<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
	<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E5%BC%B5%E6%97%A2</id>
	<title>張既 - 版の履歴</title>
	<link rel="self" type="application/atom+xml" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E5%BC%B5%E6%97%A2"/>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%BC%B5%E6%97%A2&amp;action=history"/>
	<updated>2026-09-25T01:40:26Z</updated>
	<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
	<generator>MediaWiki 1.44.2</generator>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%BC%B5%E6%97%A2&amp;diff=135054&amp;oldid=prev</id>
		<title>2013年9月28日 (土) 10:11に60.56.202.158による</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%BC%B5%E6%97%A2&amp;diff=135054&amp;oldid=prev"/>
		<updated>2013-09-28T10:11:25Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;張 既&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（ちょう き、? - [[223年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての武将・政治家。[[字]]は&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;徳容&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;。[[司隸]][[左馮翊]]高陵県の人。子は[[張緝]]・張翁帰。孫は[[張藐]]・張皇后（[[曹芳]]の皇后）。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志に伝がある。また[[裴松之]]によると、『[[魏略]]』においての伝は、[[徐庶|徐福]]・厳幹・李義・游楚・[[梁習]]・[[趙ゲン|趙儼]]・[[裴潜]]・韓宣・黄朗と同じ伝に収録されていたという（『三国志』魏志「裴潜伝」注）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
容姿と動作が優れ、文章作成が上手だった（『魏略』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
郡の功曹であった游殷は、幼少の張既を評価し方官の器だと評した。また家に招いて賓客として待遇し、宴席が終わると子の游楚の将来を頼んだという（『三輔決録注』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
16歳で郡の小役人になった。功曹の徐英に自ら30回ほど鞭打たれた事もあったという（『魏略』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に郡の高官を歴任し、[[孝廉]]に推挙されたが出仕しなかった。さらにその後、[[司空]]となった[[曹操]]から司空府に招かれたが、赴かない内に[[茂才]]となり、新豊[[県令]]に任命された。その治績は[[三輔]]第一であったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[建安 (漢)|建安]]7年（[[202年]]）、[[袁尚]]は曹操の侵攻に黎陽で抵抗する一方で、[[郭援]]と[[高幹]]それに[[匈奴]]を使って平陽を攻撃させ、さらに[[関中]]の将軍達に使者を送り味方に取り込もうとした。張既は、曹操により[[司隷校尉]]として派遣されていた[[鍾ヨウ|鍾繇]]の命令で、関中の有力者の[[馬騰]]らの説得に当たった。馬騰は説得に応じ、子の[[馬超]]に1万ほどの兵士を率いさせ、曹操への援軍とした。鍾繇はその兵力を用いて郭援を斬り、高幹と匈奴を降伏させる事ができた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安10年（[[205年]]）、高幹が再び反乱を起こした。[[河内郡 (河南省)|河内]]の張晟が1万の軍勢を率いて崤・渑の一帯を荒らし廻ると、衛固・張琰がこれらの動きに呼応した。曹操は張既を議郎に任命し、鍾繇の軍事に参画させた。張既は馬騰らを再び呼び寄せ、その軍勢により張晟を破り、衛固・張琰を斬首した。また翌年に、高幹を[[荊州]]へ逃亡させた。張既はこの功績で武始亭侯に封じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安13年（[[208年]]）、袁氏を滅ぼした曹操は荊州の征討を考えたが、関中に割拠する馬騰の動静が気がかりであった。張既は曹操から馬騰への使者として派遣され、馬騰に対し軍勢を解散させ帰郷すべしとする曹操の命令を伝えた。しかし、馬騰が帰郷をなかなか実行しなかったため、張既は変事が起きることを心配して、諸県に兵糧を蓄えさせる一方で、郡[[太守]]達に郊外まで出迎えに行かせた。馬騰は子の馬超に軍勢を預けて已む無く東に向かい、朝廷に帰順した。曹操は上奏して馬騰を[[衛尉]]とし、馬超を将軍とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安16年（[[211年]]）、馬超や関中の豪族が曹操に対して反乱を起こすと、曹操に従い華陰において馬超を討伐し([[潼関の戦い]])、西方に進んで関北を平定した。その功績により[[京兆尹]]に任じられた。張既は流民を集めて落ち着かせ、県や邑を復興した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後漢の藩国として魏国が成立すると[[尚書]]になり、間もなく地方に出て故郷でもある[[雍州]][[刺史]]となった。[[張魯]]討伐では別に軍を率いて[[テイ (民族)|氐]]族を討伐し、麦を収穫して兵糧とした。張魯が降伏すると、[[漢中]]の数万戸を移住させて、[[長安]]や三輔の人口を補うよう曹操に進言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安23年（[[218年]]）、[[曹洪]]と共に下弁に向かい、[[劉備]]軍の[[呉蘭]]を撃退した。また[[夏侯淵]]に従って宋建討伐をした時は、別軍を率いて臨洮や[[狄道県|狄道]]を攻撃し功績を挙げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以前、曹操が移民により河北の人口を補った事があったため、[[隴西郡|隴西]]・[[天水]]・南安の3郡は動揺していた。張既は3郡出身の官吏や将校に暇を与え、住家を修理させて水碓を支給した。このため民心は安定したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曹操は漢中からの撤兵を考えたが、劉備が[[武都]]の氐族を味方につけて、関中に圧力をかけてくる事を心配し、張既にどうすれば良いか質問した。張既は「氐族を北方に移住させ、劉備から避けさせれば良いでしょう」と答えた。曹操はこれに従い張既に命じて、武都の5万人の氐族の部落を[[右扶風|扶風]]・天水に住まわせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西域の[[武威]]・[[張掖]]・[[酒泉]]・[[西寧市|西平]]の4郡にはそれぞれ有力者が割拠し、自立状態を保っていた。ある時、武威の顔俊が曹操に対し母を人質に送り、帰順と援助を申し出てきた。張既は彼らの内紛を待つべきだと進言した。間もなく、顔俊が張掖の和鸞に殺害され、張掖と武威の有力者同士の抗争が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安25年（[[220年]]）に[[曹丕]]（文帝）が王位に就き、[[涼州]]が再び設置されると、[[安定郡|安定]]太守の雛岐を刺史に当てたが、4郡の有力者達はそれに従おうとせず、任命された郡太守を追放したり捕虜にしたりした。張既は[[蘇則]]に協力し、功績を立てさせた。都郷侯に封じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
涼州で伊健妓妾・治元多らの反乱が起きると、曹丕は「張既でなければ異民族で乱れる涼州は治められぬ」と言い、張既を涼州刺史に任命し彼等を討伐させた。張既はその期待に応え、伊健妓妾・治元多らを討伐した。後詰として[[夏侯儒]]・[[費耀|費曜]]も派遣されていたが、張既は彼等の到着も待たず進軍し、[[金城]]から黄河を渡り、反乱軍の裏をかいて武威に到着した。しかし、武威で費曜とだけ合流した張既の軍は疲弊しており、また兵糧が不足していたため、顕美で反乱軍との決戦に及んだ。参軍の[[成公英]]を使い、反乱軍を罠にかけ[[伏兵]]を用いたため、大勝することができたという。その功績により西郷侯に封じられ、2百戸の食邑を加増された。以前と合わせて4百戸となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、酒泉の蘇衡が[[羌]]族と結んで反乱を起こすと、張既は夏侯儒とともにこれを攻撃し降伏させた。また、西光の麴光も羌族と結び反乱を起こし、郡太守を殺害したが、張既が布告を出し内紛を誘ったところ、まもなく麴光は仲間に殺害された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雍州・涼州を十数年もの間よく治めたため、張既の統治の評判は非常に良かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以前の上司であった徐英とは仲良くする事はできなかったが、張既は以前の恨みを棄てて付き合いを持とうと努めたため、高貴な身分となった張既に謙らなかった徐英と共に、その態度を讃えられたという（『魏略』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつての游殷の子である游楚を採り立て、漢興太守とした（『三輔決録注』）。游楚は後に隴西太守となり、[[諸葛亮]]の[[北伐]]に西域の郡太守の中で唯一抵抗した（『魏略』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
龐延・[[胡遵]]・[[楊阜]]・[[ホウイク|龐淯]]・[[張恭]]・周生烈などを推挙している。毌丘興（[[カン丘倹|毌丘倹]]の父）の功績を評価した事もある（「毌丘倹伝」が引く『魏名臣奏』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[黄初]]4年（223年）に死去した。跡は子の張緝が継いだ。また、少子の張翁帰は[[関内侯]]に封じられた。[[曹叡]]（明帝）の時代に粛侯の諡が追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちよう き}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:223年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>60.56.202.158</name></author>
	</entry>
</feed>