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	<title>大宰府 - 版の履歴</title>
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		<title>126.26.43.124: /* 交通 */</title>
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		<updated>2014-04-01T08:51:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;span class=&quot;autocomment&quot;&gt;交通&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{Otheruseslist|7世紀後半の地方行政機関|現存する地方公共団体|太宰府市}}&lt;br /&gt;
[[File:Tofuroｈ dazaifu.JPG|thumb|250px|right|正殿跡（都府楼跡石碑）]]&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;大宰府&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（だざいふ）は[[7世紀]]後半に、[[九州]]の[[筑前国]]に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;太宰府&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;とも記され&amp;lt;ref&amp;gt;太宰府について記された全25文書のうち「大」だけ使用のもの8例、「太」「大」併用のもの4例、「太」のみのもの13例。8世紀から10世紀までの文書で「太」を用いているもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 懐風藻…併用&lt;br /&gt;
* 唐大和上東征伝（[[淡海三船]]）…併用&lt;br /&gt;
* 入唐求法巡礼行記（[[円仁]]）…「太」のみ&lt;br /&gt;
* [[続日本後紀]]（[[藤原良房]]ほか）…「太」のみ&lt;br /&gt;
* [[文徳天皇実録]]（[[菅原是善]]ほか）…「太」のみ&lt;br /&gt;
* [[延喜式]]（[[藤原時平]]・[[紀長谷雄]]）…併用&lt;br /&gt;
* [[倭名抄]]（[[源順]]）…「太」のみ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主に8世紀の大和朝廷内部で作られた史書だけが「大宰府」を使っている。&lt;br /&gt;
 &amp;lt;/ref&amp;gt;、現在でも地元は太宰府「だざいふ」を使っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名称 ==&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;大宰&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（おほ みこともち）とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。[[大宝律令]]以前には[[吉備]]大宰（[[天武天皇]]8年（[[679年]]））、[[周防]]総令（天武天皇14年（[[685年]]））、[[伊予]][[総領]]（[[持統天皇]]3年（[[689年]]））などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[続日本紀]]』[[文武天皇]]4年（[[700年]]）10月の条に「直大壱[[石上麻呂|石上朝臣麻呂]]を筑紫総領に、直広参[[小野毛野|小野朝臣毛野]]を[[大弐]]（次官）と為し、直広参[[波多牟後閇|波多朝臣牟後閇]]を周防総領と為し」とあるように「総領」とも呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大宝律令（[[701年]]）によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと考えてよい。また、その想定範囲は、現在の[[太宰府市]]および[[筑紫野市]]に当たる。遺跡&amp;lt;ref&amp;gt;大宰府跡は、大野山南麓一帯の平野に東西24坊、南北23条の規模であり、北は大野城、南は基肆城、平野部の出入り口は水城で遮って防衛した都城跡である。&amp;lt;/ref&amp;gt;は国の[[特別史跡]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[1921年]]（[[大正]]10年）[[3月3日]]政庁の中心部だけ史跡指定、[[1953年]]（[[昭和]]28年）[[3月31日]]特別史跡指定、[[1970年]]（[[昭和]]45年）[[9月21日]]・[[1974年]]（昭和49年）[[6月25日]]蔵司（くらのつかさ）西側の木簡と築地が発見された地域が追加指定&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平城宮]][[木簡]]には「筑紫&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;大&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;宰」、平城宮・[[長岡京]]木簡には「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;大&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;大&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;宰府」という表記を用いる。[[都市]]名や[[菅原道真]]を祀る神社（[[太宰府天満宮]]）では「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;太&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;宰府」という表記を用いる。「宰府」と略すこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお現在、地元では史跡は「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;都府楼跡&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;」（とふろうあと）あるいは「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;都督府古址&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;」（ととくふこし）などと呼称されることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[File:Overhead view of Dazaifu metro ruin taken from Mt.Iwaya that is 281ms high located in about 3kms to the south.jpg|240px|right|thumb|北へ約3kmの[[岩屋城|岩屋山]]（標高281m）からの遠景]]&lt;br /&gt;
外交と防衛を主任務とすると共に、[[西海道]]9国（[[筑前国|筑前]]、[[筑後国|筑後]]、[[豊前国|豊前]]、[[豊後国|豊後]]、[[肥前国|肥前]]、[[肥後国|肥後]]、[[日向国|日向]]、[[薩摩国|薩摩]]、[[大隅国|大隅]]）と三島（[[壱岐国|壱岐]]、[[対馬国|対馬]]、[[多禰国|多禰]]（現在の[[大隅諸島]]。[[824年]]に大隅に編入））については、[[掾]]（じょう）以下の人事や[[四度使]]の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷（とおのみかど）」とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍事面としては、その管轄下に[[防人]]を統括する[[防人司]]、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外交面では、北九州が古来[[中国]]の王朝や[[朝鮮半島]]などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である[[鴻臚館]]（こうろかん）が那津（現在の[[博多湾]]）の沿岸に置かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長官は[[大宰帥]]（だざいのそち）といい[[従三位]]相当官、[[大納言]]・[[中納言]]クラスの政府高官が兼ねていたが、[[平安時代]]には[[親王]]が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、次席である[[大宰権帥]]が実際の政務を取り仕切った（ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない）。帥・権帥の任期は5年であった。また、この頃は、[[唐]][[宋 (王朝)|宋]]商船との私貿易の中心となった。&lt;br /&gt;
北部九州六国から徴発された西海道の仕丁は、太宰府に集結させられた。そのうち400人前後が太宰府官人の事力（じりき）となり、あるいは主船司等に配属された（『延喜式』民部下）。このほか[[観世音寺]]の造営のための駆使丁としても使役された（『続日本紀』[[和銅]]2年（[[709年]]）2月戊子条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主な建物として[[国庁|政庁]]、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされる。しかし、遺跡が確認されたものは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1921年]]（[[大正]]10年）[[3月3日]]国の史跡に指定。[[1953年]]（[[昭和]]28年）[[3月31日]]、国の特別史跡に指定された。[[1970年]]（[[昭和]]45年）[[9月21日]]・[[1974年]]（昭和49年）[[6月29日]]追加指定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 職員 ==&lt;br /&gt;
[[四等官]]は、帥、権帥の下に&lt;br /&gt;
* 弐（すけ） : 大弐（だいに）、少弐（しょうに）&lt;br /&gt;
* 監（じょう） : 大監（だいげん・だいじょう）、少監（しょうげん）&lt;br /&gt;
* 典（さかん） : 大典（だいてん・おおさかん）、少典（しょうてん）&lt;br /&gt;
が置かれ、そのほか令によると主神・大判事・大令史・大工・[[官人#雑任|史生]]・[[医師_(律令制)|医師]]・[[算師]]など50人の官人が置かれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
特に[[弥生時代]]や[[古墳時代]]を通じて、[[玄界灘]]沿岸は、アジア大陸との窓口という交通の要衝であった。そのため、[[畿内]]を地盤とする[[ヤマト王権|ヤマト政権]]が外交や[[朝鮮半島]]への軍事行動の要衝として、出先機関を設置することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[魏志倭人伝]]』に見られる「一大率」は別としても、&lt;br /&gt;
* 『[[日本書紀]]』[[宣化天皇]]元年（[[536年]]）条の「夫れ筑紫国は、とおくちかく朝（もう）で届（いた）る所、未来（ゆきき）の関門（せきと）にする所なり。（中略）[[官家]]（みやけ）を那津（なのつ、博多大津の古名）の口（ほとり）に脩（つく）り造（た）てよ」&lt;br /&gt;
* [[崇峻天皇]]5年（[[593年]]）条の「駅馬を筑紫将軍の所に遣して曰はく」&lt;br /&gt;
* [[推古天皇]]17年（[[609年]]）4月の条に「筑紫大宰（つくしのおほみこともち）、奏上して言さく」&lt;br /&gt;
などの記述がその証拠と考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「大宰」の文字の初見が[[609年]]（推古天皇17年）であるが、既に見たように（536年の宣化朝の記事のこと）福岡県博多に官家を造るなどの記事から大宰府の起源はもっと遡るのではないかと考えられている。&lt;br /&gt;
[[7世紀]]には、[[遣唐使]][[小野妹子]]が[[隋]]の使者裴世清を伴って那津に着いた頃から、官家（みやけ）は、大陸や朝鮮半島からの使者の接待をも担うようになったと考えられる。筑紫大宰は九州全体の統治と外国使節の送迎などにあたったと考えられ、以後は大宰府に引き継がれていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[皇極天皇|斉明天皇]]6年（[[660年]]）[[百済]]が滅亡し、百済復興をかけて天智天皇2年（[[663年]]）[[唐]]・[[新羅]]連合軍と対峙した[[白村江の戦い]]で大敗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天智朝では、唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から[[664年]]（[[天智天皇]]3年）8月、[[筑紫]]に大きな堤に水を貯えた[[水城]]（みずき）・小水城を造ったという。水城は、[[福岡平野]]の奥、[[御笠川]]に沿って、東西から山地が迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、今日もその遺跡が残っている。構造は、高さ14メートル、基底部の幅が約37メートルの土塁を造り、延長約1キロにわたる。また、翌年の[[665年]]（天智天皇4年）大宰府の北に[[大野城 (筑前国)|大野城]]、南に[[基肄城]]などの城堡が建設されたとされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[649年]]（[[大化]]5年）には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、[[天智天皇]]から[[天武天皇]]にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。機関としては、[[667年]]（天智天皇6年）に「筑紫[[都督]]府」があり、[[671年]]（同10年）に初めて「筑紫大宰府」が見える。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 政庁地区（[[都府楼]]地区）の発掘調査では3時期の遺構が確認されているが、そのうちの第1期と呼ばれる[[7世紀]]後半から[[8世紀]]にかけての遺構群が、この段階のものと考えられている。[[奈良時代]]から[[平安時代]]には、政庁を中心とする地区で、部分的ながらも[[条坊制]]による都市が建設されている。発掘調査の節の方が適切ではないか。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代は、首都たる[[大和国]]（現在の[[奈良県]]）（[[794年]]以降は[[山城国]]（現在の[[京都市]]）で失脚した[[貴族]]の左遷先となる事例が多かった。例としては[[菅原道真]]や[[藤原伊周]]などがいた。また、大宰府に転任した[[藤原広嗣]]が、首都から遠ざけられたことを恨んで[[740年]]に反乱を起こし、その影響で数年間大宰府は廃止され、その間は大宰府の行政機能は[[筑前国|筑前]][[国司]]が、軍事機能は新たに設置された&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;鎮西府&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;が管轄していた。つまり、[[742年]]（[[天平]]12年）1月にいったん廃止し、[[743年]]（天平15年）12月に筑紫に鎮西府を置く。しかし、[[745年]]（天平17年）6月に復活させている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[平安時代]]に入ると大宰府の権限が強化され、[[806年]]（[[大同 (日本)|大同]]元年）2月に大宰大弐の[[官位相当]]が[[正五位上]]から[[従四位下]]に引き上げられ（『[[日本後紀]]』）、[[810年]]（[[弘仁]]元年）には[[大宰権帥]]が初めて設置された。[[941年]]（[[天慶]]4年）[[承平天慶の乱|天慶の乱]]（[[藤原純友]]の乱）で陥落し、[[大宰権帥]]の[[橘公頼]]が対抗する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安時代後期になると、「大府」「宰府」という異名も登場する。ただし、[[12世紀]]に入ると、「大府」は名目のみの存在となった大宰帥に代わって責任者の地位にありながら実際には[[遥任]]の形態で京都で政務を執った大宰権帥や大宰大弐を、「宰府」は大宰府の現地機構を指すようになった。大宰権帥や大宰大弐が現地機構に対して発した命令を[[大府宣]]、反対に現地機構からの上申書を[[宰府解]]（大宰府解・宰府申状）と呼んだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;syakadou&amp;quot;&amp;gt;釈迦堂光浩「大府と宰府 鎌倉時代の大宰権帥と大宰大弐を中心に」（所収:鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究1 鎌倉時代の政治と経済』（[[東京堂出版]]、[[1999年]]） ISBN 978-4-490-20374-5）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1158年]]（[[保元]]3年）に[[平清盛]]が大宰大弐になると、[[平氏政権]]の基盤である[[日宋貿易]]の意図もあり、やがて北九州での政治的中心地は、大宰府から20キロメートル北の[[博多]]（福岡市）へ移る。[[鎌倉時代]]に入っても大宰権帥や大宰大弐が広大な大宰府領や対外貿易の利益から経済的に魅力のあった地位であった。[[元寇]]前夜の[[1271年]]（[[文永]]8年）2月に、大宰権帥の地位を巡って[[吉田経俊]]と分家の[[中御門経任]]が争って最終的に[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]の側近であった経任が[[補任]]されたことを非難した同族の[[吉田経長]]の日記の中に経任が[[古代]]中国の富豪である[[陶朱]]のようになったと皮肉を込めて記している（『吉続記』文永8年2月2日条）。もっとも、こうした任命の裏には任命する[[天皇]]や[[太上天皇|上皇]]の側にもメリットがあり、大宰権帥退任後に[[修理職]]などの地位に任じられ、[[御所]]の造営や[[大嘗祭]]のような多額の費用のかかる行事の負担を命じられた。当然、大宰権帥に就いたことによる経済的利得はその負担を上回るものであったと推定される&amp;lt;ref name=&amp;quot;syakadou&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[武藤資頼]]が大宰少弐に任じられ、その子の代に[[少弐氏]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中世]]に入り、[[朝廷]]の衰微や[[元寇]]など西海道の動向につれて実権は揺らいでいく。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後醍醐天皇]]が[[皇子]]の[[懐良親王]]を征西将軍として派遣し、[[菊池氏]]に擁立された懐良親王を頂く南朝方は[[1359年]]（[[正平 (日本)|正平]]14年/[[延文]]4年）の[[筑後川の戦い]]で少弐氏を総大将とした北朝方を破り、本拠とした。南朝方の[[征西府]]は[[室町時代|室町幕府]]が派遣した[[今川貞世]]（了俊）に敗れ、少弐氏は大宰府を回復するが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[大内氏]]に追われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 発掘・調査 ==&lt;br /&gt;
[[1968年]]（[[昭和]]43年）から学術調査が実施されるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政庁地区 ===&lt;br /&gt;
[[File:Dazaifu (government) zenkei.JPG|thumb|200px|right|政庁跡全景&amp;lt;br/&amp;gt;背後の山は[[大野城]]。]]&lt;br /&gt;
政庁地区の発掘調査は[[1943年]]（[[昭和]]18年）に行われたものを嚆矢とする。&lt;br /&gt;
調査の結果、政庁地区においては3時期の遺構面が存在することが確かめられた。各遺構面の概要は下記のとおりである。&lt;br /&gt;
* 第1期 : [[7世紀]]後半 - [[8世紀]]初頭。大宰府政庁創建期（掘立柱建物群。古段階と新段階に細分される。）&lt;br /&gt;
* 第2期 : 8世紀初頭 - [[10世紀]]中葉。[[朝堂院]]形式創建期（礎石建ち瓦葺き建物。政庁規模は、東西111.6メートル、南北188.4メートル、回廊規模は、東西111.1メートル、南北113.8メートル）&lt;br /&gt;
* 第3期 : 10世紀中葉 - [[12世紀]]。朝堂院形式整備拡充期（礎石建ち瓦葺き建物）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政庁地区については、発掘調査以前には「現在見える礎石が創建時のもの」、「[[941年]]（[[天慶]]4年）の藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」、という考えが主流であった。前者の考えについては各遺構面が存在することによって否定され、後者については、第2期遺構面上に堆積する焼土層によって焼失の事実は証明されたものの、第3期の遺構がさらに規模を拡大して再建されていることが明らかとなり、現在では否定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1期から第2期への改築は、律令制度によって政府機関として確立したことに対応するものである。第3期は律令制度が弛緩している時期にあたるため、第2期より大規模な造作が行われていることに多くの研究者が驚かされたが、現在では、当時の政庁運営で中心的役割を担っていた[[在庁官人]]層の拡大に対応するものと理解されている。&amp;lt;!-- [[学習院大学]]年代測定室によって行われた[[放射性炭素年代測定]]によれば、大宰府遺跡の竹内焼土層は[[1600年]]ほど前のものである。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
File:Dazaifu (government) naka-mon.JPG|中門跡&lt;br /&gt;
File:Dazaifu (government) minami-mon.JPG|南門跡&lt;br /&gt;
File:Dazaifu (government) shoumen.JPG|政庁跡正面&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 条坊制 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Dazaifu.gif|right|thumb|300px|大宰府条坊復元図（九州大学[[宮本雅明]]案&amp;lt;ref&amp;gt;宮本雅明「太宰府の都市」『太宰府市史建築・美術工芸資料編』[[太宰府市]]、[[1998年]][[5月]]、pp.81-132。&amp;lt;/ref&amp;gt;を参考に作成）]]&lt;br /&gt;
大宰府に[[条坊制]]による街区が存在することを想定したのは、のちに[[九州大学]][[教授]]となる[[鏡山猛]]が初めてで、[[1937年]]（[[昭和]]12年）のことである。鏡山は、政庁域を方四町、[[観世音寺]]域を方三町と推定した場合、両者の南辺を東西線上に一致させることができること、かつその場合の政庁東辺と観世音寺西辺の間が二町となることをもって、一町を単位とする造成企画の存在を想定し、その適用範囲を広げると周囲の道路や畦畔に合致するものが多いことを指摘。加えて観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称の分析から、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6キロメートル、南北約2.4キロメートルに亘る条坊域を想定した。その実態は[[1930年代]]に存在していた道路や畦道に基づく「机上の復元案」といえるものであるが、大宰府の条坊の存在を指摘し、学界に注意を喚起した功績は揺るがない。鏡山案は現在もっとも知られているもので、一般向け図書やHPなどで紹介されている復元図はほとんどがこの鏡山案である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、福岡県教育委員会、[[九州歴史資料館]]、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。&lt;br /&gt;
# 政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない。&lt;br /&gt;
# 政庁第2期に対応する8世紀段階において条坊に関連すると考えられる遺構は、政庁中央から南へ伸びる南北中央大路（地元では[[朱雀大路]]と呼ばれる）周辺を中心として存在する。これらの遺構は南北方向のものが顕著で、東西方向のものは少ないことから、整然とした条坊域が整備されていたのではない可能性もある。&lt;br /&gt;
# 政庁第3期に対応する10世紀段階の条坊遺構は鏡山案の想定域に近い範囲に存在する。この段階での一区画は面積8反を基準としているらしい。区画溝などの遺構は[[11世紀]]後半から[[12世紀]]前半にかけて埋没し、条坊制による街区はこの頃に廃れたと考えられる。&lt;br /&gt;
こうした状況は、政治的中心の周囲に次第に都市が形成されていく過程と理解できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もはや鏡山案はそのままの形では成り立たない状況となっており、上記のような発掘成果を受けた新たな条坊復元案が[[金田章裕]]や井上信正などによって提示されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]（[[平成]]18年）[[4月20日]]、筑紫野市教委は、大宰府政庁跡の北端から約1.7キロメートル南で条坊の南端と推定される幅約8メートルの道路と側溝の遺構が見つかったと発表した。市教委は、この場所より南側ではほとんど遺構が発見されていないことなどを根拠として、この遺構を条坊の南端と推定している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
File:Dazaifu (government) gakko-in.JPG|学校院跡&lt;br /&gt;
File:Dazaifu (government) tsukiyama-higashi.JPG|月山東地区官衙跡&lt;br /&gt;
File:Dazaifu (government) kuratsukasa.JPG|蔵司地区官衙跡&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関係人物 ==&lt;br /&gt;
* [[石川王]] - [[壬申の乱]]で大海人皇子（[[天武天皇]]）に与して功績を上げた。吉備大宰在任中の[[679年]]（天武天皇8年）に吉備で病死。他に例のない5段積みの方墳である大谷1号墳（岡山県）がその墓との説が有力である。&lt;br /&gt;
* [[栗隈王]] - [[敏達天皇]]の孫（曾孫とも）。[[大宰帥]]の前身にあたる「筑紫率」に任命された。[[壬申の乱]]の際、筑紫の軍は外敵に対するもので国内の争いに用いるべきではないとして中立を宣言、結果的に大海人皇子（[[天武天皇]]）の勝利に貢献して天武天皇から重用されることとなり、子孫が[[橘氏]]として繁栄する礎を築いた。&lt;br /&gt;
* [[藤原広嗣]]&lt;br /&gt;
* [[吉備真備]]&lt;br /&gt;
* [[大伴旅人]]（[[665年]] - [[731年]]） - [[728年]]（[[神亀]]5年）から[[730年]]（[[天平]]2年）の晩年、[[大宰帥]]。大宰府へ赴任した直後に妻[[丹比郎女]]を失った。&lt;br /&gt;
* [[大伴家持]]&lt;br /&gt;
* [[大伴坂上郎女]]&lt;br /&gt;
* [[山上憶良]]&lt;br /&gt;
* [[小野岑守]] - 大宰大弐として赴任中の[[弘仁]]14年（[[823年]]）に[[公営田]]の導入を建議、翌[[天長]]元年（[[824年]]）に多{{lang|zh|褹}}国を[[大隅国]]に編入した。&lt;br /&gt;
* [[菅原道真]] - [[大宰権帥]]として赴任するが、大宰府政庁には一度も登庁せず。&lt;br /&gt;
* [[藤原隆家]] - 眼病治療のために自ら望んで大宰権帥として赴任。その後、[[刀伊の入寇]]に遭遇し、現地での陣頭指揮を執った。&lt;br /&gt;
* [[橘公頼]]&lt;br /&gt;
* [[平清盛]]（[[1158年]]） - 大宰大弐となる。&lt;br /&gt;
* [[武藤資頼]]（[[1226年]] - [[1228年]]） - [[武士]]ながら大宰少弐に任ぜられ、[[少弐氏]]の祖となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 異説・俗説 ==&lt;br /&gt;
[[九州王朝説#太宰府（倭京）|九州王朝説]]では、大宰府が、古代北九州王朝の首都（[[倭京]]）であったと主張している。しかし査読のある学術雑誌において[[九州王朝]]を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、九州王朝説および関連する主張は科学的な根拠の欠如したいわゆる俗説に過ぎないとの強い指摘が、専門家によりなされている。&lt;br /&gt;
{{要出典範囲|明治時代に日本と中国で商売した武器商人バルタサー・ミュンターが中国で見聞した手記によると、中国と全く同じ風俗の都市が古代の九州に存在した|date=2013年8月}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
* コミュニティーバス[[まほろば号]]「大宰府政庁前」下車すぐ&lt;br /&gt;
*[[西鉄バス二日市#甘木支社|西鉄バス]]&lt;br /&gt;
**&amp;lt;span style=&amp;quot;color:deepskyblue&amp;quot;&amp;gt;■&amp;lt;/span&amp;gt;400系統「[[筑陽学園中学校・高等学校|筑陽学園前]]」下車、北へ徒歩5分 - [[博多駅]]（[[博多バスターミナル]]2階24番のりば）、もしくは[[呉服町駅 (福岡県)|呉服町駅]]（呉服町バス停）から乗車&lt;br /&gt;
**無番「大宰府政庁前」下車すぐ - [[博多駅]]（[[博多バスターミナル]]1階13番のりば）&lt;br /&gt;
* 最寄駅：[[西鉄天神大牟田線]][[都府楼前駅]]（まほろば号が接続している）&lt;br /&gt;
* 駐車場あり。ただし狭く、政庁跡周辺は駐車禁止なので公共交通機関の利用を勧める。&lt;br /&gt;
* [[国道3号]]&lt;br /&gt;
* [[福岡県道76号筑紫野太宰府線]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 周辺情報 ==&lt;br /&gt;
* [[大宰府展示館]]&lt;br /&gt;
* 月山（[[漏刻]]・水時計）&lt;br /&gt;
* [[坂本八幡宮]]&lt;br /&gt;
* 通古賀近隣公園&lt;br /&gt;
* 太宰府市民の森&lt;br /&gt;
* [[四王寺山]]登山&lt;br /&gt;
* [[水城]]跡&lt;br /&gt;
* [[都府楼南駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 祭事 ==&lt;br /&gt;
* 太宰府天満宮秋思祭（[[旧暦]][[9月10日]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 催事など ==&lt;br /&gt;
* [[ウメ]]（2月～3月）&lt;br /&gt;
* [[サクラ]]（3月下旬）&lt;br /&gt;
* [[アジサイ]]（6月）&lt;br /&gt;
* 太宰府市民政庁まつり（10月）&lt;br /&gt;
* 初夏の夜は[[ホタル]]が見られる&lt;br /&gt;
* 不定期に、[[薪能]]、[[第九]]演奏会などが開催されることもある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[北部九州]]&lt;br /&gt;
* [[律令制]]&lt;br /&gt;
* [[平氏政権]]&lt;br /&gt;
* [[多賀城]]&lt;br /&gt;
* [[都督]]&lt;br /&gt;
* [[少弐氏]]&lt;br /&gt;
* [[九州国立博物館]]&lt;br /&gt;
* [[九州歴史資料館]]&lt;br /&gt;
* [[榎社]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連文献 ==&lt;br /&gt;
* 内倉武久 『太宰府は日本の首都だった―理化学と「証言」が明かす古代史』 [[ミネルヴァ書房]]、ISBN 4-623-03238-8 - 九州王朝説の文献。&lt;br /&gt;
* 鏡山猛 『大宰府都城の研究』 [[風間書房]]、[[1968年]]。&lt;br /&gt;
* 倉住靖彦 『古代の大宰府』 [[吉川弘文館]]〈古代史研究選書〉、[[1985年]]、ISBN 978-4-642-02157-9&lt;br /&gt;
* [[田村圓澄]]編 『大宰府 古代を考える』 [[吉川弘文館]]、[[1987年]]、ISBN 978-4-642-02143-2。&lt;br /&gt;
* 田村圓澄 『大宰府探求』 [[吉川弘文館]]、[[1990年]]、ISBN 978-4-642-07284-7。&lt;br /&gt;
* [[森弘子]] 『太宰府発見―歴史と万葉の旅』 [[海鳥社]]、ISBN 978-4-87415-422-9、ISBN 4-87415-422-0。&lt;br /&gt;
* 『大宰府史跡―発掘調査概報』 [[九州歴史資料館]]。&lt;br /&gt;
* 『古代の西海道と大宰府』 [[九州歴史資料館]]、[[1984年]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Dazaifu (government)}}&lt;br /&gt;
* [http://dazaifu.mma.co.jp/fureai/iseki_dayori/45/index.html 太宰府市文化ふれあい館]&lt;br /&gt;
* [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou50/koga50.html 新・古代学の扉&amp;gt;よみがえる倭京（太宰府）]（九州王朝説）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{coord|33|30|52.35|N|130|30|54.52|E|region:JP-40_type:landmark|display=title}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たさいふ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の律令制]]&lt;br /&gt;
[[Category:西海道]]&lt;br /&gt;
[[Category:筑前国]]&lt;br /&gt;
[[Category:九州地方の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の都市]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別史跡]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県にある国指定の史跡]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の古都]]&lt;br /&gt;
[[Category:太宰府市の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
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