コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
黒田長政のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
黒田長政
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 黒田 長政 | 画像 = Kuroda Nagamasa.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = | 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[永禄]]11年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]([[1568年]][[12月21日]]) | 死没 = [[元和 (日本)|元和]]9年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]([[1623年]][[8月29日]]) | 改名 = 松寿丸([[幼名]])→黒田長政 | 別名 = 吉兵衛(通称) | 戒名 = 興雲院殿古心道卜大居士 | 霊名 = ダミアン | 墓所 = [[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]([[福岡市]][[博多区]])<br />[[大徳寺]]塔頭[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]([[京都市]][[北区 (京都市)|北区]])<br />[[祥雲寺 (渋谷区)|祥雲寺]]([[東京都]][[渋谷区]])<br />和歌山県高野山奥の院 | 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[従四位|従四位下]]、[[甲斐国|甲斐守]]、[[筑前国|筑前]]守、贈[[正三位]] | 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]] | 藩 = 筑前[[福岡藩]]主 | 氏族 = [[黒田氏]](※幼少時は[[小寺氏|小寺姓]]) | 父母 = 父:[[黒田孝高|黒田孝高(官兵衛・如水)]]<br />母:[[櫛橋光]](幸圓、照福院。[[櫛橋伊定]]の娘) | 兄弟 = '''長政'''、[[黒田熊之助|熊之助]] | 妻 = [[正室]]:'''[[蜂須賀正勝]]の息女[[糸姫]]'''(豊臣秀吉養女)<br />[[継室]]:'''[[栄姫]]'''(大涼院。[[保科正直]]娘・徳川家康の姪で養女) | 子 = '''[[黒田忠之|忠之]]'''、甚四郎、[[黒田長興|長興]]、[[黒田高政|高政]]、菊子([[井上庸名]]室)、徳([[榊原忠次]]正室)、亀子([[池田輝興]]正室)<ref>子女名は『黒田家譜』による</ref>。 | 特記事項 = }} '''黒田 長政'''(くろだ ながまさ)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]初代藩主。 戦国武将、軍師[[黒田孝高]](官兵衛・如水)の長男。[[九州征伐]]の功績で[[豊前]][[中津市|中津]]の大名となり、[[文禄・慶長の役]]などでも活躍した。特に[[関ヶ原の戦い]]では東軍につき大きな戦功を挙げたことから、[[徳川家康]]より[[筑前]]名島に52万3,000[[石高|石]]の大封を受け、[[福岡藩]]を立藩。初代藩主になった。父の孝高と同じく[[キリシタン大名]]であったが、棄教した。 == 生涯 == === 出生 === [[永禄]]11年(1568年)12月3日、黒田孝高と正室[[櫛橋光]]の[[嫡男]]として[[播磨国|播磨]][[姫路城]]にて生まれる<ref name="楠戸418">楠戸義昭『戦国武将名言録』P418</ref>。幼名は'''松寿丸'''(しょうじゅまる)。当時、この名前は縁起の良い名前として武将の嫡子にはよくつけられた名前である。当時黒田家は御着城主[[小寺氏]]の家老として小寺姓を賜り名乗っており、小寺吉兵衛とも呼ばれる。 === 織田家の人質時代 === 小寺氏の御着城家老として仕える父、孝高は中央の[[織田信長]]に伺候し、[[織田氏]]家臣の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]](後の豊臣秀吉)に従っていたが、[[天正]]5年([[1577年]])10月15日に孝高は秀吉に対して[[起請文]]を提出し、松寿を[[人質]]として秀吉に預けている。松寿はその居城・[[近江国]][[長浜城 (近江国)|長浜城]]にて、秀吉・[[おね]]夫婦から人質ながら、我が子のように可愛がられて過ごしたという。 天正6年([[1578年]])、信長に一度降伏した武将[[荒木村重]]が反旗を翻す([[有岡城の戦い]])。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させるために[[伊丹城|伊丹城(有岡城)]]へ乗り込むも逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ父を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿丸は処刑されることになった。{{要出典|範囲=ところが、父の親友で同じく秀吉の軍師[[竹中重治]](半兵衛)が密かに[[竹中氏]]の居城・岩手山城にてこれを匿い、信長に処刑したと虚偽の報告をするという機転を効かせたため、からくも一命を助けられている。|date=2014年8月}}やがて有岡城の陥落後、救出されて疑念の晴れた父とともに姫路へ帰郷できた。 === 羽柴(豊臣)家臣時代 === 天正10年(1582年)6月、[[本能寺の変]]で信長が自刃すると、父と共に秀吉に仕える。秀吉の[[高松城 (備中国)|備中高松城]]攻めに従い、初陣の冠山城の戦いなど[[中国地方]]の[[毛利氏]]方と戦った([[備中高松城の戦い]])。 天正11年([[1583年]])の[[賤ヶ岳の戦い]]でも功を挙げて、初めて[[河内国]]に450石の領を与えられる。天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]では[[大坂城]]の留守居を務め、[[雑賀衆]]、[[根来衆]]、[[菅達長|長宗我部水軍]]と戦った。その功績により、加増2千石を与えられる。 天正15年([[1587年]])の九州征伐では、長政自身は[[日向国|日向]][[高鍋城|財部城]]攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて[[豊前国]]中津に12万5,000石を与えられた。しかし豊前の国人勢力は従わずに一揆を起こし、伊予国への転封を拒否した[[城井鎮房]]は城井谷城で挙兵した。長政は城井谷を攻撃したが、地の利のある鎮房のゲリラ作戦により惨敗した。そこで黒田父子は付け城を築いて兵站を断つ持久戦をとり、他の国人勢力を攻め下していった。12月下旬、鎮房との間で鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質とする事を条件に、和議が結ばれた。天正16年([[1588年]])4月20日、長政は鎮房を中津城に招いたが、家臣団は城下の合元寺に留め置かれた。わずかな共の者と中津城に入った鎮房は、長政によって酒宴の席で謀殺された。そして大量の黒田勢が合元寺に差し向けられ、斬り合いの末城井の家臣団は全員が討ち取られた。さらに黒田勢は城井谷城に攻め寄せて陥落させ、鎮房の父・[[城井長房|長房]]を殺害した。また、鎮房の嫡男・[[城井朝房]]は、黒田孝高に同行して一揆鎮圧のため出陣していた肥後国で孝高に暗殺された。こうして城井氏の勢力の殲滅に成功した長政は、4月22日、捕らえていた鶴姫を13人の侍女と共に、山国川の畔、広津の千本松河原で磔にして処刑した。 天正17年([[1589年]])、父が[[隠居]]したために[[家督]]相続を許され、同時に[[従五位|従五位下]]、甲斐守に叙任した。 [[文禄]]元年([[1592年]])から行なわれた秀吉の[[李氏朝鮮|朝鮮]]出兵である[[文禄・慶長の役]]では渡海している。長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の[[小西行長]]や二番隊の[[加藤清正]]らとは別の進路を取る先鋒となった。[[釜山]]上陸後は金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山を進撃して5月7日に[[ソウル特別市|漢城]]へ到達した。5月初旬の漢城会議で[[黄海道]]を任された三番隊は、[[平安道]]担当の一番隊と共に[[李氏朝鮮|朝鮮]]王の[[宣祖]]を追って開城を攻略した。6月15日の[[大同江の戦い]]では朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破った。翌16日敗退した朝鮮軍が放棄した[[平壌城]]を占領した。6月下旬には黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。8月初旬の漢城会議で[[明]]の援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固め、[[李廷馣]]の守る延安城を攻撃を行ったが落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守った。同じく三番隊の[[大友義統|大友吉統]]は鳳山城・黄州城を拠点とした。文禄2年(1593年)正月に中央から派遣された[[李如松]]率いる明の大軍が小西行長らの守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。漢城に集中した日本軍は[[碧蹄館の戦い]]で南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は[[幸州山城の戦い]]にも出陣した。 和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して[[朝鮮半島]]南部へ布陣を行った。6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次[[晋州城攻防戦]])、長政配下の[[後藤基次]]が先陣争いで活躍した。その後の南部布陣期の長政は機張城を守備する。 [[慶長]]元年(1596年)9月に日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。慶長2年(1597年)7月に[[元均]]率いる朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により[[漆川梁海戦]]で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は8月より主に[[全羅道]]から[[忠清道]]へ攻勢を掛けた。長政は再度5千人の軍役を課せられ右軍に属して黄石山城を攻略し([[黄石山城の戦い]])、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。長政は加藤清正や[[毛利秀元]]らと右軍を形成して忠清道の天安へ進出した。日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の[[楊鎬]]が抗戦を決意し、派遣された明将の[[解生]]の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦([[稷山の戦い]])となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯した。『黒田家譜』によると駐屯中の長政に対して、解生は白鷹を贈るなどして和議を求めたとされる。長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡した<ref>兵至稷山,都城人,皆奔散。『懲毖録』</ref>。その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州、慶山、密陽を経て[[梁山倭城]]を築城して守備についた。 占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理楊鎬・提督[[麻貴]]率いる明軍が完成間近の[[蔚山倭城]]へ攻勢をかけ(第一次[[蔚山城の戦い]])、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最東方)、[[順天倭城]](最西方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は[[亀浦倭城]]へ移陣した。慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退した。 このように朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である[[石田三成]]や小西行長らと対立した。 === 関ヶ原 === [[File:Site of Kuroda Nagamasa and Takenaka Shigekado's Positions.jpg|thumb| 関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]] [[慶長]]3年([[1598年]])8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との対立路線から[[五大老]]の[[徳川家康]]に接近し、先に結婚していた[[蜂須賀正勝]]の娘・[[糸姫]]と離別し、家康の養女・[[栄姫]]([[保科正直]]の娘)を新たに正室に迎えた。 慶長4年([[1599年]])閏3月に[[前田利家]]が死去すると、[[福島正則]]や加藤清正ら武断派(いわゆる[[七将]])と共に石田三成を襲撃した。 慶長5年([[1600年]])に家康が会津の[[上杉景勝]]討伐([[会津征伐]])の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田隊の活躍は凄まじく、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、東軍をしばしば敗走させた石田三成の家老・[[島清興]]を戦闘不能に追い込み、{{要出典|範囲=進軍を迷っていた[[小早川秀秋]]を一喝して突撃させ|date=2014年7月}}、西軍敗走の端緒を作り出している。さらに長政は父、如水譲りの調略においても西軍の小早川秀秋や[[吉川広家]]など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から関ヶ原一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、[[筑前国|筑前]]名島(後の[[福岡藩]])に表高だけでも52万3,000石、{{要出典|範囲=実高では100万石|date=2014年7月}}とされる大封を与えられた。 尚、この関ヶ原の戦いには、{{要出典|範囲=かつて処刑されるところであった長政自身を助けた恩人、|date=2014年8月}}[[竹中重治]]の子である[[竹中重門]]とともに[[烽火場]]の陣(岡山烽火場、または丸山烽火場)を敷いている(画像を参照)。 === 江戸時代 === 慶長6年([[1601年]])国替えにより、[[豊前国|豊前]]より筑前に入府。 当初入城した[[名島城]]は手狭で簡素な城であったこと、太守としては不便な土地であったことから、父如水とともに新たな城を築城する。[[堺]]と並ぶ商人の街[[博多]]の川を挟んだ隣接地を選び、当初は福崎といったその地を、[[黒田氏]]ゆかりの[[備前]]の故地、福岡と名付ける。同年着工し、慶長11年([[1606年]])に[[福岡城]]は全体完成した。50近い櫓や門を備えた広大な城郭であるが、天守閣については天守台は築いたが当初から無かったとする説等、議論がある。初代[[福岡藩]]主となる。 慶長8年([[1603年]])、朝廷より[[従四位下]]、筑前守に叙任される。 慶長9年([[1604年]])、父である[[黒田孝高|黒田如水]]が京都[[伏見]]屋敷にて死去。如水は[[キリシタン]]であった為、葬儀は[[天主教]]式及び[[仏式]]で行われ、仏式では京都大徳寺他にて大々的に取り行う。 慶長11年([[1606年]])、亡父、如水の御霊を弔う為に、京都の[[臨済宗]][[大徳寺]]山内に塔頭、[[龍光院]]を建立、開基。 [[曜変天目茶碗]]など数多くの[[国宝]]を有するこの寺院は、当初規模も大きく現在の3倍以上の広さがあり、現在の大阪天満にあった黒田家屋敷の書院、茶室等を移築。大徳寺山内最大規模の塔頭であったが明治の廃仏毀釈の際に破却される。 慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣|大坂冬の陣]]では[[江戸城]]の留守居役を務め、代理として嫡男の[[黒田忠之]]を出陣させる。慶長20年([[1615年]])の[[大坂の陣|大坂夏の陣]]では[[江戸幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川秀忠]]に属して盟友の[[加藤嘉明]]とともに陣を張り、豊臣方と戦った。また、後世に当時一流の絵師集団に命じて自らも参陣した[[大坂夏の陣]]図[[屏風]]『黒田屏風』を描かせたが、その絵の中には徳川軍の[[乱妨取り]]も詳細に描かれており、何故徳川方の長政が、味方の残酷極まりない有り様をこの大作に描かせたのか現在も論争が絶えない。戦国のゲルニカとも呼ばれ、[[大阪城天守閣]]の至宝である。 [[元和 (日本)|元和]]9年(1623年)8月4日、徳川秀忠、家光の[[上洛]]に先立って、早くに入京したが、既に病にかかっており、[[京都]]における黒田家の位牌寺、上京区[[報恩寺]]客殿寝所にて、56歳の生涯を終える。長男・[[黒田忠之|忠之]]が福岡藩主2代目として、跡を継いだ。 辞世は「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、今こそ帰れあんらくの空」。 == 人物・逸話 == [[ファイル:Japanese Crest Kuroda Fuji tomoe.svg|thumb|黒田藤巴紋]] 父・孝高ほどの軍略知略の人物ではなく、どちらかといえば武勇と忠誠心に優れた勇将であった<ref name="楠戸418"/>。ただし関ヶ原における調略に代表される様に、高い知略も持ち合わせていた。 近年、歴史学者の[[渡邊大門]]が唱えている新説によれば、父の孝高が天下取りも出来るほどの逸材だったと宣伝したのは実は長政であったという。長政の遺言書には、「自分と父は、関が原の戦いで天下を取ろうと思えば取れたが、父はほぼ九州を支配下においており、自分がいなければ徳川家は関ヶ原で勝てたかどうかわからない。徳川家に天下を取らせることが良いことだと思ったために、この程度で甘んじたのだ。家康公もそのことがよくお分かりだったので、実質的に100万石の領地を与えられ、将軍家の姫君が降嫁し、子々孫々まで罪を免除されたのだ」と大いに自己宣伝をしている。これを伝え聞いた黒田藩士の学者[[貝原益軒]]らが、『黒田家譜』において黒田孝高を持ち上げたために、黒田孝高の逸話が多く作られたとされている。なお、長政の遺言書は[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]の時に幕府に寛大な措置を求める為に用意された偽作説もある<ref>渡邉『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』角川学芸出版、2013</ref>。 豊臣秀吉の死後は[[藤堂高虎]]に匹敵するかのように、徳川家康に忠実に仕えた。[[蜂須賀正勝]]の娘・[[糸姫]]を離縁して家康の養女[[栄姫]]を娶り、さらに家康の命令の天下[[普請]]賦役を恙無くこなした。特に江戸城本丸の石垣普請等これらの功により[[外様大名]]でありながらも信頼された。 石田三成を恨んでいたとされ、その原因としてかつて父が失脚した一因に、三成との対立があったからと言われる。反面、後日談として関ヶ原の合戦後に三成への侮蔑の言葉を浴びせずに馬を降りて敵軍の将として礼節を示したのは、長政と藤堂高虎だけだったという逸話もある。この時、長政は馬から降りて自らの羽織を三成に遣わし「不幸にしてこうなってしまわれた。これを召されよ」と着ていた羽織を脱いで縄目の上から掛け、手向けの言葉を送った<ref name="楠戸164">楠戸義昭『戦国武将名言録』P164</ref>。 熟慮断行の気性であったとされ、父・如水はそれを優柔不断のように見えたのか「自分はかつて[[小早川隆景]]に、物事の決断が早すぎるので慎重にしたほうがよいと言われたが、おまえはその逆だから注意しろ」との意味の言葉をかけたとも言われる。長政はその言葉に影響され、後年「異見会」という家老と下級武士の代表を集め対等な立場で討論の上で決断する仕組みを作ったとされる。その場でもし、長政に少しでも怒るような雰囲気が見られると、他の者達は「おやおやこれは一体どういうことですか怒り給えるように見えますぞ」と申し上げる。すると長政は「いやいや、心中には少しも怒りはない」と顔色を和らげたという。 関ヶ原戦直後、家康は長政の功労に自らその手をとって賞したという。帰郷してこの事を父・如水に話すと、如水に「それはどっちの手であった」と尋ねられた。長政が「右手でございます」と答えると、如水に「その時左手は何をしていた」(即ちなぜその時左手で家康を刺さなかったか、家康とお前が刺し違えて死ねば俺がその後で天下が取れたのだと言う意味)と詰問されたという話がある<ref>ただし、この逸話は江戸時代の著者不明の古文書『古郷物語』が出所であり、現在確認できるそれ以前の史料には一切登場していない。長政が創作したいわゆる黒田官兵衛伝説の一つと考えられており、[[本郷和人]]も「如水の性格から言って考えにくい、この時の長政は唯一の黒田家の跡取りで、ここまで非情なことをする人ではない」と否定的な意見を述べている(本郷「戦国武将のLOE」週刊文春、2014年1月1日号)</ref>。 晩年には長男の万徳丸(後の黒田忠之)の器量を心配して、いくつもの[[家訓]](御定則)を与えている(御定則は後世の創作であるとも)。また、一時は忠之を廃して三男の黒田長興を後継者にすることを考えたとされる。後に忠之の時代に[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]が起こった事を考えると、この長政の心配は当たっていた事になる。 父・如水が死去すると、黒田家随一の勇将で武功も多く如水から大名並みの厚遇を与えられていた[[後藤基次]](又兵衛)を追放し、さらに[[奉公構]]という措置を取った。これは、一般には長政が基次の功績とかつて如水に寵愛された事を疎ましく思ったからとされるが、むしろ基次は長政から厚遇されており、実際には、長政が仲の悪い細川家との付き合いを家臣に禁じたにもかかわらず、基次がこの掟に従わなかったことが主原因とする見方が強い<ref>基次にはこの件以外にも長政の命令を軽視した逸話が数多く残っている。</ref>。 息子・忠之が4歳の袴着式を迎えた時、[[母里友信]]は「父君以上の功名を挙げなさい」と言ったという。それを知った長政は「父以上の功名とは何事だ。朝鮮でも度々、その後も関ヶ原の合戦と、私は武辺を示してきた。私は其方共に見限られるような武将ではない!」と激怒し、友信を殺そうとしたという。ただし、栗山利安のとっさの取り成しにより収まった。 死の床につき、[[家老]]宛に「徳川が天下を取れたのは、黒田父子の力によるもの」としたためたという。このことから関ヶ原の戦いでの東軍勝利の影の功労者として、長政はこの戦いを生涯の誇りとしたとされる<ref>[[小学館]]『戦乱の日本史』</ref><ref name="楠戸418"/><ref name="楠戸419">楠戸義昭『戦国武将名言録』P419</ref>。 [[バテレン追放令]]により、秀吉から改宗を迫られ、父の孝高が率先して[[キリスト教]]を棄教すると長政自らも改宗した。徳川政権下では迫害者に転じ、領内で[[キリシタン]]を厳しく処罰したという。 長政は常に秀吉・家康と誰かの下にあって戦場で働いたため、自分が最高司令官になって大軍の指揮を執りたいという望みがあった<ref name="楠戸418"/>。長政は筑前の太守になると、2万の兵の調練を行なった<ref name="楠戸419"/>。だが大坂の陣も結局は家康の戦であり、長政が最高司令官になる機会は遂に無かった。長政は死の直前、遺言として「死に際し残念なのは、今2万の士卒を率いる将であり、日頃よく調練し、戦いに臨めば節制厳粛にして縦横無尽、心のごとく自由ならしめんことが必然なのに、これを試みることができないことである」と述べたという<ref group="註">『黒田家譜』</ref>。 後世、大阪の陣に出陣した証として、絵師集団に戦国のゲルニカとも称される大作、[[大阪夏の陣]]図[[屏風]](黒田屏風)を作成する。徳川方として戦った長政が、何故残虐性の強い屏風を描かせたのかは今もって謎である。 == 系譜 == * 正室:[[糸姫]]([[蜂須賀正勝]]の娘、[[豊臣秀吉]]の養女) ** 長女・菊子([[井上庸名]]室 ※井上庸名(つねな)は[[井上之房]](九郎右衛門)の子) * 継室:[[栄姫]]([[保科正直]]の娘、[[徳川家康]]の養女) ** 長男・[[黒田忠之|忠之]](はじめ忠長、忠政)- 次代当主(嫡男)。 ** 次女・徳([[榊原忠次]]室) ** 三男・[[黒田長興|長興]] ** 四男・[[黒田高政#黒田高政 (東蓮寺藩藩主)|高政]] ** 三女・亀子([[池田輝興]]室) * 側室:筑紫氏 ** 次男・甚四郎政冬(早逝:当初8000石) == 子孫 == 嫡男・[[黒田忠之|忠之]]の血筋はその後、 *[[嫡流]]は、[[黒田光之|光之]]―[[黒田綱政|綱政]](兄の[[黒田綱之|綱之]]は[[廃嫡]]され[[出家]])―[[黒田宣政|宣政]](兄の[[黒田吉之|吉之]]は早世)と続いたが、宣政には子が生まれなかったため、これを以って断絶となった。 *宣政の跡を継いで福岡藩主となった[[黒田継高|継高]]は、綱政の弟・[[黒田長清|長清]]の子で長政の血を引いていたが、継高の実子である[[黒田重政|重政]]と[[黒田長経|長経]]はともに早世してしまい、[[一橋徳川家]]より[[黒田治之|治之]]を養子に迎えたため、これを以って断絶となった。 三男・[[黒田長興|長興]]の系統も、[[黒田長重|長重]]―[[黒田長軌|長軌]]と続いて断絶しており、よって'''男系子孫はいない'''。 但し、女系を介しての子孫は現代まで続いており、以下のようになる。 '''長政'''―[[黒田長興|長興]]―女子([[三奈木黒田家|三奈木]][[黒田一貫]]室)―鶴子([[野村祐春]]室)―[[黒田長貞|長貞]]―春姫([[秋月種美]]室)―[[秋月種茂]]―[[黒田長舒]]―[[黒田長韶|長韶]]―[[黒田長元|長元]]―[[黒田長徳|長徳]]---(断絶) *兄の[[黒田長義|長義]]が亡くなったことにより家督を継承した長徳も、黒田本家から[[黒田長敬]]([[黒田長知]]の子)を養子に迎えたため、これを以って途絶えることとなった。 *長舒の叔父(秋月種茂の実弟/同母弟)にあたる[[上杉治憲]](鷹山)の息子・[[上杉顕孝|顕孝]]は早世してしまったため、この家系も断絶している。 *長舒の実兄、[[秋月種徳]]の孫である[[秋月種殷]]の娘が黒田長徳に嫁いだがこの間に子はなく、前述の通り長敬を養子に迎えた。種殷の跡はその実弟の'''[[秋月種樹|種樹]]が継承し、その家系は現在まで続いている。よって、この家系が長政の子孫ということになる。''' '''長政'''―長興―女子(黒田一貫室)―鶴子(野村祐春室)―長貞―春姫(秋月種美室)―秋月種茂―[[秋月種徳|種徳]]―[[秋月種任|種任]]―[[秋月種樹|種樹]]―種繁―種苞―種久―種高([[秋月氏]]現当主) 別説として、福岡藩第10代藩主・[[黒田斉清]]が先代・[[黒田斉隆]]の実子ではなく、黒田長舒の四男とするものがある。これに従った場合、 '''長政'''―長興―女子(黒田一貫室)―鶴子(野村祐春室)―長貞―春姫(秋月種美室)―秋月種茂―黒田長舒―[[黒田斉清|斉清]]―純([[黒田長溥]]室)―理玖([[黒田長知]]室)―[[黒田長成]]---(以下略) となり、黒田長知と理玖の間に生まれた[[黒田長成|長成]]の家系も長政の血を引いていることになる(但し、こちらについては有力な確証がないため、確実なものとしては前述の[[秋月種樹]]の家系のみである)。また、前述の長敬は長成の異母弟(母は松平豊子(香台院、[[松平定和]]の娘)<!--[http://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B0%8F%EF%BC%88%E7%AD%91%E5%89%8D%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E8%97%A9%EF%BC%89#nagatomo902]-->)であるため、後者の説が正しかったとしても長政の子孫に該当することはない。 == その他 == * 特撮番組『[[ウルトラマン]]』に登場する怪獣・[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]の頭のデザインは、長政の兜を元にしている<ref>[http://news.dengeki.com/elem/000/000/180/180676/ 悪のウルトラマン・ベリアルも登場! “ウルフェス前夜祭”をレポート!!]</ref>。 == 脚注 == === 註釈 === {{Reflist|group="註"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == ;書籍 * [[本山一城]]『黒田軍団~如水・長政と二十四騎の牛角武者たち~』[[宮帯出版社]]、2008年、ISBN 9784863502871 * [[楠戸義昭]]『戦国武将名言録』[[PHP研究所]]、[[2006年]]。 * 吉永正春『戦国九州の女たち』西日本新聞社、1997年、ISBN 9784816704321 * 吉永正春『九州戦国の武将たち』海鳥社、2000年、ISBN 9784874153215 *渡邊大門『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』角川学芸出版、2013年 ;史料 * 『[[黒田家譜]]』 == 関連作品 == * 小説 ** [[滝口康彦]]『主家滅ぶべし』 [[文藝春秋]] 、1979年。 ** [[安部龍太郎]]『風の如く 水の如く』 [[集英社]] 、1996年。 * テレビドラマ ** 『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』(演:[[菅野菜保之|菅野忠彦]]、[[1981年]]、[[TBSテレビ|TBS]]) ** 『[[戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち]]』(演:大八木凱斗→[[尾崎右宗]]、[[2011年]]、[[テレビ東京]]「[[新春ワイド時代劇]]」) ** 『[[江〜姫たちの戦国〜]]』(演:[[長谷川公彦]]、[[2011年]]、[[NHK]]「[[大河ドラマ]]」) ** 『[[軍師官兵衛]]』(演:[[松坂桃李]]、[[2014年]]、NHK「大河ドラマ」) == 関連項目 == * [[黒田氏]] * [[黒田二十四騎]] * [[黒田八虎]] * [[黒田節]] * [[七将]] {{黒田氏歴代当主|第5代|1589年 - 1623年}} {{福岡藩主|初代|1600年 - 1623年}} {{DEFAULTSORT:くろた なかまさ}} [[Category:黒田氏|なかまさ]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:福岡藩主|なかまさ]] [[Category:還俗した人物]] [[Category:棄教したカトリックの人物]] [[Category:播磨国の人物]] [[Category:キリシタン]] [[Category:1568年生]] [[Category:1623年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:福岡藩主
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:要出典
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:黒田氏歴代当主
(
ソースを閲覧
)
黒田長政
に戻る。
検索
検索
黒田長政のソースを表示
話題を追加