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	<title>我 - 版の履歴</title>
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		<title>2014年6月11日 (水) 07:41に133.19.127.45による</title>
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		<updated>2014-06-11T07:41:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{Buddhism}} &lt;br /&gt;
{{Hinduism}}&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;我&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（が、われ、[[サンスクリット|Skt]]：aatman &amp;amp;#x0906;&amp;amp;#x0924;&amp;amp;#x094d;&amp;amp;#x092e;&amp;amp;#x091e;&amp;amp;#x094d;、[[パーリ語|Pl]]：attan &amp;amp;#x0905;&amp;amp;#x0924;&amp;amp;#x094d;&amp;amp;#x0924;&amp;amp;#x091e;&amp;amp;#x094d;）とは、[[バラモン教]]（のち[[ヒンドゥー教]]）及び[[仏教]]上の概念。[[アートマン]]（梵我）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仏教ではその教義的立場から、我というものに関して、&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;実我&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;(じつが)、&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;仮我&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;(けが)、&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;真我&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;(しんが)という区別を説いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このうち、「実我」（aatman）については、仏教はこれを否認して&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;[[無我]]&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;(anaatman)といい、&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;非我&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;(niraatman)という。この語が存在について、その本質とか自性とかを意味するようになり、後には万物の髄とか本体とかを示すようになり、ことに人間の生命現象の奥に潜んでいる本質存在と考えられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ウパニシャッド ==&lt;br /&gt;
このような「実我」は仏教以前のウパニシャッド哲学で力説され、一方に「[[ブラフマン]]」(梵、braahman)との相即がいわれた。（梵我一如）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 五蘊仮和合 ==&lt;br /&gt;
仏教では、ここで説かれるような実我を&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;常一主宰&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;と規定付けた。すなわち、我は、常住であり、他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釈迦はこのような実我観念を批判し、「我として認められるものはない」として、&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;諸法無我&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;と説いた。これを色受想行識の[[五蘊]]について説き、人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 補特伽羅説 ==&lt;br /&gt;
この点を強調した仏教徒たちは、かえって、この仮和合の仮有に執着し、要素への分析が我執の除去であることを忘れ、人間生存への真面目な努力を無視するようなことになり、人格を見失うようになった。これを回復しようとしたのが、[[犢子部]](とくしぶ)の補特伽羅(ふとがら、pudgala)であった。すなわち、存在を精神や物質の諸要素に分析し、さらに両者の結合を要素的な力に分析した考えに対して、これらを統一し人格付与の働きを補特伽羅としたのである。しかし、このような立場が一種の我的なものへの執着となることもありうる。このような傾向に対して、この無我を救うものとして、縁起の施設我、仮我を主張する考えがあらわれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 龍樹 ==&lt;br /&gt;
[[龍樹]](150年-250年)の&amp;#039;&amp;#039;大智度論&amp;#039;&amp;#039; に「問うて曰く、若し仏法中に一切法は空にして一切に我あること無しといわば、いかんが仏の経に初頭に如是我聞というや」と問い、「無我は了解しているが、俗法（シキタリ、言い習わし）に随って我といったので、それは実我ではない」といっているのは、これを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 世親 ==&lt;br /&gt;
一般的に「我」「私」とかいうのは仮我についていうので自他を区別するためである。しかし、それでは、その「我」とか「私」とかが自他を区別する為であるとしても、いったい、それは何についていわれるかという点で、[[世親]](320年-400年)は「仮によって我法と説く、種々の相転ずることあり、彼は識が所変による」と説いて、[[唯識]]といい、[[阿頼耶識]]のうえに我を仮説することを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大我 ==&lt;br /&gt;
このように仏教の教えは、今日ここにいる「私」自身がとらえらるべき何ものかとしてあるのではなくして、縁起においてあることを、いろいろな形で追究してゆく。「空性」というのも、「[[如来蔵]]」というのも、「[[仏性]]」というのも、この「私」の追究のうえにもとめられた姿に名付けたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」 (parama-aatman) であり、最高の我の意味である。もちろん、この我は外道の我でなく、仏果の徳の上につけた名である。すなわち[[涅槃]]といわれる[[悟り|さとり]]は真実であるからと、その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認めるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日常用語・[[慣用句]] ==&lt;br /&gt;
; 一人称&lt;br /&gt;
: 日常会話で使われる範囲では、[[日本語]]の[[一人称]]の一つであるが、[[フィクション]]や[[成句]]以外で使われることは滅多にない。ただし[[関西地方]]など一人称を[[二人称]]に転用する時に、使われる場合がある。（ワレは～）また、自己主張、我儘などを指して「我（が）の強い人間」という表現もある。[[中国語]]では「{{lang|zh|wŏ}}」と読み、[[広東語]]では「{{lang|zh-yue|ngo5}}」と読む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[天上天下唯我独尊]]　&lt;br /&gt;
: 天の上にも下にも尊い者は自分一人である、という言葉。[[仏陀]]が生まれた時、両手の親指でそれぞれ天地をさしてこれを表していたという伝説がある。現代では、極端な[[ナルシズム]]や[[エゴイズム]]を批判して使われることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 我思う、故に我あり &lt;br /&gt;
: [[ルネ・デカルト|デカルト]]の言葉。[[懐疑論]]によってあらゆる事象の根拠が揺らいだとしても、自分が思考しているという事実は思考によって否定されえず、ゆえに自分の存在も否定されえない確かな物である、という意味。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[和歌]]・[[俳句]]&lt;br /&gt;
: 我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け - [[後鳥羽天皇]]&lt;br /&gt;
: 我のみやあはれと思はん蛬なくゆふかげのやまとなでしこ - 『[[寛平御時后宮歌合]]』（素性法師）&lt;br /&gt;
: 吾はもや安見児得たりみな人の得がてにすとふ安見児得たり - [[藤原鎌足]]&lt;br /&gt;
: われを思ふ人を思はぬむくいにやわが思ふ人の我を思はぬ - 『[[古今和歌集]]』（読み人知らず）&lt;br /&gt;
: 我と来て遊べや親のない雀 - [[小林一茶]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 古語&lt;br /&gt;
自称の[[代名詞]]のほか、対等または目下の者&amp;lt;ref&amp;gt;『[[狭衣物語]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;また、この場合、「我様」「わり様」という表現を用いる場合もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;や、相手を卑しめて使用&amp;lt;ref&amp;gt;『[[浮世床]]』（[[式亭三馬]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references /&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[断見]]&lt;br /&gt;
*[[常見]]&lt;br /&gt;
*[[中道]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:か}}&lt;br /&gt;
[[Category:原始仏教]]&lt;br /&gt;
[[category:上座部仏教]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[it:Ātman]]&lt;br /&gt;
[[nl:Atman]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>133.19.127.45</name></author>
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