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	<title>下山事件 - 版の履歴</title>
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		<title>210.231.47.46: /* 書籍 */</title>
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		<updated>2014-07-28T17:03:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;span class=&quot;autocomment&quot;&gt;書籍&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{Infobox 事件・事故&lt;br /&gt;
| 名称       = 下山事件&lt;br /&gt;
| 画像       = Shimoyama Incident.JPG&lt;br /&gt;
| 脚注       = 搬出される下山の遺体&lt;br /&gt;
| 場所       = {{JPN}} [[東京都]][[足立区]] [[常磐線]][[北千住駅]] - [[綾瀬駅]]間&lt;br /&gt;
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = &lt;br /&gt;
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 = &lt;br /&gt;
| 日付       = [[1949年]]（[[昭和]]24年）[[7月6日]]&lt;br /&gt;
| 時間       = 午前0時30分過ぎ&lt;br /&gt;
| 時間帯     = JST&lt;br /&gt;
| 概要       = 同年[[7月5日]]、[[日本国有鉄道|国鉄]][[総裁]][[下山定則]]が出勤途中に[[失踪宣告|失踪]]。翌日未明に[[死体]]となって発見された&lt;br /&gt;
| 原因       =&lt;br /&gt;
| 手段       = &lt;br /&gt;
| 武器       = &lt;br /&gt;
| 攻撃人数   = &lt;br /&gt;
| 標的       = &lt;br /&gt;
| 死亡       = [[下山定則]]&lt;br /&gt;
| 犯人       = &lt;br /&gt;
| 容疑       = &lt;br /&gt;
| 動機       = &lt;br /&gt;
| 関与       =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;下山事件&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（しもやまじけん）とは、[[連合国軍占領下の日本|日本が連合国の占領下]]にあった[[1949年]]（[[昭和]]24年）[[7月5日]]朝、[[日本国有鉄道|国鉄]][[総裁]][[下山定則]]が出勤途中に[[失踪宣告|失踪]]、翌日未明に[[死体]]となって発見された事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件発生直後から[[マスコミュニケーション|マスコミ]]では[[自殺]]説・[[殺害|他殺]]説が入り乱れ、[[警視庁 (旧警察法)|警視庁]]は公式の[[捜査]]結果を発表することなく捜査を打ち切った。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した[[三鷹事件]]、[[松川事件]]が相次いで発生し、三事件を合わせて「[[国鉄三大ミステリー事件]]」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件のあらまし ==&lt;br /&gt;
1949年（昭和24年）[[6月1日]]に発足した日本国有鉄道（国鉄）の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分頃に[[大田区]][[上池台]]の自宅を[[社用車|公用車]]で出た。出勤途中、[[運転手]]に[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[三越]]に行くよう指示。三越に到着したものの開店前だったため、一旦、[[JR東日本本社ビル#旧国鉄本社ビル|国鉄本社]]のある[[東京駅]]前に行って千代田銀行（[[三菱銀行]]、現在の[[三菱東京UFJ銀行]]）に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。そして午前9時37分頃、公用車から降りた下山は、「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
普段、下山は午前9時前には国鉄本社に出勤し、毎朝[[秘書]]が玄関で出迎えていた。失踪当日は、[[#事件の時代背景と推理|国鉄の人員整理]]をめぐり緊張した状況にあり、午前9時には重要な[[鉄道管理局|局長]]会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、[[警察]]に連絡。失踪事件として捜査が開始された。翌[[7月6日]]午前0時30分過ぎに[[足立区]][[綾瀬 (足立区)|綾瀬]]の国鉄[[常磐線]][[北千住駅]] - [[綾瀬駅]]間で汽車に轢断された下山の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 失踪後の足取り ===&lt;br /&gt;
失踪後、下山総裁らしき人物は、まず三越店内で、次に[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]（現[[東京地下鉄]]）[[東京メトロ銀座線|銀座線]]の[[浅草駅|浅草]]行き列車内で目撃された。三越店内では、数名の人物たちを伴っていたとの目撃証言もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
午後1時40分過ぎに、轢断地点に近い[[東武伊勢崎線]][[五反野駅]][[改札]]で改札係と話を交わした。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「末広[[旅館]]」に滞在。午後6時頃から8時すぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られた&amp;lt;ref&amp;gt;[[警視庁 (旧警察法)|警視庁]][[捜査一課]]は、末広旅館での目撃証言により、[[ストレス (生体)|ストレス]]等による発作的自殺説に傾いていった。しかし、五反野駅周辺から末広旅館にかけて目撃された人物について、旅館滞在中と、旅館を出て[[トンネル]]と土手で目撃された18時40分までは、[[眼鏡|メガネ]]をかけていたが、夕方にかけての3人の目撃証言では、[[ネクタイ]]とメガネを外しており強度の[[近視]]でメガネを常にかけていた下山にしては不自然との指摘や、旅館滞在中に[[煙草]]を一本も吸っていないのも、タバコ好きの下山にしてはおかしいとの指摘がある（実弟・下山常夫証言『資料・下山事件』573ページ）。また、下山は[[東武鉄道]]の優待乗車証を所持していたが、五反野駅の改札では駅員に[[乗車券|切符]]を渡しているなど疑問点が多数指摘され、五反野周辺で目撃された人物を下山本人とみるか[[替え玉]]と見るかで意見が錯綜した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 生体轢断か死後轢断か ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Investigation on D51-651.jpg|thumb|240px|下山総裁を轢いた機関車 D51 651 の捜査]]&lt;br /&gt;
[[file:Akiya Shichiro and Furuhata Tanemoto.JPG|thumb|140px|left|古畑種基（左）と秋谷七郎（右、毒物鑑定担当）。捜査本部にて]]&lt;br /&gt;
下山総裁は、東武伊勢崎線ガード下の国鉄[[常磐線]]下り方面（水戸方面）線路上で、付近を0時20分頃に通過した下り[[貨物列車]]第869列車（[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]] 651号牽引）により轢断されたことが判明&amp;lt;ref&amp;gt;このD51 651号は、事件当日は主[[発電機]]が動かず、灯具類は非常用[[二次電池|電池]]で発光させていたが、[[前照灯]]は 10 [[ワット|W]] 相当の光量しかなく、そのため乗員は下山総裁を轢断した瞬間にも気づかなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。遺体の[[司法解剖]]の指揮を執った[[東京大学]][[法医学]]教室主任の[[古畑種基]][[教授]]は、回収された下山総裁の遺体に認められた傷に「[[生活反応]]」が認められない事から、死後轢断と判定した（解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、遺体及び轢断現場では[[血液]]が殆ど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。加えて遺体の局部等の特定部位にのみ、内出血などの「生活反応」を有す傷が認められ、該当部分に生前かなりの力が加えられた事が予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、現場検証で遺体を検分した[[東京都]]監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、既に現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの「生活反応」を有す傷については、[[轢死]]体では頻繁に生じる事象であり、血液反応が僅かなことも、遺体発見時の現場周辺で降った[[雨]]に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に[[慶應義塾大学]]の中舘久平教授が生体轢断を主張。自殺の根拠となる「生体轢断」と見るか、他殺の有力な根拠となる「死後轢断」&amp;lt;ref&amp;gt;ただし，死後轢断は直ちに他殺を意味しない。錫谷徹『死の法医学―下山事件再考』（1983、北海道大学図書刊行会）は「生体」の「死後轢断」も起こりうるとする。&amp;lt;/ref&amp;gt;とするかで見解は対立。1949年（昭和24年）[[8月30日]]には古畑教授、中舘教授、[[小宮喬介]]（元[[名古屋医科大学]]教授）の三人の法医学者（ただし中館、小宮両教授は下山総裁の遺体を実見していない）が[[衆議院]]法務委員会に[[参考人招致]]され、[[国会 (日本)|国会]]、[[法医学]]界を巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた&amp;lt;ref&amp;gt;矢田喜美雄『謀殺下山事件』講談社1973年所収、「見解の対立は続く」92ページに掲載の古畑教授の見解の抜粋。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝日新聞記者・矢田喜美雄 ===&lt;br /&gt;
[[朝日新聞]]記者[[矢田喜美雄]]と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山総裁の[[ワイシャツ]]や[[下着]]、[[靴下]]に大量に油（通称「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;下山油&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;」）が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった（当時は物資不足で、機関車の[[油]]に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある）ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにも拘らず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況等に極めて不自然な事実のあることが次々と浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山総裁の[[監禁]]・殺害場所を特定する重要な手掛かりになる可能性もあるとして注目された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
加えて、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室 (CIL) で[[アメリカ軍]]所属のフォスター[[軍曹]]より、轢断地点付近に僅かな血痕を認めたとの情報を入手。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とする[[ルミノール]]薬を用いた検証を実施&amp;lt;ref&amp;gt;下山事件の捜査におけるルミノール薬の使用が、日本の科学捜査における初の事例となった。現在でも、時間が経過した犯罪現場などで、古いあるいは微量の血痕検出にルミノール反応は用いられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。轢断地点から上り方面（上野方面）の枕木上に、僅かな血痕を発見した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、警視庁[[鑑識課]]を加えた上で改めてルミノール検証が行なわれ、轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの、数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れたが、さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された&amp;lt;ref&amp;gt;後の調査で1946年(昭和21年)2月から1948年(昭和23年)5月まで所有者から釣り糸製造業者が借り受け、その間に薪割り中に斧で大けがをしたため血痕が付着した事が分かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 迷宮入り ===&lt;br /&gt;
他殺説・自殺説ともを結論を出さないまま、1949年（昭和24年）[[12月31日]]には「下山事件[[捜査本部|特別捜査本部]]」は解散となる。捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で[[捜査]]を続けていた警視庁捜査二課も、[[1950年]]（昭和25年）には、[[刑事|捜査員]]が突然転任されるなどして大幅に規模を縮小、事実上捜査は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1949年（昭和24年）12月15日に、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」（通称「下山白書」）は、1950年（昭和25年）1月に「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」と「[[改造 (雑誌)|改造]]」誌上に掲載された。自殺と結論付ける内容となっているが、矢田喜美雄や松本清張などは、報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]]（昭和39年）[[7月6日]]、殺人事件である場合の[[公訴時効]]が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件の時代背景と推理 ==&lt;br /&gt;
{{seealso|逆コース}}&lt;br /&gt;
1949年（昭和24年）、[[中国大陸]]では[[国共内戦]]における[[中国共産党]]軍の勝利が決定的となり、[[朝鮮半島]]でも[[38度線|北緯38度線]]を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの[[民主化]]から[[反共主義|反共]]の防波堤として位置付ける方向へ転換した。まずは高[[インフレーション|インフレ]]にあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆる[[ドッジ・ライン]]に基づく緊縮財政策を実施する。同年[[6月1日]]には行政機関職員定員法を施行し、全[[公務員]]で約28万人、同日発足した日本国有鉄道（国鉄）に対しては約10万人近い空前絶後の[[整理解雇|人員整理]]を迫った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[1月23日]]に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、[[吉田茂]]の[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]が単独過半数264議席を獲得するも、[[日本共産党]]も4議席から35議席へと躍進。共産党系の産別会議（全日本産業別労働組合会議）や[[国鉄労働組合]]もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と「人民政府」樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の[[7月4日]]には、3万700人の従業員に対して第一次整理通告（＝解雇通告）が行われた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |title = 第一次分に三万七百　國鉄、整理を通告　残余は中旬から実施 |publisher = 朝日新聞社 |page = 1 |date = 1949-07-05 |accessdate = 2014-07-07}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他殺説 ===&lt;br /&gt;
[[松本清張]]は『[[日本の黒い霧]]』を発表。当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在である[[アメリカ陸軍]][[:en:Counterintelligence Corps (United States Army)|防諜部隊]]が事件に関わったと推理した。また下山事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では連合国軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝日新聞記者の矢田喜美雄は、[[1973年]]（昭和48年）に、長年の取材の成果を『謀殺下山事件』にまとめ、取材の過程で「アメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだ」とする人物に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1999年]]（[[平成]]11年）『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載。その後、取材を共同で進めていた[[諸永裕司]]著『葬られた夏』、[[森達也]]著『下山事件（シモヤマ・ケース）』、[[柴田哲孝]]著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版。いずれも元[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍属]]が設立した組織と[[亜細亜産業]]関係者による他殺と結論付けている。また下山の友人、知人等は「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである」として他殺説を支持する者が多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 他殺説の主張 ====&lt;br /&gt;
* 下山はことあるごとに「鉄道の仕事に就けて幸せだ」と言っており、大好きな鉄道で命を断つ訳が無い。&lt;br /&gt;
* 実直な下山が、遺書も残さずに死ぬ訳が無い（国鉄の同僚の[[島秀雄]]・[[加賀山之雄|加賀山]]らの説、[[安部譲二]]（父が知己）の説）。&lt;br /&gt;
* 轢断面やその近辺の出血といった痕跡が無いのは、轢かれる前にすでに死んでいた事を意味する（東大・古畑説）。&lt;br /&gt;
* 下山が事件前に立ち寄ったとされる旅館の主人は元特高警察官であり、証言は疑わしい。&lt;br /&gt;
* 「大量解雇を予定通り実行させようと下山に強要した GHQ が、下山を拷問の末誤って殺してしまい、それを逆手に取って犯行を労組の仕業に仕立て上げた」という説。轢いた列車の前の便は連合国軍専用列車であり、現場をまたぐ東武線も連合国軍が自由に使える状況にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自殺説 ===&lt;br /&gt;
事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張（毎日新聞が自殺証言のスクープを出したため）。同紙記者[[平正一]]は取材記録を纏めた『生体れき断』[[1964年]]を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂（うつゆう）症による発作的自殺と推理した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1976年]]（昭和51年）には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は[[松川事件]]の[[被告人|被告]]として[[逮捕]]・[[起訴]]され、14年間の法廷闘争の末に[[無罪]][[判決]]を勝ち取った人物であり、下山事件も[[連合国軍最高司令官総司令部]]（GHQ）あるいは[[日本政府]]による陰謀＝他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 自殺説の主張 ====&lt;br /&gt;
* 総裁になる以前の、運輸次官の段階から下山は「辞めたい」とこぼしていた。&lt;br /&gt;
* 事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、しかしそれらの先々で用件を言うでも無く「嘆願や脅迫が自宅に来る」とこぼして涙ぐんだりするのみだった。他にも前日から当日朝（GHQ より迫られた、解雇発表の期限）までの下山の行動に、抑鬱を思わせるものが多々ある（几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、[[弁当]]を食べずに持ち歩いて交通会館の無人の部屋で一人食べるなど）。&lt;br /&gt;
* 鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血が無い事もある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器がメチャメチャに粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい（北大・錫谷説）。&lt;br /&gt;
* 結果的には、警察やマスコミによる自殺説の発表は GHQ により差し止められ、労組による他殺と言う風説が流布されて、後の総選挙での[[日本共産党|共産党]]の躍進が阻止され、日本の共産化が阻止されたのだから、事案そのものは自殺であったとしても、謀略があった事に変わりはない。&lt;br /&gt;
* [[ルミノール]]検査は現場からロープ小屋までしか行われていない。当時の列車の[[トイレ]]は垂れ流しなので、線路ならどこでも女性の経血で血痕が出来るという説もある。またロープ小屋は細長い建物で大部分は壁が無く、犯行には不適である。&lt;br /&gt;
* 下山総裁一家と親しい間柄であった吉松富弥の証言&amp;lt;ref&amp;gt;[http://shimoyamacase.com/etc/etc8.html 吉松富弥氏証言] よしなしごと - 全研究 下山事件&amp;lt;/ref&amp;gt;では、総裁死亡数日前に直接本人より「GHQから国鉄職員大量解雇の指示があって、弱ってるよ」との話を聞き、死亡当日には総裁夫人より「自殺したのだと思う」との言葉を聞いている。吉松は証言の中で、自殺とするより他殺にしておく形の方が日本国全体、GHQ、さらには下山家にとってもベターな選択だったのではないか、と述べている。&lt;br /&gt;
* 事件直前に轢死現場付近で下山と酷似する人物が1人で何か植物を掴むのが目撃されており、下山の上着のポケットから轢死現場付近の植物であるカラスムギが発見されていること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;下山国鉄総裁追憶碑&lt;br /&gt;
:事件後、下山総裁の轢断地点に近い東武伊勢崎線ガード下、国鉄常磐線下り方向の土手の脇に建立された。その後、常磐線改良工事や営団地下鉄[[東京メトロ千代田線|千代田線]]敷設に伴う工事により場所を移動。現在は轢断地点より約 150 [[メートル|m]] 東、西綾瀬1丁目付近のJR常磐線ガード下の道路西側脇にある。筆跡は第二代国鉄総裁となった加賀山之雄のもの。現在碑の置かれている場所は、五反野方面から南流する水路とそれに並行する小道が、[[東京拘置所]]（旧小菅刑務所）方向へ向かう途中で常磐線を横切る地点で、かつての弥五郎新田踏切（通称五反野踏切）に当たる。下山総裁の轢死体片は、東武伊勢崎線ガード下とこの踏切までの間に散乱していた。現在、水路は「五反野親水緑道」として整備されている。&lt;br /&gt;
[[File:Sadanori Shimoyama JNR president cenotaph.jpg|thumb|下山国鉄総裁追憶碑]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;D51 651&lt;br /&gt;
:下山総裁を轢いた[[国鉄D51形蒸気機関車|D51 651]]機関車は、[[1943年]]（昭和18年）[[10月26日]]に死者110名、負傷者107名を出した[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#常磐線土浦駅列車衝突事故|常磐線土浦駅列車衝突事故]]を起こした車両でもある。また当便の運転士は、下山が仙台機関区長だった頃の部下であり、事件後に抑鬱の症状を来たし数年後にストレス性の胃潰瘍で死亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[足立区立郷土博物館]]（東京都）所蔵　下山事件関連資料&lt;br /&gt;
:警視庁の合同捜査会議の内部資料と考えられるガリ版刷り文書類。 [[柴田哲孝]]著『完全版　下山事件-最後の証言-』にも紹介されている。 平成17（2005）年度より整理資料を公開している（原資料保護のため複写版）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
=== 書籍 ===&lt;br /&gt;
* 『下山総裁の追憶』下山総裁記念事業会編 1951年&lt;br /&gt;
* 『下山事件の謎を解く』[[堂場肇]]著 [[六興出版社]]1952年（初出：雑誌『時事新報』1952年6〜9月号）&lt;br /&gt;
* 「下山事件−その盲点と背景」（雑誌『日本』1959年7月号）&lt;br /&gt;
* 「下山総裁自殺説の証人」（雑誌『文藝春秋』1963年6月号）&lt;br /&gt;
* 『下山総裁怪死事件　“迷宮入り”を科学推理する』[[宮城音弥]]・宮城二三子著 [[光文社]] 1963年&lt;br /&gt;
* 『[[日本の黒い霧]]』[[松本清張]]著 [[文春文庫]]&lt;br /&gt;
* 『謀殺 下山事件』[[矢田喜美雄]]著 [[講談社]] 1973年&lt;br /&gt;
** 『謀殺 下山事件』矢田喜美雄著 [[新風舎]]文庫 2004年&lt;br /&gt;
*** 『謀殺 下山事件』矢田喜美雄著 [[祥伝社]]文庫 2009年 [[ISBN4-396-33505-9]]&lt;br /&gt;
* 『下山事件全研究』佐藤一著 時事通信社 1976年&lt;br /&gt;
* 『[[刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史]]』[[新潮文庫]] - [[警視庁]][[捜査一課]]に所属していた[[平塚八兵衛]]が取り扱った事件についてのインタビューを書籍化。&lt;br /&gt;
* 『下山事件（シモヤマ・ケース）』[[森達也]]著 [[新潮文庫]] 2006年&lt;br /&gt;
* 『下山事件 最後の証言（完全版）』[[柴田哲孝]]著、[[祥伝社文庫]] 2007年 [[ISBN4-396-33366-8]]&lt;br /&gt;
* 『陸軍中野学校の真実　諜報員たちの戦後』斎藤充功著、[[角川書店]] 2005年 （角川文庫、2008年）&lt;br /&gt;
* 『「下山事件」謀略論の歴史』佐藤一著 彩流社 2009年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映像メディア ===&lt;br /&gt;
*『[[黒い潮]]』（1954年、[[日活]]） 監督・主演：[[山村聡]]、脚本：[[菊島隆三]]、原作：[[井上靖]]&lt;br /&gt;
* 以下は、矢田喜美雄原作のルポルタージュ『謀殺 下山事件』講談社刊をモチーフにした映像作品。&lt;br /&gt;
** 『[[日本の熱い日々 謀殺・下山事件]]』（1981年、[[松竹]]）　監督：[[熊井啓]]、脚本：[[菊島隆三]]、主演：[[仲代達矢]]&lt;br /&gt;
** 『土曜ドラマ戦後史実録シリーズ　空白の900分 -国鉄総裁怪死事件-（前・後編）』（1980年、NHK）　脚本：[[岩間芳樹]]、主演：[[小林桂樹]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* 『[[ゴルゴ13]]』[[さいとうたかを]] - 「亜細亜の遺産」にて同事件が登場。&lt;br /&gt;
* 『[[奇子]]』[[手塚治虫]]&lt;br /&gt;
* 『[[アリと巨人]]』手塚治虫&lt;br /&gt;
* 『[[BILLY BAT]]』[[浦沢直樹]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[綾瀬 (足立区)]] - 轢断事件の現場地域&lt;br /&gt;
* [[プロ野球再編問題 (1949年)#既存球団の思惑]] - 「3.1 読売と毎日」の項を参照&lt;br /&gt;
* [[東京ヤクルトスワローズ#キーワード]] - 「13.1 下山事件とプロ野球参入 」の項を参照&lt;br /&gt;
* [[キャノン機関]]&lt;br /&gt;
* [[亜細亜産業]]&lt;br /&gt;
* [[犯罪報道]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄三大ミステリー事件]]&lt;br /&gt;
* [[レッドパージ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-gezanjiken.html 足立区　下山事件関係資料]（[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/index.html 東京都足立区立郷土博物館]）&lt;br /&gt;
* [http://doraku.asahi.com/earth/showa/090519.html 戦後最大の謎 下山事件]（[http://doraku.asahi.com/index.html 朝日新聞どらく]）&lt;br /&gt;
* [http://showa.mainichi.jp/news/1949/07/post-fe83.html 昭和のニュース 下山事件]（[http://mainichi.jp/ 毎日jp]）&lt;br /&gt;
* [http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a061013.htm 下山事件捜査記録等の公表に関する質問主意書] - 衆議院&lt;br /&gt;
* [http://hozonsharyou.web.fc2.com/Monument/K13Tokyo/NishiAyase.html 下山国鉄総裁追憶碑]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{冷戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{Rail-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しもやましけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の鉄道史]]&lt;br /&gt;
[[Category:占領下の犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:未解決事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:陰謀論]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本国有鉄道の事件・事故]]&lt;br /&gt;
[[Category:常磐線]]&lt;br /&gt;
[[Category:1949年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:足立区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦後の東京]]&lt;br /&gt;
[[Category:1949年の鉄道]]&lt;/div&gt;</summary>
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