<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
	<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E4%B8%89%E9%9F%93</id>
	<title>三韓 - 版の履歴</title>
	<link rel="self" type="application/atom+xml" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E4%B8%89%E9%9F%93"/>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E9%9F%93&amp;action=history"/>
	<updated>2026-10-02T18:59:31Z</updated>
	<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
	<generator>MediaWiki 1.44.2</generator>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E9%9F%93&amp;diff=65550&amp;oldid=prev</id>
		<title>2014年8月24日 (日) 01:22に240F:D:FC0D:1:88C6:EE0B:3371:80DBによる</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E9%9F%93&amp;diff=65550&amp;oldid=prev"/>
		<updated>2014-08-24T01:22:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{韓国の事物|&lt;br /&gt;
|title=三韓&lt;br /&gt;
|picture-type=&lt;br /&gt;
|picture=[[ファイル:Map ofThe east barbarian 1.png|300px]]&lt;br /&gt;
|hangeul=삼한&lt;br /&gt;
|hanja=三韓 &lt;br /&gt;
|hiragana=さんかん&lt;br /&gt;
|katakana=サマ&amp;lt;sub&amp;gt;ン&amp;lt;/sub&amp;gt;&amp;lt;br /&amp;gt;（サ&amp;lt;sub&amp;gt;ム&amp;lt;/sub&amp;gt;ハ&amp;lt;sub&amp;gt;ン&amp;lt;/sub&amp;gt;）&lt;br /&gt;
|alphabet-type=[[文化観光部2000年式|2000年式]]・[[マッキューン＝ライシャワー式|MR式]]&lt;br /&gt;
|alphabet=Samhan&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
{{朝鮮の歴史}}&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;三韓&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（さんかん）は、[[1世紀]]から[[5世紀]]にかけての[[朝鮮半島]]南部に存在した種族とその地域。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる[[馬韓]]・[[弁韓]]・[[辰韓]]の3つに分かれていたことから「三韓」といった。三韓の「韓」の由来については諸説がある&amp;lt;ref&amp;gt;楽浪系漢人の韓氏に由来するという説が代表的であるが他にもいくつもの説がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 起源と前史 ==&lt;br /&gt;
[[衛氏朝鮮]]や[[漢四郡]]の時代にはもっぱら「真番」と呼ばれていた(「真」の字は「貢」とする説があり、「番」の字は「蕃」または「藩」とする説がある。また「[[真番]]」の諸国（真番衆国）とよばれていたのか「[[辰国]]」とよばれていたのか、真番と並んで特に名のない「真番の傍らの諸国（真番旁衆国）」があったのか、真番と辰国が同じものだったのか別々だったのか諸説が入り乱れている)。[[建武 (漢)|建武]]20年（[[44年]]）が韓の初出とされるが、『[[魏略]]』逸文によればこの時の韓とは後の弁韓と辰韓にあたる地域のようである&amp;lt;ref&amp;gt;その『魏略』逸文に所載の説話に史実性を認める説では[[地皇]]年間（[[20年]]〜[[22年]]）の頃が辰韓と弁韓の初出となるが、この記事に出てくる辰韓、牟韓（弁韓）は後世の説話記事であり、名称を遡らせて使ったものであり、そのまま当時の言葉とは出来ない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この頃の三韓には&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;右渠帥&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（西方面の首長）なる官職の呼び名が存在し、それがいた廉斯という地は今の忠清南道の西北部にあたる&amp;lt;ref&amp;gt;余村県（今の[[瑞山市]]海美面）とする説と牙述県（今の[[牙山市]]霊仁面）とする説とがある。この事から当時の辰韓は三世紀の段階とは異なって北西方面に領域が広がっていたことがわかる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この廉斯の首長は[[光武帝]]から「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;廉斯邑君&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;」に封じられていた。この頃はただ「韓」とのみいって三韓という言葉はなかった&amp;lt;ref&amp;gt;『魏略』逸文の地皇年間云々の記事に出てくる辰韓、牟韓（弁韓）は後世の説話記事であり、名称を遡らせて使ったものであり、そのまま当時の言葉とは出来ない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬韓の初出は[[建光]]元年（[[121年]]）であり、この頃、遼東郡や玄菟郡にしばしば攻め込んでいた高句麗軍に従う傭兵もしくは同盟軍のような存在として、穢貊とならんで登場する。このように初期の頃の馬韓は高句麗との関係が深かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属したと思われるが詳細は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 馬韓 ==&lt;br /&gt;
{{See also|馬韓}}&lt;br /&gt;
馬韓はまた「慕韓」ともかかれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三世紀の頃、馬韓は半島西部に位置し、52カ国に分かれていた。ほぼ後の[[百済]]、現在の[[京畿道]]・[[忠清北道]]・[[忠清南道]]に相当&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[京畿道]]を含まないとする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;する。辰韓や弁韓と比べると大国と小国の規模の落差がはげしく、臣憤活国・伯済国・目支国・臣雲新国・乾馬国の5国が有力だった。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。辰韓や弁韓と比べると、凶悍でなかなか魏の支配におとなしく従わず、統治のむずかしい民族であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[西晋]]になってから馬韓の諸国は頻繁に朝貢していたが[[290年]]を最後に途絶える。[[314]]年、[[帯方郡]]が滅亡すると伯済国が強大化して、[[347年]]にはじめて百済王余句が中国に朝貢した。この頃までには馬韓の北部の国々は百済の支配下に置かれていたと思われるが、馬韓南部への百済の膨張は百済が高句麗に壊滅的大敗を喫し北部を失った後に、宗主国である倭国の領域を段階的に侵略・割譲などによって蚕食する事で進んだ。慕韓の存在が最後に確認されるのは[[昇明]]2年（[[478年]]）である。最終的には所謂「[[任那四県]]の百済への割譲によって終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 辰韓 ==&lt;br /&gt;
{{See also|辰韓}}&lt;br /&gt;
辰韓という名は、斯蘆国&amp;lt;ref&amp;gt;今の慶尚北道[[慶州市]]。&amp;lt;/ref&amp;gt;を中心とする韓の諸国の意味である&amp;lt;ref&amp;gt;他にも諸説がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。「秦韓」とも書かれ、[[秦]]からの移民ともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三世紀の頃の辰韓は、馬韓の東方に位置し、12カ国に分かれていた。現在の[[慶尚北道]]・[[慶尚南道]]のうち、ほぼ[[洛東江]]より東・北の地域である。言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、中国語とも類似していた&amp;lt;ref&amp;gt;『北史』新羅伝には「其言語名物、有似中國人」という記述がある。また、『後漢書』『三国志』辰韓伝によれば、辰韓は秦の遺民の子孫であるとする。&amp;lt;/ref&amp;gt;。辰韓の12カ国は「辰王に属していて、辰韓はそれで一つの政治勢力だった。辰王は新羅が台頭するまで馬韓人や倭人などであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辰韓の諸国も[[西晋]]に朝貢していたが[[286年]]を最後に途絶える。辰韓が存在した最終の記録は[[昇明]]2年（[[478年]]）であり、4世紀にいきなり12国が統一されたというようなことではない&amp;lt;ref&amp;gt;新羅は5世紀後半から急激に近隣諸国（かつての辰韓12国）を併合し、6世紀の半ばには新羅以外の辰韓諸国は消滅した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 弁韓 ==&lt;br /&gt;
{{See also|弁韓}}&lt;br /&gt;
「卞韓」・「牟韓」ともかかれる。「弁辰」ともいう&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、弁韓だけをさして「弁辰」という場合とは別に、弁韓と辰韓をあわせて「弁辰韓」と総称する場合があるので注意が必要である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。弁韓という名は、半跛国&amp;lt;ref&amp;gt;今の慶尚北道[[高霊郡]]。「卞・牟・弁」はすべて同じ文字の誤写で半跛国の「半」。&amp;lt;/ref&amp;gt;を中心とする韓の諸国の意味である&amp;lt;ref&amp;gt;他にも諸説がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三世紀には12カ国に分かれていて「十二国また王あり」という&amp;lt;ref&amp;gt;12カ国それぞれに1人ずつ計12人の王がいたという意味なのか、辰韓12国をまとめる辰王がいたように弁韓全体の1人の王がいたという意味なのか判然とせず、解釈説も分かれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その12国の中で狗邪国・安邪国・半跛国・弥馬邪国が強国だった。大雑把にのちの[[任那]]、現在の[[慶尚北道]]・[[慶尚南道]]のうち、ほぼ洛東江より西・南の地域である。辰韓と弁韓とは居住地が混在していたとされ、[[岡田英弘]]などはも辰韓12国と弁韓12国は国々の所在地が入り混じっていたと解釈しているが、各国の比定地は洛東江を境にしてほぼ二つに分かれている&amp;lt;ref&amp;gt;それゆえ、諸国の所在地が入り混じっていたのではなく（国々が混在していたのではなく）辰韓地域と弁韓地域はきっぱり分かれていたのだが、住民が混住していた（辰韓地域にも弁韓地域にも辰韓人弁韓人が両方住んでいた）のではないかともいわれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。『三國志』弁辰伝によれば、言語は馬韓と異なり辰韓と類同していた。『[[後漢書]]』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていた&amp;lt;ref&amp;gt;『後漢書』弁辰伝、弁辰與辰韓雜居 城郭衣服皆同 言語風俗有異。普通は『三國志』のほうが『後漢書』よりも資料的価値が高いとされるので、岡田英弘は弁韓と辰韓の言語の差は同じ言語の中での方言差とする説を唱えている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辰韓や馬韓とは異なり、弁韓の名で西晋に朝貢した記録がなく、倭王武の上表文にも弁韓という言葉はでてこない&amp;lt;ref&amp;gt;弁韓はこの段階ではすでに「加羅」や「任那」に名前が変わっていたようで、その後の所謂「加羅の滅亡・任那の滅亡」が弁韓の消滅ということになる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、[[高句麗|高麗]]（高句麗）の三国を三韓と呼ぶ例&amp;lt;ref&amp;gt;『旧唐書』百済伝&amp;lt;/ref&amp;gt;があり、『[[日本書紀]]』もそれに倣っている。朝鮮半島でも[[新羅]]時代から[[李氏朝鮮|朝鮮]]時代まで三国を三韓と見て、自国を三韓と呼んだ。[[大韓帝国]]の「韓」も三国を指す&amp;lt;ref&amp;gt;『朝鮮王朝実録』高宗36卷、34年10月13日&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在のような三韓論を主張したのは[[韓百謙]]が最初であり、[[李氏朝鮮の学問#実学|実学者]]たちによって定立された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さんかん}}&lt;br /&gt;
[[Category:三韓|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:名数3|かん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:D:FC0D:1:88C6:EE0B:3371:80DB</name></author>
	</entry>
</feed>