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B-29 (航空機)
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{{Redirect|B-29|「B-29」という名前のソ連海軍の潜水艦|ヂク (潜水艦・2代)}} {{ Infobox 航空機 | 名称=B-29 スーパーフォートレス | 画像=ファイル:B-29 in flight.jpg | キャプション=アメリカ空軍所属のB-29 | 用途=[[戦略爆撃機]] | 分類= | 設計者= | 製造者=[[ボーイング]] | 運用者 more=: ** {{USA}}([[アメリカ陸軍航空軍|USAAF]]、[[アメリカ空軍|USAF]]) ** {{UK}}([[イギリス空軍]]) | 初飛行年月日=[[1942年]][[9月21日]] | 生産数=3,970機 | 生産開始年月日= | 運用開始年月日=[[1944年]][[5月8日]] | 退役年月日=[[1960年]][[6月21日]] | 運用状況= | ユニットコスト=639,188<ref name="knaack">{{cite book|author=Knaack, Marcelle Size|title=Post-World War II bombers, 1945-1973|publisher=Office of Air Force History|year=1988|id=ISBN 0-16-002260-6}}</ref>[[アメリカ合衆国ドル|USドル]] }} '''B-29'''は、[[アメリカ合衆国]]の[[ボーイング]]が設計・製造した大型[[爆撃機]]。愛称は「超空の要塞('''スーパーフォートレス'''、''Superfortress'')」 [[第二次世界大戦]]末期から[[朝鮮戦争]]期の主力[[戦略爆撃機]]。中型爆撃機構想から発展した[[B-17 (航空機)|B-17]]と異なり、最初から長距離[[戦略爆撃]]を想定して設計された。 当初は[[アメリカ陸軍|陸軍]]戦略航空軍所属であったが、[[1947年]]に[[アメリカ空軍|空軍]]の独立とともに空軍へ移管された。 == 開発 == アメリカ陸軍の航空部門は、第二次世界大戦が始まる5年前の[[1934年]]5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、長距離[[渡洋爆撃]]を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、[[1938年]]に完成した試作機(ボーイング[[XB-15 (航空機)|XB-15]])から得られた種々のデータや、新しい[[航空力学]]のデータをもとに設計製作された。 そして[[1939年]][[9月1日]]の[[ナチス・ドイツ]]軍による[[ポーランド]]侵攻が行われた同日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とされるべきとの勧告を行っている。 [[1940年]]6月27日([[ヨーロッパ]]での[[戦争]]は始まっていたが、[[真珠湾攻撃]]前なのでアメリカは参戦していなかった)XB-29が発注され、[[1942年]]9月21日に試作第一号機である[[XB-29-BO]]がエディ・アレンと彼のチームによって初飛行した。エディ・アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日のテスト飛行中エンジン火災によって機体が失われた際事故死した。なお、41-003はB-29最初の事故による喪失機である。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。 == 技術的特徴 == 同時代の爆撃機と比べて非常に進んだ設計になっている。ただし最新鋭の[[ライト R-3350]]エンジンには、後述のような問題も多かった。 === 排気タービンの採用 === [[ファイル:R3350 Turbo B29.JPG|thumb|250px|B-29に搭載しているR-3350エンジンの排気タービン部 写真の排気口は蓋で覆われている。]] [[B-17 (航空機)|B-17]]、[[B-24 (航空機)|B-24]]に続き[[過給機]]として排気[[タービン]]を装備。排気タービンは現在[[乗用車]]に使用されている[[ターボチャージャー]]と同じ原理で、排気のエネルギーを利用してエンジンに圧縮された濃厚な空気を送り込む装置。空気が希薄な高空での[[レシプロエンジン]]の性能を確保するため、各国で開発が進められていたが、大戦中に実用化したのはアメリカのみだった<ref>この他、高高度での出力を確保する手段として、アメリカとイギリスでは[[スーパーチャージャー|機械式]]の2段2速過給機が実用化されていたが、ドイツや日本では1段2速過給機を装備していた。</ref>。タービンには[[排気ガス]]と回転による高温高圧がかかるため、高度な[[合金]]・[[冶金学|冶金]]技術が要求される。 日本側は鹵獲したB-17のそれを形だけはコピーしたものの[[焼入れ]]がうまくできず(当時は高温の油で行なう方法)、タービンの[[分子]]レベルでの均一が保てずに、そこから破損した。その結果、排気タービンや2段過給機を持たない日本の迎撃機は、高空の薄い空気の中ではエンジンの出力が極端に落ちることが多かった。ただしB-29の排気タービンは軽量化優先の[[マグネシウム]]合金製のため燃えやすいという欠点があり、また強度に劣り部品寿命も短く、頻繁な交換を前提とした消耗品であった。しかしながら消耗品と割り切って設計した事により、アメリカは他国にさきがけて排気タービンを実用化できた。 B-29はひとつのエンジンをツイン・ターボにして4つのエンジンを搭載していた。ちなみにB-17はシングル・ターボでやはり4つのエンジンである。 {{-}} === 与圧室の全面採用 === [[ファイル:B29 Weapon mounted room.JPG|thumb|250px|B-29の後部爆弾庫から後部[[与圧]]室を望む。半球状の[[圧力隔壁]]を隔て、[[与圧]]室と非与圧室と分けられる。上部のドラム缶のように見える物が、操縦室と胴体後部を繋ぐ交通パイプ。乗員はこの中を這って移動した。]] 高空を飛ぶ場合、従来の[[飛行機]]では機内の気圧・気温が低下するため、対策として乗員・乗客に酸素[[マスク]]の装備、防寒着の着用が必要であった。しかしB-29は現在の[[旅客機]]のように、室内を高度1,000m位と同等の空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備しており、乗員は通常酸素マスクなしで15時間搭乗していた。前後の交通を確保するため爆弾倉の上に交通パイプが設置され、本機の特徴のひとつとなっている。 ボーイングは第二次大戦直前の1938年に登場した[[旅客機]]の[[ボーイング307]]で与圧客室を採用しており、他にも[[ロッキード コンステレーション]]などでも与圧室を採用している。また寒気に対する[[空気調和|空調]]も完備され、防寒着の着用も不要であった<ref>日本側が回収した乗員の遺体には上半身Tシャツしか着用していないものもあったほど空調は完備していた。</ref>。 {{-}} === 防御砲火の遠隔操縦 === [[遠隔操作]]により、機銃操作員が銃塔内から窓越しに見える敵迎撃機に向かって機銃を操作することはなくなり、独立した円蓋から死角なく全方位の接近機を視認することが可能となった。その結果機銃砲塔が非常にコンパクトになっている。 また敵迎撃機を照準機のレティクルの中に捉えるだけで自動的に弾道計算して発砲するという優れた[[射撃管制装置|火器管制装置]]の搭載により、それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃を誰でも行なえるようになった。この結果従来の爆撃機に搭載された防御火器と比較して命中率が驚異的に向上し、敵迎撃機はうかつに接近することもできなくなった。 後にB-29の強敵となる[[MiG-15 (航空機)|MiG-15]]戦闘機にとってもこの強力な防御火器は極めて大きな脅威であった。 == 戦歴 == === 第二次世界大戦(太平洋戦線) === [[ファイル:Olive-drab_painted_B-29_superfotress.jpg|thumb|285px|アメリカ陸軍標準の[[オリーブドラブ]]塗装を纏う運用初期のB-29。のちに一般的に知られるジュラルミン地剥き出しの無塗装へ変更された。]] B-29はその卓越した能力により147,000トンに上る爆弾を日本国内に投下した。日本の継戦能力を喪失させた要因の1つとされ、[[太平洋戦争]]における戦略爆撃機の代表である。 [[1944年]]4月に[[ヨーロッパ]]経由で[[インド]]に集結、1944年6月から中国内陸部の[[成都]]基地より[[九州]]、[[満州国]]、[[東南アジア]]方面に爆撃を行なったが、B-29が膨大な燃料を必要とするゆえに[[成都]]への燃料輸送に必要とした労力もまた膨大であり効率的なものではなかった。本格的な対日戦参戦は1944年11月からで、同月1日にトウキョウローズ<ref>機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属。正確にはB-29ではなく派生形のF-13である。この型には他に第二回東京偵察行を行い、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)などが存在し、偵察任務に使用された。</ref>が東京偵察行を行ったのが始まりである。以降は[[マリアナ諸島]]の[[サイパン島]]、[[テニアン島]]および[[グアム島]]から日本本土のほぼ全域に対する戦略爆撃を開始した。当初は爆撃対象を軍施設や軍需工場に限定して高高度からの精密照準爆撃を行なったが、当時[[ジェット気流]]の影響がアメリカには知られておらず、その影響により目標から外れることも多かった。1944年11月29日には第73航空団所属の29機が初めて東京市街地への無差別爆撃を行い、東京上空での喪失機なく<ref>ハロルド・M・ハンセン少佐の指揮する機体番号#42-65218機が帰路、海上で墜落しハンセン少佐以下搭乗員全員戦死。喪失はこの1機のみ。</ref>作戦を遂行した。 太平洋戦線へ移動する際イギリス本土に立ち寄ったB-29は[[ドイツ空軍]]偵察機に偶然発見された。高性能で迎撃が極めて困難なB-29実戦投入の事実はドイツ空軍を周章狼狽させ、革新的なジェット戦闘機である[[Ta 183 (航空機)|Ta183]]の新規開発を余儀なくされることとなった。ただしB-29は1943年8月の[[ケベック会談]]で対日戦専用とされている。[[1945年]]に入り、日本本土空襲の指揮を執っていた[[ヘイウッド・ハンセル|ヘイウッド・S・ハンセル]]准将は、[[ヘンリー・アーノルド]]陸軍航空軍総司令官にその姿勢が消極的と判断され更迭された。指揮権はヨーロッパ戦線で実績をあげた後の戦略空軍設立の立役者[[カーチス・ルメイ]]少将に引き継がれた。ルメイは「日本の継戦能力を根本から絶つ」として、爆撃対象を軍事施設だけでなく、焼夷弾を使用して民間施設にも拡大した。このことについては当初「民間人攻撃は[[国際法]]に反する」と反対の声があったが、当時は一部の民家で軍服や簡単な軍需機材の内職をしていたため、一般家屋もすべて軍需工場であるとして、低高度からの夜間無差別[[絨毯爆撃]]を開始した。総計14万から17万トン(諸説あり)の爆弾を[[東京]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[大阪]]をはじめ、日本各地の都市に対してじゅうたんをしくように投下し、主要都市を焦土化した。 一般市民8万人以上が焼死、100万人以上が被災した[[東京大空襲]]や、1万人が焼死したとされる[[大阪大空襲]]は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下[[機雷]]を散布して[[海上封鎖]]を行い、国内航路に大打撃を与えた([[飢餓作戦]])。特に[[関門海峡]]はじめ主要な[[港湾]]や[[海峡]]に多くの機雷が投下された。当初は数十機編隊で、1機あたり爆弾の搭載量も2-3トンであったが、[[1945年]]になると防御火器を撤去し5-6トンを搭載するようになり、終戦近い頃にはB-29とそれを護衛する戦闘機の集団約500機で来襲するようになった。また、[[アメリカ軍]]は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成し、B-29によって全国32の都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。 [[ファイル:Enola-gay-after-strike.gif|thumb|285px|原爆投下後のエノラ・ゲイ]] 同年8月、[[広島市]]・[[長崎市]]に、[[原子爆弾]](新型爆弾)を投下し、広島・長崎あわせて30万人以上の市民を殺戮した。広島市に原子爆弾を投下したB-29は'''[[エノラ・ゲイ]]'''、長崎市に原子爆弾を投下した機は'''[[ボックスカー]]'''と呼ばれる。広島にはウラン型の「[[リトルボーイ]]」が、長崎にはプルトニウム型の「[[ファットマン]]」が投下された(詳細は[[広島市への原子爆弾投下]]、[[長崎市への原子爆弾投下]]参照)。 アメリカではこれらの戦果により、日本の終戦を早め「[[本土決戦]]」(日本上陸戦・[[ダウンフォール作戦|オリンピック作戦]])という大きな被害が予想される戦いを避けることができたと評価している。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元され[[スミソニアン博物館]]に展示されることとなった。また、ボックスカーは[[国立アメリカ空軍博物館]]に実機が保管されている。 初期以来の精密爆撃や、末期の原子爆弾投下、および偵察飛行は、B-29本来の性能を発揮できる高高度(9,000m-10,000m)で行なわれた。この時B-29は、高空に伸びてゆく飛行機雲の先の、小さな粒であった<ref>[[早乙女勝元]]は著書で「白魚」になぞらえている</ref>。 {{-}} ==== 日本対B-29戦闘 ==== [[ファイル:Firebombing leaflet.jpg|thumb|285px|B-29がばら撒いた爆撃予告ビラの一部。B-29の写真を背景に爆撃予定都市が記載されている。]] B-29は当初、軍事工場などに対する高々度からの精密爆撃に用いられた。昼間迎撃には、単座戦闘機である[[一式戦闘機]]隼、[[零式艦上戦闘機|零戦]]、[[二式単座戦闘機|鍾馗]]、[[三式戦闘機|飛燕]]、[[四式戦闘機|疾風]]、[[五式戦闘機]]、[[雷電 (航空機)|雷電]]、[[紫電改]]などが使用された。しかし、日本の単発戦闘機は海軍の雷電や紫電改、陸軍の疾風以外、<!--過給機は記号のルであらわすんですよね。つまり高々度戦キ-87なんかのエンジンは『ハ219-ル』と言いました。雷電・紫電改・疾風には過給機は付いてません。要出典-->もともと高高度飛行向けの過給機エンジンを持たず、また大戦後期になって材料や工員の質が低下した上、高[[オクタン価]](有鉛)の航空燃料の入手も困難になっていたため、排気タービン(ツイン・ターボ)・インター・クーラーを装備しているB-29の迎撃は困難であったと言われている。1万mもの高空を巡航速度が乗った状態で飛行するB-29に対しては追いつくのも困難であり、またかろうじて一撃をかけたとしても、高度を回復できずにその後の攻撃が続かないという有様であった。このため[[震天制空隊]]や厚木基地所属の雷電による体当たり攻撃も行われた。 しかし、高度を失った場合には単座戦闘機でも対処が可能であり、複数の戦闘機による集中攻撃をかけて撃墜した事例もある。1944年12月18日に三菱重工名古屋機体工場を爆撃したレオ・E・コンウェイ中尉の指揮する機を損傷し、編隊から脱落したところを集中攻撃をかけて撃墜した陸軍飛行第55戦隊[[遠田美穂]][[少尉]]以下の例が代表格である。 これに対して主として夜間の双発戦闘機による迎撃は大きな成果を上げ、日本陸軍の[[樫出勇]][[大尉]]は、[[二式複座戦闘機]]屠龍を駆り、B-29による初来襲の空戦である[[1944年]](昭和19年)6月16日から終戦までに[[北九州地区|北九州]]に来襲したB-29を26機撃墜した。なお樫出勇大尉が所属していた「屠龍戦隊」は1944年8月20日のB-29初大挙来襲の邀撃戦において、来襲した80機のうち23機を撃墜した。これに対して屠龍戦隊の損害は3機未帰還、5機が被弾という損害であった。ただし米側の記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器によるもの1機、航空機攻撃によるもの4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突によるもの1機。日本機の撃墜17を報告している<ref>[http://paul.rutgers.edu/~mcgrew/wwii/usaf/html/Aug.44.html COMBAT CHRONOLOGY OF THE US ARMY AIR FORCES]</ref>。 1945年3月に硫黄島がアメリカ軍に占領され、護衛戦闘機[[P-51 (航空機)|P-51]]が随伴するようになると、空中戦における運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になった。それでも300機以上に達するB-29の日本本土作戦による喪失機の半数以上(硫黄島陥落前の大半)は日本軍戦闘機の通常攻撃(体当たりではない)によるもの、または攻撃を受けての損傷により飛行不能となって不時着したものであった。特に京浜地区の防衛を担う海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電と陸軍立川飛行場や調布飛行場に配備されていた鍾馗は、さしものB-29にとっても危険な存在で、爆撃後背後から襲いかかられ一度に十数機が被撃墜・不時着の憂き目に合うこともしばしばであった。 [[カーチス・ルメイ]]陸軍航空軍少将が日本本土空襲の指揮を執るようになって以降、B-29は単座戦闘機が飛べない夜間に、高度2-3千メートルから一般市街地に対するじゅうたん爆撃を行なうようになった。[[センチメートル波]]の小型機上[[レーダー]]はおろか、各機を管制する[[防空]]システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃を行うことができず、斜め20mm砲を装備した双発の[[月光 (航空機)|月光]]、[[二式複座戦闘機|屠龍]]等の[[夜間戦闘機]]が爆撃の火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態であり、[[灯火管制]]の中止を要求する飛行隊もあった。日本軍戦闘機の機上レーダーの不備と防空管制システムの不十分さに気づいたカーチス・ルメイは、東京大空襲の際には高度7,000-8,000ft(2,100-2,400メートル)の低高度から焼夷弾を投下する作戦を採った。その際B-29の後部銃座以外の防御火器を撤去し爆弾搭載量を増やした機体を運用した。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された<ref>「アメリカ陸軍機の全貌」1964年酣燈社刊・108頁</ref>。 [[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は高度1万メートルの高高度を飛行する爆撃機を迎撃可能な[[三式12cm高射砲|三式十二糎高射砲]]や[[五式十五糎高射砲]]を制式化し[[日本劇場]]や[[両国国技館]]の屋上に設置した。実際に三式12cm高射砲はB-29を10機以上撃墜するなど一定の戦果を挙げたが、生産数は三式12cm高射砲が120門、五式十五糎高射砲に至っては2門と極めて少なく、全国各地の都市に対して100-500機以上の編隊で行なわれる無差別爆撃に対してほとんど機能しなかった。日本高射砲部隊の主力装備はB-29に対しては射高不足の[[八八式7.5cm野戦高射砲|八八式七糎半野戦高射砲]]と[[九九式八糎高射砲]]であり、当時の国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。ただこの件に関して首都防衛を担当する高射第一師団にいた新井健之(のち[[タムロン]]社長)大尉は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町の大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜したものです」と発言している。戦後アメリカ軍発表の数字でも、日本上空で撃墜あるいは損傷を受けたアメリカ軍機(主としてB-29)のうち高射砲によるものは1,588機で、全体の65%を占めているという<ref>『カメラと戦争』P150。</ref>。 [[ファイル:Dinah Might at Iwo Jima.jpg|thumb|285px|硫黄島に緊急着陸したB-29(1945年5月4日撮影)]] あまりにも被弾・故障し帰還途中に喪失するB-29が多いために不時着用と護衛戦闘機の基地として[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]が選ばれ、アメリカ軍は多大な犠牲を払って日本軍からこの島を奪った。同島までたどり着けないB-29のために、東京湾近辺に[[潜水艦]]が配置されて乗員の救助にあたった。 B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知っていたとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がることになった。 ==== 機体名その他 ==== 対日戦に限定して使用されたこと、日本人への不信感などから、日本語、日本由来の機体名を持つ機体が多く存在した。不信感由来の命名についてはトウジョウズナイトメア、タナカターマイトなどの機体名が確認されている。このほかチョットマッテ、カグツチ、トウキョウローズ、ヨコハマヨーヨーなどの名前が存在した。 ==== B-29の損失 ==== 太平洋戦争でのB-29の喪失数は714機<ref>「<sup>別冊週間読売</sup>・飛行機100年の記録」読売新聞社1970年刊</ref>(延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度だった。B-29の日本本土への空襲において当初の高度精密爆撃を行なっていた頃は延べで5-6%台の損失率であったが、1945年4月からのP-51の護衛、日本軍の戦闘機搭乗員の死傷、空襲による日本の航空機生産工場の破壊、日本軍の航空燃料の枯渇により、B-29の延べ損失率は大幅に低下し1-1.5%ほどになった。 だが太平洋戦争中アメリカが生産し作戦に投入したB-29の機体数約3,900機に対する喪失数714機という、B-29の損失率は約18%であった。 戦死や行方不明となったB-29の搭乗員は合計3,041人であった。B-29搭乗員に対して「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の一般市民の捕虜に対する取り扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」との指示があった。<ref>搭乗員は不時着し日本人と遭遇した際に備え、日本円や土産用のアメリカ製腕時計なども携帯していた。</ref>実際、軍事目標のみを爆撃した精密爆撃の搭乗員は正式な捕虜として捕虜収容所に送られた。しかし1945年3月10日以後、非戦闘員への無差別爆撃が開始されると事情は変わる。彼ら無差別爆撃を実施したB-29搭乗員に対して、爆撃を被った一般市民の理性を期待することはほとんど不可能で、[[私刑]]の上虐殺される危険があった。このため[[憲兵隊]]や[[警察]]は第一に捕獲兵の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。老人や女子供ら都市民に対する無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員の捕虜は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、犯罪者とされて[[略式裁判]]にかけられ[[戦時重要犯]]として処刑された。太平洋戦争敗戦後、東海軍司令官の[[岡田資]](たすく)中将は1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員の捕虜38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として横浜の連合軍裁判所で絞首刑の判決を受け翌1949年9月17日に処刑された。丹沢山や青梅の山中には墜落し死亡したB-29搭乗員の慰霊碑がある。日本軍は撃墜ないし墜落したB-29を分別しジュラルミンを再利用した。 1945年5月、福岡県太刀洗飛行場を爆撃するために飛来したB-29が海軍三四三空戦闘407飛行隊紫電改による空中特攻によって撃墜され、搭乗員11人中の7人が捕虜となった。そのB-29搭乗員の捕虜のうち6人は死刑とされ、同年5月17日から6月2日にかけて九州帝国大学(現在の[[九州大学]])[[医学部]]において、彼らに対し生体[[解剖]]実験が行われた。これを[[九州大学生体解剖事件|九州大学生体解剖事件(相川事件)]]と呼ぶ。 なお撃墜されたり墜落して日本軍の捕虜となった米軍搭乗員は、広島や長崎など主要都市に置かれた収容所や陸軍刑務所に収容された。広島と長崎ではB-29による原子爆弾投下の時、収容されていた米軍搭乗員の捕虜からも被爆して死亡した者が出ている。他の都市でも空襲の時、収容されていた多くの米軍搭乗員の捕虜が焼死した。 === 第二次世界大戦後 === [[冷戦]]構造が顕在化した[[1948年]]の[[ベルリン封鎖]]の折には、[[ソビエト連邦]]の[[西ベルリン]]への包囲網に対抗して[[西側諸国]]が空輸作戦を展開し、B-29もその作戦に参加した。当時、[[イギリス]]本土に展開したB-29には原子爆弾が搭載されていると騒がれ、[[ソビエト連邦軍]]には脅威に映った。しかし実際にはB-29には原子爆弾は搭載されておらず、西ベルリンを包囲するソ連軍に対する威嚇と牽制が目的であった。 ==== 朝鮮戦争 ==== [[ファイル:B-29s 98th BG(M) attacking target in Korea 1951.jpg|thumb|250px|朝鮮戦争時のB-29(1951年撮影)]] [[1950年]]6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエト連邦の支援を受けつつも[[朝鮮人民軍|北朝鮮軍]](共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍を主とした[[国連軍]]は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の[[制空権]]を有し、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。 洛東江(ナクトンガン)戦線で、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中だった北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下し絨毯(じゅうたん)爆撃を加えた。平壌(ピョンヤン)に対しても昼夜にかけて爆撃を加えた。1994年に死去した金日成(キム・イルソン)主席は生前、「米軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた<ref>韓国中央日報日本語版2013年03月24日</ref>。 しかし1950年10月19日に中国人民義勇軍が参戦すると、同軍に所属するソ連製[[MiG-15 (航空機)|MiG-15]]が戦闘空域に進出し、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/hに達し、また装備している37mm機関砲の打撃力によってB-29の損失が増大した。MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭にはアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕するものであった。アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽[[後退翼]]を持つ高速の最新鋭機である[[F-86 (戦闘機)|F-86Aセイバー]]を投入、朝鮮半島の制空権の回復に努めた。 韓国の金浦空港などに置かれたアメリカ軍の航空基地は空戦域に近く、爆撃に参加したB-29は帰投が容易であった。B-29は、重厚な防弾装備と強力な防御火力管制を持っていた。しかし中国人民義勇軍が参戦して数か月の間に、同軍の保有するMiG-15によってB-29は24機が撃墜された。B-29の搭乗員は10人なので約240人が死傷したことになる。またMiG-15に追尾され37mm機関砲により撃破されたB-29は、韓国に置かれた航空基地に帰還できても補修が行えずに[[スクラップ]]になる機体が続出した。B-29搭乗員の死傷者は増加し、朝鮮戦争開戦わずか半年後の[[1951年]]にはB-29は昼間爆撃の任務から外された。 {{-}} ==== その後 ==== [[ファイル:B-36aarrivalcarswell1948.jpg|thumb|250px|B-29(左)と後継機B-36(右)]] B-29の後継機は、改良型の[[B-50 (航空機)|B-50]]および[[B-36 (航空機)|B-36]]だが、上述のジェット戦闘機による撃墜が増えたことや[[B-52 (航空機)|B-52]]などのジェット爆撃機が戦略爆撃機の主力となったことなどで、朝鮮戦争後は次第に旧式機とみなされ主力から離れていった。しかし、[[1954年]]頃の対ソ連核攻撃シナリオでは、B-29も主力と見なされていた。一方、ソビエト連邦でも日本爆撃後に不時着したB-29を分析し模倣した爆撃機[[Tu-4 (航空機)|Tu-4]]を製造し、[[Il-28 (航空機)|Il-28]]や[[Tu-16 (航空機)|Tu-16]]などその後の爆撃機に引き継がれた。 1950年代に超音速機の開発の際に[[X-1 (航空機)|X-1]]などの超音速機を吊り下げて上空で切り離す役目を果たしたことが末期の活躍であり、この様子は映画[[ライトスタッフ]]に登場する。その後1960年代に入る頃には退役した。 [[1953年]]に[[テックス・アヴェリー]]により、B-29を[[擬人化]]し妻子を持たせた米国製アニメ『[[ぼくはジェット機]]』が製作され、日本でもテレビ放映された(主に[[トムとジェリー]]との併映)。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図(そして実際に現実となる)が描かれている。 == 主な派生型 == [[ファイル:Boeing Washington heavy bombers - 1951.jpg|thumb|275px|イギリス空軍のワシントン Mk.I]] [[ファイル:Boeing-Pratt & Whitney XB-44 061020-F-1234S-012.jpg|thumb|275px|XB-44]] ; [[XB-39 (航空機)|XB-39]] : アリソンV-3420-11換装型。実用化には至らず、その後はエンジンテストベッド機として使用された。 ; P2B : [[アメリカ海軍|海軍]]向け。偵察を初めとする各種機材開発用。 ; ワシントン Mk.I : イギリス空軍に貸与したB-29。88機。 ; F-13/FB-29/RB-29 : 写真偵察型。 ; [[KB-29 (航空機)|KB-29]] : [[空中給油機]]型。 ; XB-44/B-29D/[[B-50 (航空機)|B-50]] : P&W R-4360エンジン搭載。エンジンテストベッド機のXB-44の性能は良好で、生産型B-29Dとして200機が発注されたものの対日戦の終結により60機に縮小され、更には一旦全機がキャンセルされてしまうが、後にB-50として復活。 ; [[KB-50 (航空機)|KB-50]] : P&W R-4360エンジン搭載。B-50の空中給油機型。 ; [[C-97 (航空機)|C-97]] : P&W R-4360エンジン搭載。主翼・尾翼・エンジン類を流用して胴体を太い2階建てにした輸送機。 ; [[KC-97 (航空機)|KC-97]] : P&W R-4360エンジン搭載。C-97の空中給油機型。[[KC-135 (航空機)|KC-135]]が実用化されるまで使用された。 ; [[ボーイング377]] : P&W R-4360エンジン搭載。C-97の旅客機型。「空飛ぶホテル」の異名を持つ。 == スペック (B-29A-BN) == [[ファイル:444bg-677bs-42-63411-dutchess.jpg|thumb|250px|]] * 全幅:43.1 m * 全長:30.2 m * 全高:8.5 m * 翼面積:151 m² * 自重:32.4 t * 全備重量:62.0 t * 最大離陸重量:64.0 t * エンジン:[[カーチス・ライト|ライト]] [[ライト R-3350|R-3350]]-23 エンジン 2,200馬力 4基 * 最大速度:576 km/h * 巡航速度:350 km/h * 航続距離:6,600 km(爆弾7,250 kg搭載時) * 実用上昇限度:9,720 m * 上昇時間:6,100 m/38min * 最大爆弾搭載量:9 t * 武装:[[ブローニングM2重機関銃|12.7 mm AN/M2機銃]] 12門、[[イスパノ・スイザ HS.404|20 mm 機関砲]] 1門 * 乗員:10名 <small>出典:航空情報編集部編『第2次大戦アメリカ陸軍機の全貌』110頁・酣燈社1964年刊</small> == Tu-4 == {{Main|Tu-4 (航空機)}} [[ファイル:TU-4-MONIN0.jpg|right|thumb|250px|Tu-4]] [[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は再三再四にわたりアメリカに長距離戦略爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが[[戦略爆撃機]]を持つということに難色を示していた。 そんな折、1944年7月29日の「トランプランプ」、8月の「ケイトポーマット」、及び11月の「[[ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル]]」、「ディングハウ」の4機のB-29が日本及び[[満州]]を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命によりモスクワで[[リバースエンジニアリング|解体調査]]された。トランプランプは飛行試験に供された。そして[[アンドレーイ・トゥーポレフ|アンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフ]]らにより解体した部品に基づく設計が行われて[[1946年]]夏に完成したのがツポレフTu-4([[北大西洋条約機構|NATO]]コードネーム:ブル)である。 その後[[1947年]][[8月3日]]に[[モスクワ]]で行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、[[1949年]]半ばには[[ソ連戦略爆撃軍]]で本格的に運用された。1950年代の終わりまでに約1,200機が製造され、そのいくつかは[[中華人民共和国]]の[[中国人民解放軍|人民解放軍]]に引き渡された。 一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや[[地対空ミサイル]]などの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。 == その他 == * [[香淳皇后]]は、ポツダム宣言を受託した[[1945年]][[8月15日]]から数日後、疎開先の皇太子([[今上天皇]])に手紙を送っている。その中には「毎日B29や艦上[[爆撃機]]、[[戦闘機]]などが縦横無尽に大きな音を立てて朝から晩まで飛び周っています。この手紙を書きながら、頭を上げて外を見るだけで、何機大きいのが通ったのかわかりません。B29は残念ながら立派です」と書き記している。 * アメリカにおいてはその搭乗員と共に英雄的存在であり、搭乗員が亡くなった際に「父は父のB-29でクルーと一緒に天国へ飛んで行っただろう」との言葉を残した遺族も知られている。 * 陸軍航空隊が作成したマニュアル類は全て公開されており、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。 *[[グリーンランド]]には[[1947年]]に不時着したB-29[[キーバード]]が20世紀末まで存在していた。[[1994年]]、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している<ref>『幻の大戦機を探せ』 (カール・ホフマン、文春文庫刊)</ref>。 == 登場作品 == === 映画 === * [[グラマ島の誘惑]]([[川島雄三]]監督、[[東京映画]]製作、[[東宝]]配給、[[1959年]]) - [[アナタハン島事件]]を戯画化した作品。墜落したB-29の残骸が登場する。これは本物のB-29のスクラップであり、同作品の予算でグアム島から購入してきた物だという<ref>『川島雄三 サヨナラだけが人生だ』 ([[藤本義一]]、[[河出書房新社]]、ISBN 4-309-26453-0)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *小倉磐夫著『カメラと戦争』朝日新聞社 == 関連項目 == * [[戦略爆撃機]] * [[日本本土空襲]] * [[八幡空襲]] * [[広島市への原子爆弾投下]] * [[長崎市への原子爆弾投下]] * [[シルバープレート]] * [[キーバード]] * [[Me 264 (航空機)]] * [[ぼくはジェット機]] * [[B-17]] * [[XB-29-BO]] == 外部リンク == {{commons|B-29 Superfortress}} * [http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.b29/b29.html B-29の追憶] * {{PDFlink|[http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930093279_1993093279.pdf NASA(正式には前身のNACA)によるB29のリポート]}}英文 {{B-29}} {{アメリカ空軍の爆撃機}} {{Boeing model numbers}} {{Link FA|it}} {{デフォルトソート:B029}} [[Category:アメリカ合衆国の爆撃機]] [[Category:戦略爆撃]] [[Category:ボーイング製軍用機]]
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