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	<title>曹叡 - 版の履歴</title>
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		<title>125.193.69.147: /* 生涯 */</title>
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		<updated>2014-04-09T13:52:33Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;span class=&quot;autocomment&quot;&gt;生涯&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{基礎情報 中国君主&lt;br /&gt;
|名       =明帝 曹叡&lt;br /&gt;
|代数     =第2代&lt;br /&gt;
|呼称     =皇帝&lt;br /&gt;
|画像     =&lt;br /&gt;
|説明     =&lt;br /&gt;
|王朝     =魏&lt;br /&gt;
|在位期間 =[[226年]] - [[239年]]&lt;br /&gt;
|都城     =&lt;br /&gt;
|諱       =曹叡&lt;br /&gt;
|字       =元仲&lt;br /&gt;
|諡号     =明皇帝&lt;br /&gt;
|廟号     =烈祖&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』「魏書明帝紀」、景初元年6月。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|生年     =[[建安]]11年（[[206年]]）&amp;lt;br&amp;gt;ないしは建安9年（[[204年]]）&amp;lt;ref&amp;gt;『魏書』「明帝紀」では享年36としており、それに従うと204年生まれということになるが、「文帝紀」に「（延康元年五月）封王子叡為武徳侯」とあることや、母甄氏が曹丕の妻となったのが建安9年8月であることから、『三国志』の注釈者[[裴松之]]は正しくは享年34であるとしており、それに従うなら206年生まれということになる。一方、『[[三国志集解]]』の著者[[盧弼]]は延康元年（[[220年]]）以前から武徳侯になっていることを指摘し、享年36が正しく、したがって曹叡の実父は曹丕ではない、という説を唱えている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|没年     =[[景初]]3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]&amp;lt;br&amp;gt;（[[239年]][[1月22日]]）&lt;br /&gt;
|父       =[[曹丕|文帝]]&lt;br /&gt;
|母       =[[文昭皇后甄氏|甄氏]]&lt;br /&gt;
|皇后     =[[明悼皇后毛氏|毛皇后]]&amp;lt;br&amp;gt;[[明元皇后郭氏|郭皇后]]&lt;br /&gt;
|陵墓     =高平陵&lt;br /&gt;
|年号     =[[太和 (魏)|太和]] : [[227年]] - [[233年]]&amp;lt;/br&amp;gt;[[青龍 (魏)|青龍]] : [[233年]] - [[237年]]&amp;lt;/br&amp;gt;[[景初]] : [[237年]] - [[239年]]&lt;br /&gt;
|注釈     =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;曹叡&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（そう えい）は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の第2代[[皇帝]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
文帝[[曹丕]]の長男。生母は[[文昭皇后甄氏|甄氏]]。[[延康 (漢)|延康]]元年（[[220年]]）、[[数え年|数え]]15歳で武徳侯、翌年に斉公、[[黄初]]3年（[[222年]]）には平原王に封ぜられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[裴松之]]注『魏書』によれば、抜きんでた容貌を持ち、望み見ると侵しがたいほどの威厳があったという。また[[西晋]]の歴史家である[[孫盛]]は、曹叡は生まれつきの美貌に加え、床に届くほどの長い髪を持ち、「天姿秀出」と絶賛された、という話を古老から聞いたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16歳の時、母の甄氏は父の文帝に殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初、文帝は曹叡を好まず、他の夫人（徐姫）の子供である京兆王（[[曹礼]]）を後継ぎにしたいという気持ちをもっていた。そのため曹叡は長期間太子になれなかった&amp;lt;ref&amp;gt;『魏略』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曹叡はかつて文帝の狩猟のお供をしていたとき、子を連れた母鹿に出会った。文帝は母鹿を射殺し、曹叡に子鹿を射させようとしたところ、曹叡は拒否して、「陛下はすでにその母のほうを殺しておしまいになりました。私はこのうえその子を殺すに忍びません」と言い、涙を流した。文帝は即座に弓矢を放り出した。このことによって、高く曹叡を評価するようになった。こうして、彼を太子に立てる決意をしたのである&amp;lt;ref&amp;gt;『魏末伝』&amp;lt;/ref&amp;gt;。もっとも、こうした説話は後世の創作とし、[[曹霖]]など他の皇子にも皇位継承の可能性があったものの、建国7年にして突然の死期を悟った文帝がやむなく年長で学問好きな曹叡を選択したに過ぎないとする指摘もある&amp;lt;ref&amp;gt;福原、2012年、P57-58&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黄初7年（[[226年]]）に文帝が病床で重体に陥ってから、皇太子に立てられた。母の甄氏が曹丕の勘気に触れて死を賜っていたこともあり、即位以前の曹叡は公の場に出ることが少なく、曹叡の人物を知る者は[[司馬懿]]など限られた人々しかいなかったという。同年5月に文帝が崩御すると皇帝に即位した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明帝は即位後、真っ先に母・甄氏の名誉回復を行うべく皇后の位を追贈し、文昭皇后と諡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[景初]]元年（[[237年]]）には七廟の制を整備するとともに、祖父の武帝[[曹操]]・文帝に対して太祖・高祖の廟号を定めるとともに、自身の廟号を烈祖と定めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、寵愛が[[明元皇后郭氏|郭皇后]]に移った明帝は、侍人十数人を殺害するとともに、[[明悼皇后毛氏|毛皇后]]に死を賜った。皮肉にも、かつて恨み言を理由に自身の妻を殺めた父と同様の行動をとる事となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
景初2年（[[238年]]）[[遼東]]制圧が完了した前後、首都[[洛陽]]にあった明帝は病によって重篤に陥り、[[曹芳]]&amp;lt;ref&amp;gt;養子。曹叡は全ての実子に先立たれてしまっていた。娘を葬る際の祭礼の様式が限度を超えていると臣下から諫言されても強行したという逸話がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;の後見人を誰にするかを模索した。はじめ、[[曹宇]]・[[曹肇]]・[[夏侯献]]・[[秦朗]]&amp;lt;ref&amp;gt;『献帝春秋』によると、秦朗は曹操の秦夫人の連れ子であり、実父は[[呂布]]の将[[秦宜禄]]。『魏略』によると、宮中で曹操の子等と兄弟同然に育てられ、曹叡と非常に親しかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;ら宗室で固めようとするが、彼らと不仲であった[[劉放]]・[[孫資]]ら側近の反対にあって心変わりする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的に司馬懿・[[曹爽]]らを後見人に改めて立て、景初3年（[[239年]]）1月に34歳で崩御し、高平陵に葬られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政策 ==&lt;br /&gt;
=== 軍事 ===&lt;br /&gt;
『魏書』明帝紀などによれば、明帝は軍事に対して幾度も言及している。その内容は戦況と先の展開を的確に把握しており、以下のような場面において発揮されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
226年、[[呉 (三国)|呉]]の[[孫権]]が自ら[[江夏区|江夏]]を攻めた時、「孫権の狙いは奇襲である。[[文聘]]が江夏を固守しているため、戦線は既に膠着状態に陥っている」と推測し、これを前提に「援軍が有ると見せかけさえすれば、援軍は少数でも孫権は退くだろう」と読み、援軍として[[荀禹]]を派遣した。曹叡の読み通りに孫権は撤退した。別働隊の[[諸葛瑾]]と張覇に対しては司馬懿を[[襄陽市|襄陽]]に向かわせて撃退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
227年、[[麹英]]が[[西平]]で反乱を起こすと、[[カク昭|郝昭]]らを派遣し鎮圧した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
228年、新城太守の[[孟達]]が[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]と内通したことを知ると、司馬懿をその鎮圧の任に当たらせ孟達を斬った。このことは、蜀漢側にとっては新城からの侵攻ルート消滅を意味し、魏側にとっては蜀漢による挟撃を防いだことを意味する。これは蜀漢の第一次[[北伐]]における、魏の[[街亭の戦い|街亭]]での勝利に間接的ながらも貢献した。諸葛亮によって、以後5度にわたる侵攻が開始されると、皇族の[[曹真]]、司馬懿や[[張コウ|張郃]]など祖父曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。また第一次北伐時には[[親征]]して[[長安]]方面の動揺を鎮めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
234年、呉蜀が相次いで魏領に侵攻した。この時、[[満寵]]は「[[合肥]]の守備は放棄し、孫権を[[寿春]]で迎え撃つ」という計画を立てた。それに対して明帝は「合肥、[[襄陽市|襄陽]]、祁山は魏の重要な防御拠点であり、敵は決して落とす事が出来ない。であるから、合肥で敵を迎え撃つように」との詔を出して計画を改めさせ、さらに合肥へ親征した。孫権は合肥を攻撃したが、守将の張穎らの前に攻めあぐね、満寵の奇襲攻撃を受け、明帝が戦場に到着する前に撤退した。一方、[[五丈原]]で諸葛亮と対峙する司馬懿には、「決戦を回避して持久戦に持ち込み、撤退時には追撃するべし」との詔を出し、防衛の成功に貢献した&amp;lt;ref&amp;gt;『[[漢晋春秋]]』によると、司馬懿は撤退する蜀軍を追撃しようとしたが、蜀軍の士気の高さに驚き追撃を中止した。このことから「死せる諸葛（諸葛亮）、生ける仲達（司馬懿）を走らす」という諺が生まれた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
238年、遼東の[[公孫淵]]が燕王を自称して魏に対する謀反を起こすと、明帝は群臣の反対を押し切って征討を決行した。司馬懿の判断を全面的に信用し、全権を委ねて鎮圧に当たらせた結果、反乱の早期鎮圧に成功した。[[公孫氏 (遼東)|遼東公孫氏]]を取り除いたことで、魏が蜀漢・呉と当たる際の後顧の憂いを絶った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===内政===&lt;br /&gt;
234年に諸葛亮が病没すると、連年のように行われていた蜀漢の北伐は沈静化した。呉も同盟国である蜀漢の内情を考慮し、外征を一時中断した。こうして周囲の外圧が減少に転じると、明帝は内政の手腕を問われるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数度にわたって宮殿の造営などを行い、その費用により魏の財政は大きく傾いた。また農繁期の農民を多く徴用したために、農村の荒廃を招いたと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に兵力の恒常的確保のため、兵士の家同士の結婚を奨励した。官民（兵士以外の家）に嫁いだ既婚者は、召し上げて未婚の兵士と再婚させるなどした。この政策は、「召し上げる際には奴隷を身代わりに出しても良い」「召し上げた既婚者のうち容姿の良い者については[[後宮]]に入れる」などの附則が仇となり、国内での人身売買を横行させてしまう。金持ちは妻の身代わりとなる奴隷を買い求め、貧乏人は自らの妻女を金銭で金持ちに差し出したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの政策について、重臣のほとんどが反対をしたが、明帝はこれを強硬に推し進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの政策に対して[[司馬光]]は『[[資治通鑑]]』魏紀&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite wikisource|資治通鑑|司馬光|zh|nobullet=yes}}&amp;lt;/ref&amp;gt;で「明帝は諸葛亮の死により、外圧が消滅したことで気が緩み、自らの好みの大土木事業を行った」としている。これに対して[[東洋史]]学者の安田二郎は、明帝の宮殿造営は諸葛亮の死の前より行われており、外圧の消滅とは関係がなく、この土木事業は農民に収入を与えるためのいわば公共事業であり、明帝はこれを「社稷の計」であると、強い信念を持って断行したものであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;「曹魏明帝の『宮室修治』をめぐって」（『[[東方学]]』111）のち『六朝政治史の研究』〈東洋史研究叢刊〉[[京都大学学術出版会]]、2003年&amp;lt;/ref&amp;gt;。同じく東洋史学者の福原啓郎は後漢末に[[董卓]]によって焼き払われた洛陽の復興は明帝が敬愛する祖父・曹操の悲願であるとともに、陳羣の諫言に対して前漢の[[蕭何]]の言とされる「壮麗に非ざれば重威なし」（『史記』高祖本紀・漢8年条）を引用して反論したように三国分立が続く中で一刻も早い皇帝権威の強化を図ったとみる&amp;lt;ref&amp;gt;福原、2012年、P63-67&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===人事===&lt;br /&gt;
人物については、司馬懿・曹真・[[陳羣]]・劉放・孫資などの大臣に全面的な信頼を寄せた。また、父の文帝と異なり、諫言した人物や気に入らない人物だからといって、それを処刑することはしなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[[楊阜]]や[[高堂隆]]は、人事についてもしばしば直言をもって明帝を諫め、ために勅勘を被ったことも多かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明帝の人物観を示す逸話が、『魏志』[[盧毓]]伝に見える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、[[夏侯玄]]やその友人である[[諸葛誕]]、劉放の子である劉煕、孫資の子である[[孫密]]らが人物評価を行い、四聡八達（&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;四&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;人の&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;聡&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;明な人物と&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;八&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;人の&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;達&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;人）と互いに格付けをしあい、当時の人々から才人との声望を得ていた。つまり、人々からの称賛が先に有って格付けが行われたのではない。まず先に内輪で内々に格付けを行い、それを自分以外の面子に伝聞形で宣伝させる。前段の工作で自作自演ではないとの印象を与え、箔付けによって自らの声望を高めんとしたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明帝はこれを軽薄だとして嫌い、彼らを即座に全員免職にし、官吏となる資格を剥奪した。この時、明帝が廬毓に対して言った言葉が「画餅」であるが、その用い方には「世間で評される名声は上辺の評価に過ぎず、実を伴わないことが多すぎる」という意味合いがあり、徒に名士才子を褒めそやす風潮を嫌悪する心情が見える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して廬毓は、「名声は、特別な人材を招くには不適でも、普通の人を集めるには適当でしょう。普通の人間とは、勉学して生来の人格を矯正し、そこから名を成すものです。臣が人を推薦するとき、最初はやはり人物の評判に注目し、普通の人を招くのです」と答えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結局、明帝は一度下した処分を覆すことはなく、終生彼らを登用しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
[[劉曄]]の評では、初めて明帝に謁見した際、他の廷臣にその人となりを尋ねられて「[[始皇帝|秦始皇]]や[[武帝 (漢)|漢武]]の風を持つが、この2人にはわずかに及ばない」と答えている。一方、[[辛ピ|辛毗]]の評価はやや厳しく「聡明と称されるまでには至っていないが、闇劣ではない」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の編者である[[陳寿]]は次のように評している。&lt;br /&gt;
{{Quotation|&lt;br /&gt;
「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興を成すべきであったのに、俄かに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであった」&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;原文「沈毅剛識、任心而行。蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊、四海分崩、不先■修顕祖、闡拓洪基、而遽追秦皇・漢武、宮館是営、格之遠猷。其殆疾乎」&amp;lt;br&amp;gt;※原文における■にあたる字は、律の行人偏のない「聿」であり、発音はイチ・イツ。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で同じ『三国志』の三少帝紀では、「私の情愛に囚われて幼子（斉王・曹芳）に皇位を伝え、一人の人物に後事を託さず、あくまで一族の者を参与させた。そのために曹爽は誅され、斉王は帝位を追われることになった」と非難している&amp;lt;ref&amp;gt;原文「情繋私愛、撫養嬰孩、傳以大器、託付不專、必參枝族、終于曹爽誅夷、齊王替位」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同時代の歴史書を書いた孫盛の評。&lt;br /&gt;
{{Quotation|&lt;br /&gt;
「大臣を優遇冷遇し、その言葉を素直に受け入れる事が出来た。諫言に顔色を変える事があっても、それで殺す事は一度もなかった。その人としての器は正に君主とはかく在るべし、と言えるものだった。反面、徳行を行い人民を教化することを考えず、皇族を藩屏として用いず、国家の大権を一部の重臣に集中させ、国の社稷を崩してしまった。悲しむべき事である」&amp;lt;ref&amp;gt;『原文「優礼大臣、開容善直、雖犯顔極諫、無所摧戮、其君人之量、如此偉也。然不思建徳垂風、不固維城之基、至使体験偏処、社稷無衞、非夫」&amp;lt;br&amp;gt;※&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;維城&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;の語は『[[詩経]]』の大雅、生民編に「宗子維城」（宗家の嫡男はこれ城なり）として存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明帝の生涯を研究した福原啓郎は、彼の生涯を祖父の曹操が築いた魏王朝を完成させ、皇帝に威信を高めることに力を注いだが、次世代への帝室曹氏の継承に苦悩し、宮殿造営は民を疲弊させて「奢靡」の悪評を受けるともに、「寛容」を掲げた司馬氏の簒奪を許す遠因になったと評している&amp;lt;ref&amp;gt;福原、2012年、P67-70&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族 ==&lt;br /&gt;
*兄弟&lt;br /&gt;
**東郷公主 - 同母妹だが早世した&lt;br /&gt;
*后妃&lt;br /&gt;
**虞氏 - 平原王時代の妃&lt;br /&gt;
**[[明悼皇后毛氏|毛皇后]]（悼皇后）&lt;br /&gt;
**[[明元皇后郭氏|郭皇后]]（元皇后）&lt;br /&gt;
*実子&lt;br /&gt;
** &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;斉公主&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; - 長女。[[李韜]]夫人となり二子をもうけた。のち、舅の[[李豊]]が[[司馬師]]の排除に失敗して誅殺されると、李氏の三族も皆殺しにされたが、李韜の子供たちだけは、公主所生であり明帝の直系の血筋ということで助命された。このとき、既に斉公主は没していたとみられる。&lt;br /&gt;
**臨汾公主 - 彼女の侍女は、曹洪の乳母とともに邪神を信じた為、獄につながれた。 &lt;br /&gt;
** [[曹冏 (皇子)|曹冏]]（清河王）&lt;br /&gt;
** [[曹穆]]（繁陽王）&lt;br /&gt;
** [[曹殷]]（安平哀王）&lt;br /&gt;
** 曹淑（平原懿公主）&lt;br /&gt;
（いずれも早世）&lt;br /&gt;
*養子&lt;br /&gt;
**[[曹芳]]（斉王）&lt;br /&gt;
**[[曹詢]]（秦王） - 従弟の[[曹楷]]の子という&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「袁紹の孫」説 ==&lt;br /&gt;
『三国志』明帝紀には、明帝は[[景初]]3年（[[239年]]）に36歳で死亡したと記されており、逆算すると生年は建安9年（204年）となることを挙げ、『[[三国志集解]]』の著者[[盧弼]]は、明帝が文帝から特に冷遇されたことなども傍証に挙げた上で、明帝の実父は文帝ではなく、曹操のライバルであった[[袁紹]]の次男の&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;[[袁煕]]&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;ではないかと主張している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曹操が[[冀州]]を攻め落とし、曹丕が袁煕の妻であった[[甄氏]]を略奪した時点で、のちの曹叡は袁煕の子として既に世に生を受けており、曹丕はその子を（冷遇しつつも）養子として養育した、となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし一般には『三国志』明帝紀の享年が誤りだと解釈されており、例えば『三国志』の注釈者[[裴松之]]は明帝の享年は34が正しいと主張している。この場合には明帝の父は文帝で問題ないことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{Wikisourcelang|zh|作者:曹叡|曹叡の作品}}&lt;br /&gt;
*&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』（[[陳寿]]著、[[裴松之]]注、[[井波律子]]訳、ちくま学芸文庫、1992年12月、ISBN 4-480-08045-7）、220-283頁。&lt;br /&gt;
*『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』（陳寿著、裴松之注、[[今鷹真]]訳、ちくま学芸文庫、1992年12月、ISBN 4-480-08043-0）、123-127、255、504-506頁。&lt;br /&gt;
*『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』（陳寿著、裴松之注、今鷹真・[[小南一郎]]訳、ちくま学芸文庫、1993年3月、ISBN 4-480-08044-9）、122-124、127-128、131-143、162-163、255頁。&lt;br /&gt;
*『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』（陳寿著、裴松之注、小南一郎訳、ちくま学芸文庫、1993年5月、ISBN 4-480-08046-5）、9-31、120頁。&lt;br /&gt;
*『正史 三国志 8 呉書Ⅲ』（陳寿著、裴松之注、小南一郎訳、ちくま学芸文庫、1993年7月、ISBN 4-480-08089-9）、236-240頁。&lt;br /&gt;
*『正史三国志 群雄銘銘伝』（坂口和澄著、光人社刊、2005年7月発行、ISBN 4-7698-1258-2）、27-29、144-145、160－161、193、204、271、284、296-297頁。&lt;br /&gt;
*『三国志人物鑑定辞典』（[[渡辺精一]]著、[[学研ホールディングス|学研]]、1998年5月、ISBN 4-05-400868-2）、101-104頁。&lt;br /&gt;
*『三国志合戦データファイル』（[[新人物往来社]]、2006年6月、ISBN 4-404-03341-9）、198-199頁。&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
*福原啓郎「曹魏の明帝」（初出：『古代文化』第52巻第8号（2000年）/所収:福原『魏晋政治社会史研究』（京都大学学術出版会、2012年） ISBN 978-4-87698-535-7&lt;br /&gt;
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{{魏の皇帝|第2代|226年 - 239年}}&lt;br /&gt;
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