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8月宗派事件
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{{北朝鮮の事物 |title=8月宗派事件 |picture= |caption= |hangeul = 팔월 종파 사건 |hanja = 八月宗派事件 |katakana = パルォルチョンパサコン |hiragana = はちがつしゅうはじけん |alphabet-type = [[マッキューン=ライシャワー式|MR式]]:<br />[[文化観光部2000年式|2000年式]] |alphabet = P'alwŏl chongp'a sakŏn<br />Palwol jongpa sageon }} '''8月宗派事件'''(はちがつしゅうはじけん)とは、[[朝鮮民主主義人民共和国]]において[[1956年]][[6月]]から[[8月]]にかけて起こった政変。事件の経緯については明らかでない点が多い。'''反宗派闘争'''(はんしゅうはとうそう)とも呼称する。なお、朝鮮語の「[[宗派]](チョンパ)」は日本語の「[[分派]]」を指す。 == 事件の経緯 == 1956年[[2月]]、ソ連にて[[ニキータ・フルシチョフ]]は[[ソ連共産党]]第20回党大会において[[スターリン批判]]と呼ばれる秘密報告を行い、[[ヨシフ・スターリン]]期における様々な陰謀を曝露することでスターリン期の様々な政策を、個人崇拝批判というかたちで批判した。このことは、ソ連の衛星国すべてに大きな影響を与えた。 朝鮮民主主義人民共和国でも同年[[4月]]に開かれた[[朝鮮労働党]]第3回大会においてソ連から参加した[[レオニード・ブレジネフ]]は朝鮮民主主義人民共和国にフルシチョフの路線に協力することを求めた。 同年[[6月]]、[[金日成]]はソ連・東ドイツ・ルーマニア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロバキア・ブルガリア・アルバニア・モンゴルを歴訪し、経済援助を得ようとしたが思うほどの経済援助を得ることはできなかった。この間に国内では先述したスターリン批判を受け、[[延安派]]と[[ソ連派 (朝鮮)|ソ連派]]が金日成の独裁体制を修正するためにクーデターを計画したと言われている。一部には武装蜂起の準備もあったと唱える者もいるが、情報源など確証が得られない。いずれにせよ、後の動きと収束から、延安派の[[徐輝]](朝鮮職業総同盟委員長)・[[尹公欽]](商業相)・[[崔昌益]]<ref name="朝鮮日報 2009/03/08">[http://s03.megalodon.jp/2009-0308-1905-19/www.chosunonline.com/news/20090308000003 「北朝鮮現代史の理解のため、粛清された人物の研究を」] 朝鮮日報 2009/03/08 閲覧</ref>(副首相兼財務相)、ソ連派の[[朴昌玉]](副首相)、[[金承化]](建設相)、[[朴義ワン]](副首相兼国家建設委員長)などが中心的人物だったことがわかる。 金日成は、政変が起こることを察知し直ちに帰国した。金日成が察知したルートについてはいくつかの説がある。クーデター首謀者らが金日成が留守の間の首相代理である[[崔庸健]]([[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]])に協力を要請したところ、崔庸健が計画の存在を金日成に通知した、クーデター首謀者らがソ連大使館に協力を要請したところ、ソ連大使館から崔庸健を経由して金日成に伝わった、などの説がある。 金日成帰国後の[[8月30日]]から[[8月31日]]にかけて、朝鮮労働党中央委員会全体会議が開かれ、ここで延安派やソ連派の幹部たちは金日成の個人独裁路線や重工業優先政策を批判したが思うように支持を得られず、逆に金日成側から党指導部に対する「宗派的陰謀」「反党的陰謀」を企てた不満勢力として処分された。[[ソ連派 (朝鮮)|ソ連派]]の[[崔昌益]]、[[朴昌玉]]、[[延安派]]の[[尹公欽]]、[[徐輝]]、[[南朝鮮労働党派]]の[[李弼]]らは公職から解任され、党籍を剥奪された。 延安派で駐ソ大使の[[李相朝]]がソ連共産党中央委員会に全体会議の顛末を報告し、金日成の個人崇拝を断罪するよう求めたため、ソ連・中国が共同して異例の内政干渉を行うこととなった。翌月、ソ連の第一副首相[[アナスタス・ミコヤン]]と中国の国防部長[[彭徳懐]]が朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、再度全体会議を開催させ、8月の全体会議で党籍を剥奪されたソ連派・延安派の除名処分を撤回させた。<ref>平岩俊司『北朝鮮―変貌を続ける独裁国家』中公新書、2013年、57-59頁</ref> == その後の経過 == ソ連と中国の介入を求めたソ連大使の[[李相朝]]は、直ちに現地でソ連に亡命した。これは朝鮮民主主義人民共和国で最初の外交官の亡命事例である。 ソ連と中国による介入後も金日成は延安派とソ連派に対する粛清を続けた。国内では、粛清開始前に懐柔されていた[[金昌満]](延安派。8月宗派事件の10年後に粛清)・[[南日]](ソ連派。8月宗派事件の20年後、金日成後継者争いにおける金正日のライバル[[金平一]]後見役に就いた後、交通事故死)など少数の幹部だけが生き残ることができた。そして、この一連の政変を逆手に取り、一種の[[カウンター・クーデター]]を成功させた金日成の[[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]](国外抗日パルチザン派)と[[甲山派]](国内抗日パルチザン派。のちに延安派・ソ連派同様、粛清される)が権力をほぼ独占するようになった。 1956年12月からは金日成は[[千里馬運動]]と呼ばれる経済政策による大衆動員を推し進めた。8月宗派事件をきっかけに、内政的には金日成及び満州派への権力集中が進み、対外的にはソ連と中国の影響を排除することによって朝鮮民主主義人民共和国指導部は独自路線を進むこととなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[スターリン主義]] == 外部リンク == * 北海道のニュースサイト BNN [Brain News Network] ** ドキュメンタリー金正日 *** [http://www.bnn-s.com/news/08/05/080507122026.html 金日成に対する個人崇拝を史上初めて公然と批判した尹公欽(8月宗派事件)] *** [http://www.bnn-s.com/news/08/05/080508163634.html 粛清を繰り返して完成させた金日成の「首領独裁制」] [[Category:朝鮮民主主義人民共和国の歴史|はちかつしゆうはしけん]] [[Category:1956年|はちかつしゆうはしけん]] {{Link GA|zh}}
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