 冷遇されている異母弟・[[結城秀康]]を信康は不憫に思い、父・家康との対面を果たさせるなど、情に厚い一面があった。&lt;br /&gt;
* 信康の切腹には[[殉死]]者&amp;lt;ref&amp;gt;[[清瀧寺]]（浜松市）には殉死した家臣、[[吉良於初]]（初之丞）の墓が残る。&amp;lt;/ref&amp;gt;を出すほどの人望があった。&lt;br /&gt;
* 関ヶ原の戦いの前夜に、信康の孫娘と[[小西行長]]の嫡男・兵庫頭の婚約が、家康から行長に持ちかけられている。この孫娘は、[[親等]]では[[福島正則]]の養子[[福島正之|正之]]と結婚した[[満天姫]]とほぼ等しく、家康の血を引くという点ではより近い血縁といえる。婿として国主大名の嫡子が選ばれていることは、信康の血統が重視されていた証拠といえる。また信康の家臣のうち、主だった者には[[交代寄合]]に任じられている者もおり、家康の信康に対する信任が伺える。&lt;br /&gt;
* 1歳下だった[[大久保忠教]]の『[[三河物語]]』によると、信康が話すのは戦のことばかり、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったという。&lt;br /&gt;
* 『徳川実紀』では信康を次のように評価している。「東照公（家康）の公達あまたおはしましける中に、岡崎三郎君（松平信康）はじめ、越前黄門（結城秀康）、薩摩中将（[[松平忠吉]]）等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『三河物語』では「これほどの殿（信康）はなし」「上下万民、声を引て、悲しまざるはなし」とある。信康は武勇の士で、武田軍相手に殿軍を務めて一歩も引かず、家康は「まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と驚嘆した（『[[大川三志]]』）。また勝頼の本陣間近まで共一人を連れて物見を行ない、家康に決戦を進言した勇猛さを見せつけた（『[[松平物語]]』）。このように勇猛な話が目立つ信康だが、異母弟の秀康が家康に嫌われているのを知ると、家康を岡崎城に呼び寄せて嫌がる家康の着物の袂を押さえつけて秀康を家康の膝に乗せさせ、秀康を実子として認知させた温情ある話も伝わる（『貞享松平越前守書上』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
* 後見人 &lt;br /&gt;
** [[石川数正]]&lt;br /&gt;
** [[平岩親吉]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 岡崎三奉行&lt;br /&gt;
** [[本多重次]]&lt;br /&gt;
** [[高力清長]]&lt;br /&gt;
** [[天野康景]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 家老&lt;br /&gt;
** [[中根正照]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 墓所・祭祀 ==&lt;br /&gt;
信康の死後、家康は信康の廟所として[[清瀧寺 (浜松市)|清瀧寺]]を建立し、寺域には信康廟が現存している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hamamatsu-daisuki.net/search/area/are-tenryu/st050.html 施設スポット検索 - 清瀧寺] はままつ旅百花 - 観光情報サイト浜松だいすきネット～はままつ旅百花～&amp;lt;/ref&amp;gt;。首塚を祀った[[若宮八幡宮 (岡崎市)|若宮八幡宮]]では信康は祭神となっているほか、信康と関係が深かった者により複数の寺院等が建立されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[秋元茂陽]]「徳川将軍家墓碑総覧」170-172p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[Image:Sepulcher of Matudaira Nobuyasu at Sainen-ji Temple.JPG|200px|thumb|西念寺 (新宿区)にある信康の供養塔]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[西念寺 (新宿区)|西念寺]]（[[新宿区]]）岡崎三郎信康供養塔 --服部正成が造立&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000063941.pdf 区指定・登録文化財一覧]新宿区&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[隆岩寺 (古河市)|隆岩寺]]（[[古河市]]） -- 娘婿[[小笠原秀政]]が開基&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kogakanko.jp/top.php?ID=39&amp;amp;cID=33 古河市観光協会　こがナビ 隆岩寺]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[万松院 (小田原市)|万松院]]（[[小田原市]]） -- 大久保忠隣が建立&lt;br /&gt;
*[[江浄寺]]（[[静岡市]]）供養塔 -- [[榊原清政]]が造営&lt;br /&gt;
*高野山[[金剛峯寺]]（[[高野町]]）岡崎三郎信康墓所 -- [[平岩親吉]]が寄進&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
=== 註釈 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|group=&amp;quot;註&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
;書籍&lt;br /&gt;
* 『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』[[歴史群像編集部]]編、[[2007年]]&lt;br /&gt;
* [[典厩五郎]]『家康、封印された過去 &amp;lt;small&amp;gt;なぜ長男と正妻を抹殺したのか&amp;lt;/small&amp;gt;』PHP研究所 1998年 ISBN 4-569-60406-4 （旧題『徳川家康秘聞 消された後継者』世界文化社 1994年）&lt;br /&gt;
* [[盛本昌広]]『松平家忠日記』角川選書 1999年 ISBN 4-04-703304-9&lt;br /&gt;
* [[谷口克広]]『信長と消えた家臣たち &amp;lt;small&amp;gt;失脚・粛清・謀反&amp;lt;/small&amp;gt;』中公新書 2007年 ISBN 978-4-12-101907-3&lt;br /&gt;
* 『系図纂要』第九巻清和源氏-三　内閣文庫番号(和)32848　冊数103（61）　函号155-408&lt;br /&gt;
* [[高澤等]]『戦国武将　敗者の子孫たち』洋泉社 2012年 ISBN 978-4-8003-0028-7&lt;br /&gt;
;史料&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
; 映画&lt;br /&gt;
: 松平信康が主人公の映画&lt;br /&gt;
* [[反逆児 (1961年の映画)|反逆児]]（[[1961年]][[東映]]、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督、演：[[萬屋錦之介|中村錦之助]]）&lt;br /&gt;
; テレビドラマ&lt;br /&gt;
: 松平信康が登場するテレビドラマ&lt;br /&gt;
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]（1983年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演：[[宅麻伸]]） &lt;br /&gt;
* [[徳川家康 (1988年のテレビドラマ)|徳川家康]]（1988年、TBS、演：[[野村宏伸]]）&lt;br /&gt;
* [[信長 KING OF ZIPANGU]]」（1992年、NHK大河ドラマ、演：[[早川亮]]）&lt;br /&gt;
* [[戦国最後の勝利者 徳川家康]]（1992年、テレビ朝日、演：[[石橋保]]）&lt;br /&gt;
* [[織田信長 (1994年のテレビドラマ)|織田信長]]（1994年、テレビ東京、演：[[赤羽秀之]]）&lt;br /&gt;
* [[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]（1996年、NHK大河ドラマ、演：[[佐藤真一郎]]）&lt;br /&gt;
* [[徳川の女]]（1997年、テレビ東京、演：[[池上幸司]]）&lt;br /&gt;
* [[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]]（2002年、NHK大河ドラマ、演：[[関根豊和]]）&lt;br /&gt;
* [[徳川家康と三人の女]]（2008年、テレビ朝日、演：[[柏原収史]]）&lt;br /&gt;
; 歌謡曲&lt;br /&gt;
* 長編歌謡浪曲 天竜二俣城 （[[三波春夫]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まつたいら のふやす}}&lt;br /&gt;
[[Category:安祥松平氏|のふやす]]&lt;br /&gt;
[[Category:徳川氏|のふやす]]&lt;br /&gt;
[[Category:徳川家康の子女|のふやす]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神 戦国大名)]]&lt;br /&gt;
[[Category:1559年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1579年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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