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	<title>張緝 - 版の履歴</title>
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		<title>2013年8月22日 (木) 16:03に218.251.53.113による</title>
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		<updated>2013-08-22T16:03:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;張 緝&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（ちょう しゅう、? - [[254年]]）は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。[[字]]は&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;敬仲&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;。父は[[張既]]。弟は張翁帰。子は[[張藐]]。孫は[[張殷]]。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「張既伝」などに記述がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
父が死去すると西郷侯を継いだ。中書郎から昇進して、東莞[[太守]]に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『魏略』によると、[[太和 (魏)|太和]]年間に[[温県|温]][[県令]]となり、政治の才があると評判になった。[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]が[[北伐|侵攻]]してくると時宜に適った意見を述べたという。[[曹叡]]（明帝）が詔勅を下し、[[孫資]]に判断を求めたところ「張緝は計略に優れた人物である」と評価したため、召し出されて[[騎都尉]]になり、対蜀の軍役に参加した。後に中央に戻って[[尚書]]郎となり、職務に相応しい人物として曹叡の目に留まることとなった。曹叡が張緝の才能を評価し占わせたところ、予想していた2千石程度の才という回答は得られなかったが、曹叡はその占い結果を信じず張緝を重用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東莞太守在任のときは、数千人を統率したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[嘉平 (魏)|嘉平]]年間、[[曹芳]]（斉王）の皇后甄氏が亡くなり、張緝の娘が新たに皇后となった（嘉平4年（[[252年]]）2月、「三少帝紀」）。皇后の父である張緝は[[光禄大夫]]となり、[[特進]]を加えられた。妻の向氏も安城郷君とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『魏略』によると、張緝は金銭面ではけちな性格で権勢家となっていたというが、娘が皇后になったことで、慣例により郡太守の任務を解かれてしまったため、私邸において落ち着かない様子であったという。その後、張緝は[[呉 (三国)|呉]]蜀の情勢について何度か意見を具申した。またある時、[[司馬師]]に対し「呉の[[諸葛恪]]がまもなく処刑されるであろう」と伝え、理由を尋ねられると「威光が主君を脅かし、功績が国中を覆っているからだ」と述べた。果たして予言がその通りとなったため、司馬師は張緝の智謀を認識するようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[正元 (魏)|正元]]元年（254年）2月22日、張緝は同郷の中書令[[李豊]]らとともに、司馬師を排除し[[夏侯玄]]を[[大将軍]]に就けることを計画したが、事前に計画が露見して捕縛され、夏侯玄・李豊らと共に処刑された上で、三族皆殺しとなった（「三少帝紀」・「諸夏侯曹伝」）。『魏略』によると、李豊とは家が近く代々親しくしており、李豊が急用で出かけているときは、子が李豊の元に出向いて相談することもあったという。また、『魏略』では獄中で死を賜ったとある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことで、皇后になっていた娘も3月に廃位された（「三少帝紀」）。なお、張緝の子も同時に処刑されたとあるが、[[西晋]]の[[永興]]年間に孫が[[梁州]][[刺史]]となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちよう しゆう}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:254年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>218.251.53.113</name></author>
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