コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
黒田孝高のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
黒田孝高
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 黒田 孝高<br />{{smaller|(黒田如水/黒田官兵衛)}} | 画像 = Yoshitaka Kuroda.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 如水居士画像(崇福寺蔵) | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期 | 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]15年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]([[1546年]][[12月22日]])<br />([[グレゴリオ暦]][[1547年]][[1月1日]]) | 死没 = [[慶長]]9年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]([[1604年]][[4月19日]]) | 改名 = 万吉([[幼名]])→小寺祐隆→小寺孝隆→黒田孝高<ref group="注釈" name="imina">「'''祐隆'''」(「祐」の字は[[赤松義祐]]より受けたものか)の名は、[[永禄]]10年([[1567年]])12月23日の「'''小寺祐隆'''下地売券」に見られ、同13年([[1570年]])3月12日の「'''小寺孝隆'''借銭請取状」では「'''孝隆'''」とあることからこの間に改名しているものとみられる。「'''小寺孝隆'''」の名は、[[天正]]11年([[1583年]]、[[賤ヶ岳の戦い]]を記録した『[[天正記]]-柴田退治記』など)の段階までに確認され、これ以降に[[黒田氏|黒田]]に改姓および曽祖父・[[黒田高政]]以前の[[通字]]である「高」の字を取って「'''黒田孝高'''」と名乗ったと思われる。</ref>、{{wrap}}如水軒(号)、{{wrap}}如水円清(法名) | 別名 = 官兵衛(通称)、{{wrap}}小官、黒官(略称)、{{wrap}}黒田の瘡頭(渾名) | 戒名 = 龍光院殿如水円清大居士 | 霊名 = シメオン | 墓所 = [[福岡市]][[博多区]]千代の[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]<br/>[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の[[大徳寺]]塔頭[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]<br />和歌山県高野山奥の院 | 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[勘解由使|勘解由次官]]、贈[[従三位]] | 主君 = [[小寺政職]] → [[織田信長]] → [[豊臣秀吉]] | 氏族 = [[小寺氏]]、[[黒田氏]](自称[[宇多源氏]]) | 父母 = 父:[[黒田職隆]]<br />母:[[明石正風]]の娘([[小寺政職]]の養女) | 兄弟 = '''孝高'''、[[黒田利高|利高]]、{{wrap}} 香山妙春([[三木清閑]]室)、{{wrap}} 虎(妙円・[[尾上武則室]])<ref group="注釈">先夫[[尾上氏]]の死後、孝高より毛利家臣との縁談を紹介されたが、断り地元の[[麻生氏]]と再婚した。</ref>、{{wrap}} [[黒田利則|利則]]、[[黒田直之|直之]]{{wrap}} 心誉春勢([[一柳直末]]室)、[[浦上清宗]]室<ref group="注釈" name="uragami">『備前軍記』によると孝高の娘とされているが、年齢的に合わず、孝高ではなく父の政職の子ではないかという説がある。なお黒田氏の系図類ではその名は一切見られず、養女と見る向きもある。</ref>? | 妻 = 正室:[[櫛橋伊定]]の娘・'''[[櫛橋光|光(幸円)]]''' | 子 = '''[[黒田長政|長政]]'''、[[黒田熊之助|熊之助]]<br />養子:''[[黒田一成|一成]]''([[加藤重徳]]の次男)、''松寿丸''([[一柳直末]]の息子、長政の幼名と同じだが別人) }} '''黒田 孝高'''(くろだ よしたか)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[キリシタン大名]]でもあった。子に[[黒田長政]]がいる。 [[諱]](実名)は初め'''祐隆'''(すけたか)、'''孝隆'''(読み同じ)、のち'''孝高'''といった<ref group="注釈" name="imina" />が、一般には[[仮名 (通称)|通称]]をとった'''黒田 官兵衛'''(くろだ かんべえ)<ref group="注釈">今日では一般的に「黒田官兵衛」といったら黒田孝高のことを指すが、他にものちに黒田家の当主となる[[黒田継高]]、[[黒田斉清]]、[[黒田長溥|黒田斉溥(長溥)]]などが「黒田官兵衛」を通称としている。</ref>、あるいは[[出家]]後の号をとった'''黒田 如水'''(くろだ じょすい)として広く知られる。[[豊臣秀吉]]の[[側近]]として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。[[竹中重治]](半兵衛)と双璧をなす秀吉の[[参謀]]と評され、後世「[[両兵衛]]」「二兵衛」と並び称された<ref>[[福本日南]]『黒田如水』、[[菊池寛]]『黒田如水』。</ref>。 孝高に関する話は、[[ルイス・フロイス]]などの宣教師、菩提寺の[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]住職[[景轍玄蘇]]といった直接面識のあった人物の記述の他、『[[川角太閤記]]』(川角三郎右衛門著、江戸時代初期)、『[[名将言行録]]』([[岡谷繁実]]著、[[1869年]])、『黒田如水伝』([[金子堅太郎]]著、[[1916年]])などによる伝聞を記述された物も多く知られる。また慶長5年10月の[[吉川広家]]に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」とある。今日の野心家・如水のイメージはここからきていると思われる。 == 生涯 == === 出身 === [[黒田氏]]は、『[[寛永諸家系図伝]]』などによれば、[[賤ヶ岳]]山麓の[[近江国]][[伊香郡]]黒田村の出身とされるが、定かではない<ref group="注釈">現在の[[滋賀県]][[長浜市]][[木之本町]]黒田で、[[近江源氏]][[佐々木氏]]([[京極氏]])の傍系であると、[[偽書]]とされることが多い『[[江源武鑑]]』、及びこれを参考とした貞享4年(1687年)に[[福岡藩]]士[[貝原益軒]]が編纂した『黒田家譜』などにも同様に記載されるが不明瞭で、『[[寛政重修諸家譜]]』などには省かれる。(参考:[http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/381-390/382/382_01.htm 福岡市博物館 - 黒田家のご先祖探し])</ref>。孝高の祖父・[[黒田重隆]]の代に[[備前国]][[邑久郡]][[福岡 (瀬戸内市)|福岡村]]から[[播磨国]]に入り<ref group="注釈">[[浦上村宗]]から逃れたとされる。</ref>、[[龍野城]]主[[赤松政秀]]<ref group="注釈">[[置塩城]]の[[守護]][[赤松晴政]]に属したとも言われる。</ref>、後に[[守護]][[赤松晴政]]重臣で[[御着城]](現在の[[姫路市]]東部)を中心に[[播磨平野|播州平野]]に勢力を持っていた[[戦国大名]]の[[小寺則職 (戦国時代)|小寺則職]]・[[小寺政職|政職]]父子に仕えた。小寺氏は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])[[姫路城]]代に任じた。重隆の子、[[黒田職隆]]には自らの養女を嫁がせ、[[小寺氏|小寺]](こでら)の名字を名乗らせた。 === 播州時代 === [[天文 (元号)|天文]]15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の[[姫路市|姫路]]に生まれる<ref name="kafu">[[貝原益軒]]『黒田家譜』</ref>。永禄2年([[1559年]])、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる<ref name="kafu"/>。永禄4年([[1561年]])、[[小寺政職]]の近習となる。そして永禄5年([[1562年]])、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る<ref name="kafu"/>。また、この年から「小寺官兵衛」を名乗っている。永禄7年([[1564年]])、[[室津]]の[[浦上清宗]]が、婚礼当日に敵対する赤松政秀<ref group="注釈">[[永禄]]元年([[1558年]])、[[浦上政宗]]らの後見を得た嫡子の[[赤松義祐]]に追放された[[赤松晴政]]を、娘婿の[[赤松政秀]]が受け入れ、晴政の復権に関わった。</ref>に攻められ、父・[[浦上政宗|政宗]]とともに討たれる事件があったが、清宗の妻を孝高の姉妹と見る向きもある<ref group="注釈" name="uragami"/><ref group="注釈">室津の八朔のひな祭りの由来は、この討たれた志織姫を悼んでのものとしている</ref>{{要出典|date=2014年5月}}。永禄10年([[1567年]])頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる[[櫛橋伊定]]の娘の[[櫛橋光|光(てる)]]を正室に迎え、姫路城代となった。 永禄11年([[1568年]])9月、放浪中の[[足利義昭]]が[[織田信長]]と[[美濃国|美濃]]で会見して上洛を要請<ref group="注釈">小寺則職(政職の父)にも要請が届いている。</ref>し、[[三好三人衆]]を退けて[[室町幕府]]15代将軍となる。翌12年([[1569年]])8月、義昭と誼を結んだ赤松政秀<ref name="注釈">娘・さこの方を[[足利義昭]]の侍女としている。『大阪城天守閣所蔵文書』</ref>が、[[池田勝正]]、[[別所安治]]、[[宇喜多直家]]らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、孝高は奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、[[三木通秋]]の援軍などもあって撃退に成功する([[青山・土器山の戦い]])<ref group="注釈">同時期の永禄12年([[1569年]])5月より、[[大友義鎮|大友宗麟]]と交戦([[多々良浜の戦い]])していた[[毛利元就]]が、背後を突かれる形で、3年前に滅ぼしていた尼子氏の残党の[[立原久綱]]、[[山中幸盛]]らに、[[出雲国|出雲]]内で[[尼子勝久]]を擁立・再起され、更にそれを[[但馬国]]の[[山名祐豊]]、[[備前国]]の浦上宗景に後援された。元就が幕府に救援を求める。信長の配下である木下秀吉([[豊臣秀吉]])が8月1日に山名攻めに差し向けられ、[[播磨国|播磨]]を経由してわずか10日間で18城を落として鎮圧した(但馬攻め)。これは、[[青山・土器山の戦い]]と並行して行われている。</ref>。政秀は[[浦上宗景]]に攻められ降伏した。この後、三人衆が一旦は勢力を立て直し、[[信長包囲網]]が引かれ、義昭と信長の関係も疎遠になり始める。 [[元亀]]4年([[1573年]])、包囲網は[[甲斐国]]の[[武田信玄]]の病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返す。4月、東播磨の[[三木城]]主・[[別所長治]](安治の子)が攻めこんでくる(印南野の戦い)。7月、内紛により三好氏の[[篠原長房]]が討死。9月、信長が[[浅井長政]]を討ち、義昭を追放。12月、浦上宗景が信長と和睦。翌2年、義昭は[[山陰地方|山陰]][[山陽地方|山陽]]に勢力を張る[[毛利輝元]]の領内の[[鞆の浦]]へ逃れる。 天正3年([[1575年]])、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に[[長篠の戦い]]で[[武田勝頼]]を破っていた織田氏への臣従を進言し、7月、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の取次により[[岐阜城]]で信長に謁見。信長から「[[日本刀一覧#太刀・打刀・小太刀|圧切長谷部]]」([[国宝]]。[[福岡市博物館]]蔵)という刀を授かる。さらに年明けには政職にも、[[斎村政広|赤松広秀]](政秀の嫡子)、[[別所長治]]らと揃って京で謁見させる<ref>『[[信長公記]]』</ref>。一方で9月には、宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。翌4年1月、丹波の[[波多野秀治]]が、[[赤井直正]]攻めの[[明智光秀]]を攻撃([[黒井城の戦い]])して信長より離反。 天正4年([[1576年]])5月、[[小早川隆景]]の水軍の将、[[乃美宗勝|浦宗勝]]を毛利と同盟する播磨の三木通秋の所領である[[英賀]]に上陸させるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍5,000の兵を退ける([[英賀合戦]])<ref name="bunsho">『黒田家文書』</ref>。この戦いの後、長男の松寿丸(後の[[黒田長政]])を人質として信長の元へ送る。 10月、信長は[[信貴山城の戦い]]で[[松永久秀]]を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である[[市川 (兵庫県)|市川]]を挟んで姫路城の南西に位置する[[飾東郡]]の妻鹿・国府山城([[甲山 (曖昧さ回避)|功山・甲山(98m)]])<ref group="注釈">別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。</ref>に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、[[参謀]]として活躍するようになる。月末には秀吉は、弟の[[豊臣秀長|羽柴秀長]]を[[生野銀山]]を管轄する[[太田垣景近]]の[[竹田城]]([[但馬国]])攻めに向かわせる(11月4日落城)。次いで秀吉本隊の[[赤松政範]]の上月城攻めに従い、[[佐用城]](福原城)攻め(11月26日落城)へは[[竹中重治]]らと共に加わり先陣を務めている([[上月城の戦い]])。上月城は、以前に浦上宗景と共に毛利氏と戦っていた[[尼子勝久]]、[[山中幸盛]]ら尼子遺臣団が城代を任される。 === 織田家臣時代 === ところが天正6年([[1578年]])3月、[[別所長治]](波多野秀治の娘婿)が殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し<ref group="注釈">孝高の妻・[[櫛橋光|光]]の実家である櫛橋氏なども離反し、東播磨で織田方に残ったのは孝高の従兄弟にあたる[[明石則実]]、当初より織田派であった[[別所重宗]]、[[斎村政広|赤松広秀]]など僅か。</ref>([[三木合戦]])、これに毛利氏が呼応する。4月、海から[[宇喜多直家]]軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、尼子遺臣団を残して[[上月城]]を放棄し、[[書写山]]まで撤退した<ref group="注釈">8月、別所氏に呼応した[[書写山]]西向かいの、[[峰相山]]・[[鶏足寺 (姫路市)]]を攻めている</ref>。 双方の調略も激しさを増し、9月に孝高は直家を調略することに成功する<ref name="kafu"/><ref group="注釈">[[宇喜多直家]]は、[[小西行長]]を使者として羽柴秀吉に帰属を申し入れている。</ref>。しかし、今度は織田家の重臣で[[摂津国]]を任されていた[[荒木村重]]が信長に対して謀反を起こし、[[有岡城]]に[[籠城]]した([[有岡城の戦い]])。さらにこの時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、10月、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に土牢に幽閉される。1年後、天正7年([[1579年]])10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、孝高は[[栗山利安]]に救出された。その後、姓を小寺から黒田に戻している。 天正8年([[1580年]])1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所長治の三木城を陥とした。孝高の主君の政職も、信長の嫡男・[[織田信忠]]によって討伐されて[[鞆の浦]]へ逃がれ、[[戦国大名]]としての小寺氏は滅んだ。織田家臣として秀吉の与力となり、[[名字]]に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている(3年後の[[賤ヶ岳の戦い]]を当時に記録した『[[天正記]]-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載があることから、それ以降とも考えられる。)<ref group="注釈">天正8年([[1580年]])7月に、秀吉が姫路城普請を命じた文書に黒官兵と記されているのが、黒田姓の初見。一方で1588年のフロイスの手紙には、「Condera Cambioyedono」とある。</ref>。秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。7月、秀吉より[[姫路城]]普請を命じられる<ref name="bunsho"/>。9月、孝高は[[揖東郡]]福井庄([[網干]]周辺)に1万石を与えられる。 天正9年([[1581年]])6月、前年に降伏した[[山名豊国]]を追放して3月に[[吉川経家]]を城主に迎え入れていた[[因幡国]]の[[鳥取城]]へ、秀吉は6月に再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わる。策略により[[若狭国]]などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して補給路を絶ち、[[兵糧攻め]]を行ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされた。 鳥取城攻めの同時期、天正8~10年の間に、毛利氏と結んだとされる[[淡路島]]の[[由良城]]主、[[安宅清康]]攻め、[[志知城]]から信長側に付いた[[阿波国]]の三好氏の支援などに、[[小西行長]]らとともに関わっている<ref name="bunsho"/>。 また天正10年([[1582年]])、毛利氏の武将・[[清水宗治]]が守る[[備中高松城]]攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる<ref name="kafu"/><ref group="注釈">『吉田大略記』によると孝高の家臣[[吉田長利]](八代道慶と乳母の子で[[黒田二十四騎]]の1人)から孝高へ提案されている。</ref>。 === 豊臣家臣時代 === 高松城攻めの最中の6月2日、京都で[[明智光秀]]による[[本能寺の変]]が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、[[毛利輝元]]と和睦して光秀を討つように献策し、[[中国大返し]]を成功させたという逸話がある。<ref name="kafu"/><ref group="注釈">大返しの前に小早川隆景より人質と共に20本の旗を借り受け、宇喜多秀家の旗10本と共に掲げた。中国の大勢力が加勢していると見せて、味方を増やし、敵を弱気にさせる策略とされる。『黒田家譜』</ref>[[山崎の戦い]]では[[天王山]]を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける[[中川清秀]]を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた<ref group="注釈">高名していた配下の[[秦桐若丸]]を、この戦いの負傷が元に失っている。</ref>。9月頃より、毛利氏に対し、宇喜多氏との国境線確定の交渉に、蜂須賀正勝とともに入る<ref group="注釈">毛利側の外交官は主に[[安国寺恵瓊]]。前年に[[宇喜多直家]]は病没し、[[宇喜多秀家]]が当主となり、養父となった秀吉に後見されている。</ref>。 天正11年([[1583年]])、[[大坂城]]の[[縄張り]]に当たる。秀吉と[[柴田勝家]]との[[賤ヶ岳の戦い]]では、[[佐久間盛政]]の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた<ref name="kafu"/><ref>[http://mainichi.jp/select/news/20130511k0000m040028000c.html 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見](毎日新聞2013年5月10日)</ref>。 天正12年([[1584年]])、[[小牧・長久手の戦い]]の当初においては、大坂城で[[留守居役]]を務めている。黒田長政らは[[岸和田城#沿革|岸和田の戦い]]で[[根来盛重]]、[[鈴木重意]]、[[長宗我部元親]]<ref group="注釈">[[香宗我部親泰]]の与力の[[菅達長]]。</ref>らの兵を破った<ref group="注釈">[[黒田孝高]]、[[黒田長政]]、[[蜂須賀正勝]]、[[前野長康]]、[[生駒親正]]、[[明石則実]]ら在番衆は、中入りの時期には、本営の備えとして召喚されている。『浅野家文書』</ref>。7月、播磨国[[宍粟郡]]([[山崎町 (兵庫県)|山崎]])[[山崎城 (播磨国)|篠の丸城]]を与えられ5万石の大名となっている<ref group="注釈">天正8年([[1580年]])5月、別所氏に呼応して滅ぼされた播磨国[[宍粟郡]]広瀬の[[長水城]]の[[宇野祐清]]の後に[[神子田正治]]が入っていたが、戦闘中の無断離脱を問われて失脚した。</ref>。 天正13年([[1585年]])の[[四国攻め]]には、[[讃岐国]]から攻め込んだ[[宇喜多秀家]]の軍勢の軍監として加わり、諸城を陥落させていった。[[植田城]]に対してはこれを囮であると見抜いて[[阿波国]]へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の[[岩倉城 (阿波国)|岩倉城]]が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。この頃に、孝高は[[高山右近]]や[[蒲生氏郷]]らの勧めによって[[キリスト教]]に入信している。<ref group="注釈">『[[フロイス日本史]]』によると、天正11年頃から[[室津]]の小西行長に影響され、[[明石城]]の[[高山右近]]や[[蒲生氏郷]]らに勧められ、天正13年に洗礼を受けし、[[三木城]]の前野長康(間も無く[[出石城]]へ移り、[[中川秀政]]が入城)と共に、播磨における布教の入り口となっていたとされる。</ref> 天正14年([[1586年]])、従五位下・[[勘解由使|勘解由次官]]に叙任された。10月、[[大友義鎮|大友宗麟]]の要請による[[九州征伐]]では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州[[豊前国|豊前]]に上陸<ref>長野鎮辰の[[馬ヶ岳城]]他、[[時枝鎮継]]の[[時枝城]]などを収容。</ref>。[[宇留津城]]、[[香春岳城]]など<ref group="注釈">>他に、[[障子岳城]]、原田信種の[[高祖城]]など。[[小倉城]]は[[小早川隆景]]が単独で落城させている。</ref>を陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の[[日向国|日向]]方面陣営の先鋒を務めて南下し、[[島津義久]]の軍勢と戦い、戦勝に貢献している([[根白坂の戦い]])。戦後は[[石田三成]]と共に[[博多]]の復興(太閤町割り)を監督している<ref group="注釈">家臣の[[久野重勝]]が担当し、博多商人の[[神屋宗湛]]と[[島井宗室]]が参画している。</ref>。 ==== 豊前国主 ==== 九州平定後の天正15年([[1587年]])7月3日、本拠地の[[馬ヶ岳城]]をはじめとする[[豊前国]]の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は[[大友吉統]]領)、およそ12万石([[太閤検地]]後17万石以上)<ref group="注釈">[[蔵入地]]は2万石程。自己申告である差出検地を認められている。</ref>を与えられた(その直後に[[中津城]]の築城を開始)。しかし、7月に[[佐々成政]]が[[肥後国]]の仕置きに失敗し、[[隈部親永]]らによる[[肥後国人一揆]]が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも[[野中鎮兼]]ら[[国人]]勢力が肥後国人に呼応、また、[[伊予国]]への転封を拒否し3万石を[[改易]]されていた[[城井鎮房]]が挙兵して以前の居城であった城井谷城を占拠するなども加わり、大規模な反乱となる<ref group="注釈">豊前国でも[[上毛郡]]の如法寺久信などによる小規模な一揆は起きていた。『金苗文書』</ref>。長政が一旦は鎮圧に失敗する(岩丸山の戦い)などしたため、黒田父子は持久戦をとり<ref group="注釈">その間、妹婿の[[尾上武則]]などが戦死している。</ref>、兵站を断ち徐々に鎮圧する<ref group="注釈">天正15年([[1587年]])12月、下毛郡の犬丸城の攻略に対し、秀吉より長政が感状を受けている。</ref>。翌16年1月頃、[[中津城]]が完成。4月、嫡男と娘を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった鎮房を、秀吉の指示もあり<ref name="bunsho"/>、長政が中津城で謀殺、郎党を攻め滅ぼす<ref name="kafu"/><ref group="注釈">城井鎮房の嫡男・[[城井朝房]]と鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質とする事で降伏を認め、和議を結んだが、孝高が朝房を伴い肥後国に出陣していた際、[[中津城]]を訪れた鎮房を、長政が酒宴の席で謀殺した。その報告を受けて、孝高は朝房を殺害した。(吉永正春『戦国九州の女たち』西日本新聞社、1997年)。朝房の妻子は[[宝珠山村]]で匿われている。</ref><ref group="注釈">『川角太閤記』では、まだ妻がいなかった長政に鎮房の17歳の息女と縁組をし、孝高が出陣中に留守居役として鎮房を誘い出して討ち果たした。孝高は「息女たちは親類のいる周防国へ送れ」と指示していたが、長政は手ぬるいとして息女と乳母を火炙りの刑、侍女たちを磔の刑にしたとする。ただし、既に長政には[[蜂須賀正勝]]の息女・糸姫を正室としている。</ref>。 天正17年([[1589年]])5月、家督を突然嫡男の長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き軍師として仕える。[[中津城]]は長政に任せ、京都伏見屋敷、大阪天満屋敷を拠点とする。 天正18年([[1590年]])の[[小田原の陣]]では[[北条氏政]]・[[北条氏直|氏直]]父子を[[小田原城]]に入って説得し、無血開城させる功績を立てた<ref name="bunsho"/。この時、北条氏直から名刀「[[福岡一文字|日光一文字]]」([[国宝]])などの家宝を与えられている<ref name="kafu"/><ref group="注釈">[[小田原の陣]]の頃に、徳川家康との親交があったとされ、家康次男の[[結城秀康]]の[[結城氏]]への養子入りに関わっている。</ref>。 [[文禄]]元年([[1592年]])、秀吉の[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、[[小西行長]]など諸将の暴走で思ったような采配を執れず、病を理由に帰国。文禄2年([[1593年]])3月15日、日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡ったが、[[石田三成]]などとの間に確執が生じて[[東莱城]]より5月21日再帰国したが、秀吉の怒りを買って追い返されている<ref>『益田孝氏所蔵文書』</ref><ref group="注釈">[[小西行長]]と[[石田三成]]・[[増田長盛]]・[[大谷吉継]]の三奉行は、明勅使を伴って、先んじて5月15日に[[名護屋城]]に戻っている。</ref> 6月、第二次[[晋州城攻防戦]]においての[[後藤基次]]らが用いた亀甲車の設計や、[[倭城|和式城郭]]の縄張りなどに携わっているが、「如水軒円清」と号して出家している<ref group="注釈">死罪を覚悟して[[黒田長政]]らに遺書を残している。</ref>。 慶長2年([[1597年]])、慶長の役では総大将・[[小早川秀秋]]の軍監として[[釜山]]に滞陣。[[蔚山城の戦い#第一次蔚山城の戦い|第一次蔚山城の戦い]]において、[[加藤清正]]の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退ける。両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。しかし、これらを[[福原長堯]]などの軍目付たちが<ref group="注釈">三成などにも親しい[[福原長堯]]・[[熊谷直盛]]・[[垣見一直]]らは、三成の妹婿などで親密。</ref>酷評して秀吉に報告し、秀秋、長政、[[蜂須賀家政]]など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった<ref>『看羊録』</ref>。一方、軍目付たちは[[豊後国]]内に加増となった。 === 関ヶ原の戦い === 慶長3年([[1598年]])8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた[[吉川広家]]宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。12月に上洛し[[伏見城|伏見]]屋敷に居住したという。 明くる慶長4年([[1599年]])1月、生前の秀吉が『大坂城中壁書』にて制限した大名間の婚姻と私的な交流に[[徳川家康]]や[[福島正則]]らが抵触すると、それを詰問した[[前田利家]]を筆頭とした、他の石田三成ら大老・奉行衆と緊張が高まる。この時に[[蜂須賀家政]]や[[藤堂高虎]]らと共に、家康方に参じる。3月、利家が病死すると、利家方であった[[加藤清正]]や[[細川忠興]]らを引き込んで、長政ら[[七将|七将が三成襲撃事件]]を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の[[佐和山城]]に退去し、長政や家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。 慶長5年([[1600年]])6月2日、[[徳川家康]]が[[会津]]の[[上杉景勝]]討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女([[保科正直]]娘・栄姫)と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[8月25日]])石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、[[関ヶ原の戦い]]が起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。 中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前以って味方として[[中津城]]の[[留守居]]を務める密約を結び、行動した。 石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[10月15日]])、再興を目指して西軍に与した[[大友義統]]が毛利輝元の支援を受けて[[豊後国|豊後]]に攻め込み、東軍の[[細川忠興]]の飛び地(本拠地は[[丹後国]]宮津)である[[杵築城]]を包囲攻撃した。城将・[[松井康之]]と[[有吉立行]]は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。 道中の諸城を攻略した後、[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]([[10月19日]])、石垣原(現在の[[別府市]])で大友義統軍と衝突した。[[母里友信]]が緒戦で大友軍の[[吉弘統幸]]に破れる等苦戦するも[[井上之房]]らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した([[石垣原の戦い]])。 [[9月19日 (旧暦)|9月19日]]([[10月25日]])、[[富来城]]の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である[[垣見一直]]からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は[[藤堂高虎]]を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した[[太田一吉]]の[[臼杵城]]([[佐賀関の戦い]])などの諸城([[熊谷直盛]]の[[安岐城]]、[[毛利高政]]の[[角牟礼城]]と[[日隈城]]、[[毛利勝信]]の[[小倉城]]、[[毛利信友]]の[[香春岳城]]など)を落としていった。 [[国東半島]]沖の[[豊後水道]]付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた[[島津義弘]]の軍船と戦い(義弘が同行していた[[立花宗茂]]と別れた後のことである)、焼き沈めている。10月14日、如水は兵5,000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した[[毛利秀包|小早川秀包]]の居城である[[久留米城]]攻めへ向かう。[[鍋島直茂]]と[[鍋島勝茂]]が32,000の兵を率いて[[久留米城]]攻めに参戦する。10月16日、柳川の支城である[[海津城]]を落とす。その後、[[宇土城]]攻めを終えた[[加藤清正]]も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は[[立花宗茂]]、[[鍋島直茂]]、[[加藤清正]]を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の[[水俣]]まで進軍したとき、徳川家康と[[島津義久]]との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。 === 晩年と葬儀 === 関ヶ原の合戦の後、徳川家康は先に嫡子、長政に勲功として[[筑前]]名島([[福岡市|福岡]])52万3,000石への加増[[転封|移封]]をした後、翌年、如水にも、これとは別に上方での領地加増が提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。福岡城にあるお鷹屋敷など。晩年は中興の祖と言われ再建に努めた[[太宰府天満宮]]内に草庵を構えている。 慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、[[京都]][[伏見区|伏見]]藩邸にて死去。59歳。辞世の句は「''おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて''」。死の間際、孝高は自分の「神の子羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと、息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること、イエズス会に2000タエス(約320石に相当)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多<ref>当時、「博多」という地名は「福岡と博多を合わせた双子都市」を指した。『キリシタン研究』第19輯、1979年、pp.116, 131, 137, 153, 168。</ref>に教会を建てるための建築資金に充てること、である<ref>「マトス回想録」(「博多のキリシタン」『キリシタン研究』第19輯、1979年、p.23)</ref>。また、家臣の[[殉死]]を禁止している。 4月のある夜、午後10半頃、博多の教会の宣教師たちは孝高の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそった。如水の弟で熱心なキリシタンであった[[黒田直之]]が十字架を掲げ、直之の息子と、[[徳永宗也]]の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200も入るほどの大きなもので、その中に着いたのち宣教師たちは儀式を行い、それから孝高を埋葬した。同じ夜、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀もおこなっている<ref>「マトス回想録」(「博多のキリシタン」『キリシタン研究』第19輯、1979年、pp.23-24)</ref>。 孝高の死から2年後、孝高の追悼記念聖堂が完成し、慶長11年3月21日(1606年4月28日)からその翌日にかけて宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは聖堂の献堂式に始まり、2日目には孝高の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後長政は、宣教師たちを福岡城に招いて宴を設け、[[照福院]]は教会のための特別な寄付をしたという<ref>「博多のキリシタン」『キリシタン研究』第19輯、1979年、p.27)</ref>。 後に息子の長政は京都の[[臨済宗]][[大徳寺]]に、父如水を弔う為に塔頭、[[龍光院]]を建立。法要が行われた。同院は当初大徳寺最大の塔頭で如水の霊廟の他、大阪天満の如水屋敷にあった書院、茶室等を移築。これが今日まで残る天下の三大茶室[[国宝]]の密庵である。 また、如水の晩年の伝承に基づいた墓碑が各地に残存し、近年盛んに研究されている。滋賀県[[長浜市]]木之本地区、兵庫県[[但馬]]地方、[[香美町]]村岡地区など。 == 号 == 孝高の隠居後の号である如水の由来について、[[ルイス・フロイス]]は次のように記している。<ref>完訳[[フロイス日本史]]5 第44章</ref> {{Quotation|官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、 それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った。}} また、孝高は「シメオン」という洗礼名を持つ[[キリシタン大名]]でもあり、如水についても[[モーセ]]の後継者であり、[[カナン]]の地を攻め取った[[旧約聖書]]の[[ヨシュア]]のポルトガル語読みである[[ジョズエ]]({{Pt|Josué}})から取ったとも言われる{{要出典|date=2014年1月}}。孝高は宣教師からジョズエについて城攻めの才能がある人物として伝わっていた。なおキリスト教に関連した号を持つ武将として、[[小西行長]]などに仕えた[[内藤如安]]などがいる。 孝高が用いた印章には、「SIMEON IOSUI/IOSUI SIMEON」と読めるものと、「QVAN」(または「QVÃN」)とも読めるものがあり<ref>西日本文化協会 福岡県地域史研究所編『福岡県史』近世史料編 福岡藩初期(下)(西日本文化協会、1983年)pp.487,489。</ref>いずれも当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記による「シメオン じょすい/じょすい シメオン」、「くゎん(ひゃうゑ/びゃうゑ)<ref>「くゎんひゃうゑ(くわんひやうゑ)」は「官兵衛」当時の正式なカナ表記。実際の発音としては「かんびょーえ」などが知られる(クリセル神父校閲・吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史(上)』岩波書店、1938年、p.39など)。</ref>」と考えられる<ref group="注釈">ローマ字で表記された以下の人名は全て黒田孝高を指す。Simon Condera (Simon 小寺), Simeon Condera (Simeon 小寺), Kodera Cambyoye (小寺官兵衛), Kodera Kambyoye (小寺官兵衛), Quadera Quanbioi (小寺官兵衛), Kuroda Kambroye (黒田官兵衛、なお KambroyeはKambyoyeの誤読と考えられる), Cuwanbioye (官兵衛), Cambioiendono (官兵衛殿、なお母音のつぎにdなどが続くと、その母音を発音するときに息を鼻に送る〈池上岑夫訳『日本語小文典 上』岩波書店、1993年、73頁〉。donoの前のnはこの鼻母音を表したものと考えられる。), Quambioi-dono (官兵衛殿), and Condera-quansioye (小寺官兵衛、なお18世紀以前、sは時にſと書かれており、quansioyeはquanfioyeの誤読と考えられる。「兵衛」の読みはfioyeとbioyeの二通りがあった〈池上岑夫訳『日本語小文典 下』岩波書店、1993年、198頁〉)</ref>。なお当時、大文字のJとUを欠き、Iがiとjの、Vがuとvの大文字として兼ね用いられていた<ref>土居忠生ほか訳『邦訳 日葡辞書』(岩波書店、1980年)巻末「ローマ字綴り・音注対照表」(p.863の次の頁)、また、池上岑夫訳『ロドリゲス 日本語小文典(上)』(岩波書店、1993年)p.266。</ref>。 == 人物 == * 築城の名手として知られ、居住した中津城や[[福岡城]]の他、[[前野長康]]や[[浅野長政]]らと共に、[[姫路城]]、[[大坂城]]、[[高松城 (讃岐国)|讃岐高松城]]、[[名護屋城]](肥前国)、[[広島城]]など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行った。[[加藤清正]]は、自身の城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちないなどと賞賛している。 * 倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば[[黒田長政]]の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。 * [[徳川秀忠]]は孝高を「今世の[[張良]]なるべし」と評した<ref>[[三河後風土記]]</ref>。 * 歴史小説等では、不遇の天才武将として描かれることが多い。徳川家康と石田三成の合戦では、家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、その間に九州を制覇し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下を取ろうとした。しかし息子の長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、その結果、関ヶ原の合戦は極めて短期間で終わってしまい、皮肉にも息子の活躍により野望を阻まれた、とする作品が多々存在する([[#逸話|後述]]も参照)。しかし、史実として確認できる業績からは、[[下克上]]や天下取りの野心を示した事は一度もない。小寺政職は「裏切った」のではなく「裏切られた」のである、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても2人は(事実上)同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく、なおかつ同じ東軍であったから、敵対すらしていない。 * 遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。 * 当時は当たり前にあった主君のために家臣が追腹を切る事を禁止した。 *筆頭家老・[[栗山利安]]と[[母里友信]]は如水の命により若い頃に義兄弟の誓紙を交わした。如水が死ぬ間際、二人を呼び「これはあの時の誓紙。本来なら今はもう返すべきだと思うが、最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙だから冥土まで持って行こうと思ってる。自分が死んだら、お守りとして棺の中に入れておいてくれ。」と笑いながらそれを大切そうに懐に中に入れたという(古郷物語)。 * 辞世の句「おもひおく、言の葉なくて、つひにゆく、みちはまよわじ、なるにまかせて」 * [[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]に所在する[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]に伝来する[[肖像]]は慶長9年(1604年)の作で、播磨出身の[[井上之房]](九郎右衛門)の求めに応じて作成され、「如水」の号を授けた大徳寺の[[春屋宗園]]による賛が記されている。如水像は他にも何点かあるが、どれも[[脇息]]にもたれかかり、片膝を立てくつろいだ姿で描かれている。これはしばしば足が不自由だからとする説明があるが、こうした図像は[[柿本人麻呂]]像を始めとする歌人の肖像によく見られる形式であり、歌人としての一面もあった如水の像もこれに倣っていると考えられる<ref>黒田長政と二十四騎展実行委員会編集・発行 『黒田長政生誕四四〇年記念展 黒田長政と二十四騎 黒田武士の世界』 [[福岡市美術館]]、2008年9月、p.93。</ref>。 ==人間関係== ===秀吉との関係=== 逸話として秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に恐れていたと後の時代に書かれることがある。 だが、「おまえは弟の小一郎([[豊臣秀長]])と同じように心安く思っている」と書かれた天正5年7月付の孝高宛の秀吉自筆の書状など、資料として仲違いを示すようなものがあるわけではない。<ref name="bunsho"/>。 前述の孝高は後代にしばしば秀吉の「軍師」と呼ばれる。戦国期には合戦に際して方角や日時を占う「[[軍配者]]」が存在し、「[[軍師]]」とも呼ばれた。孝高は軍配者ではないが、軍師には主君の側近くにあって政治・外交・軍事的な指南を行うものという意味もある。孝高は後者の意味で秀吉の軍師とも評されるが、秀吉の有力側近は豊臣秀長と千利休であり、孝高は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったとする指摘もある<ref>諏訪(2013)</ref>。しかしフロイスの日本史には「受洗した者のうちには、関白の顧問 を勤める一人の貴人がいた。彼は優れ た才能の持主であり、それがために万 人の尊敬を集めていた。」として孝高の名をあげており、参謀や顧問として幕僚にいたことは間違いない。 印度総督名代アレハンドロが秀吉との会見を望み、孝高が仲介の労をとったことがあったが、そのとき秀吉は機嫌を悪くしてこう言ったという。「汝は彼ら(ぱあでれ達)を愛護し、きりしたんたるが故に予が与えんと決定した大部分が与えられないのを知らぬのか。下(九州地方)の戦闘に大将として働いた時、二ヶ国を与えようと約束したが、その時ぱあでれ及びいるまんに対する不快から、その後、豊前国の大部分と王の名称しか与えなかった事を。」<ref>新井トシ訳『グスマン東方伝道史』下巻、養徳社、1945年、536-537頁。原文:..., te quite grande parte de darte lo que auia determinado do darte (dixo esto) porque siendo su capi tan en las guerras del Ximo, le auia prometido de darle dos Reynos, y con el disgusto que enton ces tomo contra los Padres, y corra la Christiandad, no quiso darle despues sino la mayor parte te del Reyno de Buygen, con el titulo de aquel reyno.</ref> ===竹中重治との関係=== [[File:Site of Kuroda Nagamasa and Takenaka Shigekado's Positions.jpg|thumb| 関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]] 孝高(官'''兵衛''')は、同じく秀吉の「軍師」とされる[[竹中重治]](半'''兵衛''')と並んで「'''[[両兵衛]]'''('''ニ兵衛''')」と呼ばれることがある。 [[荒木村重]]謀反([[有岡城の戦い]])の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の[[小寺政職]]と共に村重方に寝返ったからだと判断し<ref group="注釈">毛利側にも、御着、志方、山﨑、野間などと共に、姫路も寝返ったと伝わっている(『毛利家文書』)。</ref>、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(のちの黒田長政)を殺害するように命じたが、機転を利かせた[[竹中重治]](半兵衛)は密かに松寿丸を匿った。重治は孝高が救出される前に、平井山の付城で陣没したが、黒田父子を案じる手紙を残している。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用い<ref group="注釈">この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である。</ref>、また重治の子の[[竹中重門]]の[[元服]]の際には孝高が[[烏帽子親]]を務めた。 秀吉の死後、[[関ヶ原の戦い]]の際には、黒田長政と竹中重門が隣り合わせで陣を張ったことが陣跡に残されており、「両兵衛」の絆は息子同士にも受け継がれている<ref>[[NHK大河ドラマ]]『[[軍師官兵衛]]』第21話「官兵衛紀行」より。</ref>。 ===毛利家との関係 === *[[毛利輝元]]率いる毛利家とは秀吉の名代としてたびたび交渉にあたっており、フロイスの日本史にも「関白は彼を通じて山口の国主(毛利)と交渉している」と書かれてある。また毛利家上洛の折は官兵衛がすべて取り仕切っている記述が残されている。 *[[小早川隆景]]とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。[[豊臣秀吉]]の養子であった[[小早川秀秋]]は、[[豊臣秀頼]]誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、[[小早川氏|小早川家]]の養子となった。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。<!-- もっとも、腹蔵ない友人かというとそうでもなく、隆景は死の直前に「筑紫大名(如水のこと)が休息地を求めても貸すな」と周囲に諭している。(ただし、筑紫は隆景自身の領地であり、黒田長政の領地となったのは隆景が亡くなった後の関ヶ原以降。) -->隆景の末弟で養子の[[毛利秀包|小早川秀包]]を、[[黒田長政]]や[[大友義統]]らと同時期にキリスト教の洗礼へと導いており、関ヶ原の戦いで西軍についた秀包の[[久留米城]]に1,000の兵を率いて駆けつけて降伏開城させ、妻子を保護した。 *[[吉川広家]]とは小早川隆景死後とくに親密となり、関が原のおり孝高・長政親子は広家を通じて毛利・小早川の調略を成功させている。二人がやりとりした手紙も多く残されており、孝高が広家に送った如水釜と呼ばれる茶器も現存している。 === その他の人間関係 === *幽閉した村重(道糞)とは共に秀吉の家臣になった後も交流があった書簡の写しが残っている<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml 官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認]</ref>。 *茶道にも造詣深く京都の[[聚楽第]]邸内の猪熊の屋敷は[[千利休]]と隣り合い、[[茶道]]を学んでいる。[[小堀遠州]]らとも交流があり、自邸の茶室など遠州が設計に関わっている。 *[[関白]]の[[豊臣秀次]]には、[[将棋]]の相手をさせられていたという。[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]では、秀吉の[[播磨|播磨国]]入り以来、陣営を共にしてきた従弟の[[明石則実]]が、[[前野長康]]らと連座となった。 *[[徳川家康]]の庶子である[[結城秀康]]は、[[小牧・長久手の戦い]]の和睦の際に、人質として[[豊臣秀吉]]に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・[[豊臣鶴松]]が誕生し、[[小田原の陣]]の後に家康が関東へ移封となると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた[[結城晴朝]]の養子となり、後を継いだ。[[関ヶ原の戦い]]の後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。 *京都[[大徳寺]]の名僧[[春屋宗園]]は如水と大変仲が良く、書状などが複数残っており、一番如水像に近いとされる[[福岡市美術館]]蔵の肖像画には、同氏の讃が漢文で丁寧に書かれている。 == 逸話 == * 孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる<ref name="kafu"/>。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は[[大正時代]]の『黒田如水傳』である。[[小寺高友]]宛の秀吉からの手紙によれば、孝高は城うち(本丸)にいたとされる。 * 有岡城内の孝高を、家臣の[[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[井上之房]]などが、商人の銀屋(しろがねや)の付き人を装って安否を確認していたとされる。[[村田吉次]]の伯母、[[黒田一成]]の父([[加藤重徳]])などに、世話をされていたとされる。 * 旧主の小寺政職の嫡男の[[小寺氏職]]を庇護したため、[[小寺氏]]は存続する事となった。 * [[九州征伐]]後の[[豊前国]]5郡半などの褒賞を、貝原益軒の『黒田家譜』などは、孝高の勲功に対して少なすぎると評し、これを[[石田三成]]の讒言などによるものとしている。[[湯浅常山]]の『常山紀談』などは、豊臣秀吉が孝高の才能を恐れたからだとしている。[[ルイス・フロイス]]の手紙は、孝高がキリシタンであったためとしている。 * 次男の熊之助が海難で亡くなった([[#子孫|後述]])後、まだ長政に男子がいなかったため、[[山中城]]の戦いで戦死した妹婿の[[一柳直末]]の遺児で、孝高の甥・養子の松寿丸を跡継ぎに指名した。しかし、この松寿丸は13歳で亡くなっている。 * [[関ヶ原の戦い]]の折、[[石田三成]]方で本戦に加わっていた[[太田一吉]]や小早川秀包の九州での居城は、「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えられており、それまでの徹底抗戦を止め、開城した。 * 関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた(何故空いた手で刺さなかった)?」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが([[#人物|前述]]も参照)、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。 *ただし慶長5年10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのは確かである。 * 関ヶ原で西軍側についた[[宇喜多氏]]の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある[[明石全登]]を、弟・直之の元で庇護したとされる。 * 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという<ref name="meisho"/>。 * 身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。 * 家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。但し、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。 * 隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。小説家の[[海音寺潮五郎]]はこの事を指して、信長・秀吉・家康の[[三英傑]]より人物的には勝っていると評した。 * あくまでも1800年代に書かれた[[名将言行録]]からではあるが、本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と述べ、以後孝高の智謀を恐れるようになったという逸話がある。同書には、秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は[[徳川家康]]や[[前田利家]]の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の本当の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたら途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したとしている。また、「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」とも書いている<ref name="meisho">岡谷繁実 『[[名将言行録]]』 前編下冊 巻之二十九</ref>。 * [[文禄]]5年([[1596年]])の[[慶長伏見地震]]の際、倒壊した[[伏見城]]に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の[[加藤清正]]の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。 *鳥取城の兵糧攻めや備中高松の水攻めは孝高の献策であると後に逸話として語られることがある。だが、従軍していたことは明らかである<ref>『鳥取城合戦始末記』</ref>が、献策を示すような資料があるわけではない。 == 遺品 == 如水が使用したと伝わる遺品が各地に残っている。 * 愛用した[[兜]]「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」は、如水が死の間際に家臣である[[栗山利安]]にこれを贈っている<ref name="P5">P5 稀代の軍師 黒田如水と一族</ref>。この兜は後に起こった[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]にて利安の子である[[栗山利章]]が[[盛岡]]へ流された後、[[盛岡藩]]主[[南部家]]へ献上された<ref name="P5"/><ref>[http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2008/kuroda_24ki/images/kuroda_24ki_list.pdf 黒田長政と二十四騎]-福岡市博物館のウェブサイトより-2008年9月21日確認</ref>。現在この兜は同地にある[[もりおか歴史文化館]]に保存されている<ref name="P5"/>。なお、この兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、永禄10年(1566年)、[[志方城]]の城主[[櫛橋伊定]]から贈られた兜が加工されている<ref>P142 稀代の軍師 黒田如水と一族</ref>。後に福岡藩3代藩主の[[黒田光之]]が如水を偲んで、同形式の甲冑をつくらせた。こちらは[[福岡市博物館]]に保管されている。 * 如水所有の[[刀]]のうち数点も現在、福岡市博物館に保管されている。 ** 刀 金象嵌銘「長谷部国重 本阿(花押)黒田筑前守」(名物圧切(へしきり)長谷部)(国宝)<ref>[http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2002/katana/html/katana01.html 国宝刀 名物「へし切長谷部」]-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認</ref><ref name="P5"/> **: 天正3年(1575年)7月、[[美濃国]][[岐阜城]]にて織田信長と謁見した際に信長より贈られた。大磨上無銘で、本阿弥光徳が[[山城国]]の[[刀工]][[長谷部国重]]の作と極め、茎(なかご)に金象嵌銘を施す。金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が付属する。 ** 刀 備前長船祐定(安宅切)<ref>[http://www.rosenet.ne.jp/~wabi/kassen-7.htm 第一次四国征伐]ー2008年9月21日確認</ref><ref>[http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/161-170/165/je165_02.html 刀と能面]-福岡市博物館ウェブサイトより-2008年9月21日確認</ref><ref name="P5"/> **: 天正9年(1581年)11月、[[四国攻め#織田政権の四国進出|四国攻め]]の際に[[淡路国]]にて安宅河内守([[安宅清康]]かあるいは安宅貴康)を攻めた折に安宅河内守を討ち取った時に使用したとされている。外装の金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が重要文化財に指定されており、金具類の作風から[[埋忠明寿]]の監修による製作と考えられている。中身は末備前の長船祐定の数打ち物で、茎に「あたき切」と金象嵌がある。 ** 太刀 無銘一文字(名物日光一文字)(国宝)<ref>[http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2002/katana/html/katana02.html 国宝太刀 名物「日光一文字」]-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認</ref><ref name="P4">P4 稀代の軍師 黒田如水と一族</ref> **: 天正18年(1590年)の小田原征伐の際に、降伏を勧めるために小田原城へ派遣された折に北条家当主の[[北条氏直]]より贈られた。葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)が付属する。 * また、小田原征伐の降伏交渉の際に北条氏直から[[平経正]]ゆかりの[[琵琶]]の名器「青山」、歴史書の『[[吾妻鏡]]』と[[法螺貝]]の北条白貝も如水に贈られ<ref name="P4"/>、『吾妻鏡』は[[国立公文書館]]に<ref>P65 稀代の軍師 黒田如水と一族</ref>、北条白貝、琵琶名器「青山」は[[福岡市美術館]]に保存されている<ref>[http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2002/kurodake/html/kurodake_09.htm 黒田家 その歴史と名宝展]-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認</ref><ref>P25 稀代の軍師 黒田如水と一族</ref>。 * 黒田孝高所用の[[鞘#拵と白鞘|太刀拵(鞘)]]が現存している。[[明治]]35年[[1902年]]より、黒田侯爵から[[明治天皇]]に献上された[[菊一文字]]が収められていたと考えられている<ref>[http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20100803/03.html [[開運!なんでも鑑定団]]2010年8月3日放送分]</ref>。天正10年([[1582年]])10月、[[足利義昭]]より、羽柴秀吉に帰京許可の執り成しを依頼され、その返礼として贈られたとされる<ref>金子堅太郎『黒田如水傳』</ref>。 ==遺跡・伝承== *[[大友義鎮|大友宗麟]]の戦火により消失した、[[宇佐神宮|宇佐神宮・弥勒寺]]の再建にあたっている。 *[[安楽寺天満宮]]([[太宰府天満宮]])[[中興の祖]]といわれ、境内には茶の湯で使用した「[[如水の井戸]]」が残っている。 *墓所は、[[福岡市]][[博多区]]の[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]と、[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の[[大徳寺]]塔頭[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]にある。 *中津市の[[合元寺]]には、旧領回復を目指して一揆を起こした[[城井鎮房]]が、[[中津城]]内に謀略結婚により呼び寄せられた際、40人の城井家臣が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという[[伝承]]がある。庫裏(くり)の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて伝説を生んだともいわれる。 == 子孫 == 孝高の子は、[[正室]]の[[櫛橋光]]との間に生まれた[[黒田長政]](長男、[[1568年]](永禄11年)生誕)と[[黒田熊之助]](次男、[[1582年]]([[天正]]10年)生誕)のみであった。長政の誕生後、しばらく子が生まれなかったが、[[側室]]を持つことはなかった。よって、[[有岡城の戦い]]に際し、長政(幼名:松寿丸)が竹中重治に匿われることなく処刑されていれば、ここで跡取りを失くしていたことになるが、重治に助けられたことによりそれは回避された。 それよりまもなくして、二番目の子となる黒田熊之助(くまのすけ)が誕生した。熊之助も順調に成長したが、[[慶長]]2年([[1597年]])、[[朝鮮出兵]]に参加していた父・孝高や兄・長政を見舞うために、母里吉太夫([[母里友信]]の嫡男)・黒田吉松([[黒田一成]]の弟)・木山紹琢を従え[[朝鮮半島]]を目指していた途中で暴風に遭って船が沈没し亡くなった(享年16)。 よって、長政の子孫のみが孝高の子孫ということになる(詳しくは[[黒田長政#子孫]]を参照のこと)。 ==その他== *筑前国[[福岡藩|福岡]]の地名は元は[[福崎]]であり、如水が曾祖父・[[黒田高政]]の代から関わりが深く、洪水で壊滅した[[備前国]][[福岡 (瀬戸内市)]]の地名にちなみ変更されたとされる<ref>『如水公夢想連歌』の一節、慶長7年(1602年)1月16日付で「松むめ(梅)や 末なか(長)かれと みとり(緑)たつ 山よりつゝく(続く) さとはふく岡(福岡)」と詠んだ記載が現在の初見(2013年7月10日[[西日本新聞]])。</ref>。 * 『黒田家譜』を編纂した[[貝原益軒]]は、[[寛永]]7年([[1630年]])に[[福岡藩]]の[[右筆]]・[[貝原寛斎]]の子として[[福岡城]]東邸で生まれた。益軒の祖父・[[貝原信盛]]は[[備前国]]の[[吉備津神社]]の神官であり、[[武田信玄]]に使えた後、[[九州平定|九州攻め]]の際に孝高に出仕して[[外交官]]を<ref name="kafu"/>、[[慶長]]7年には福津崎の代官を務めている<ref>『「如水発行 勝浦浜「塩」皆済状」』。</ref>。 * 後世、[[賤ヶ岳の七本槍]]や[[武田二十四将]]などに倣い、如水の家臣から24人の精鋭が選出され、[[黒田二十四騎]]と呼ばれた。そして、この24人の中でも更に優れた[[後藤基次]]や[[母里友信]]など8人が、[[黒田八虎]]とされた。 * [[播磨国]][[多可郡]][[黒田庄町|黒田庄]](現・[[西脇市]])近辺に存在していた黒田氏が、[[19世紀]]の黒田藩士の[[山口武乕]]の調査により発見された系図、『黒田家略系図(荘厳寺本)』によると、[[足利尊氏]]の有力守護大名である[[赤松則村|赤松円心]]の、その弟・円光の子を[[1351年]]より氏祖として代々黒田城主を務め、赤井忠家([[赤井直正]]の祖父)に落城させられる最後の当主のその弟を孝高とする、とされる<ref>※外部リンク[http://www.geocities.jp/kurodazensi/ 「播磨黒田氏 黒田官兵衛」]参照。</ref>。黒田庄が[[黒田氏]]ゆかりの地である可能性は、『[[播磨鑑]]』の記述や初期の家臣団の出身地などから否定出来ないものの、[[赤松氏]]の『赤松諸家大系図』を始めとする他の眷属や姻族の系図などに拠る裏付けも無く、調査時期などの後世に創作された系図である可能性も否定出来ていない<ref>歴史読本2013年5月号『徹底検証! 黒田官兵衛』</ref>。 *[[中国大返し]]における成功プロセスの精度の高さなどを理由として、[[本能寺の変]]を豊臣秀吉の参謀であった孝高が演出した可能性もあるという説を、元[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]][[松平定知]]などが提唱している<ref>SAPIO2011年1月6日号</ref>。{{Main|本能寺の変#変の要因}} == 関連作品 == === 小説 === * [[長谷川伸]]「黒田如水軒」(1930年12月、『講談倶楽部』) * [[武者小路実篤]]「黒田如水」(1935年5月、『キング』) * [[菊池寛]]「黒田如水」(1936年1月、黎明社刊『日本武将譚』収録) * [[鷲尾雨工]]『黒田如水』(1940年9月、アカツキ) * [[吉川英治]]『黒田如水』(1943年11月、朝日新聞社) * [[坂口安吾]]『[[二流の人]]』(1947年1月、九州書房) * [[松本清張]]「軍師の境遇」(1956年4月 - 1957年3月、『高校コース』) * [[池波正太郎]]「智謀の人」(1968年11月、芸文社刊『武士の紋章』収録) * [[司馬遼太郎]]『[[播磨灘物語]]』(1975年6月 - 8月、講談社) * [[海音寺潮五郎]]「城井谷崩れ」(1984年8月、六興出版刊『三河武士』収録) * [[童門冬二]]『小説 黒田如水』(1994年6月、富士見書房) * [[高橋和島]]『新史黒田官兵衛』(1997年6月、PHP研究所) * [[赤瀬川隼]]「官兵衛受難」(1998年7月、新人物往来社刊『天紙風筆』収録) * [[岳宏一郎]]『乱世が好き』(1997年10月、毎日新聞社 ※講談社文庫収録時に『軍師官兵衛』、光文社文庫収録時に『群雲、賤ヶ岳へ』と改題) * [[安部龍太郎]]『風の如く 水の如く』(1999年3月、集英社) * [[西村京太郎]]「天下を狙う」(2003年1月、角川書店刊『天下を狙う』収録) * [[葉室麟]]『風渡る』(2008年6月、講談社) * 同『風の王国 官兵衛異聞』(2009年9月、講談社) * [[火坂雅志]]『軍師の門』(2008年11月、角川学芸出版) * [[上田秀人]]『日輪にあらず 軍師黒田官兵衛』(2012年9月、徳間書店 ※徳間文庫刊の『月の武将 黒田官兵衛』『鏡の武将 黒田官兵衛』を改稿) * [[高橋直樹]]『軍師黒田官兵衛』(2013年11月、潮出版社) === 漫画 === * [[平田弘史]]『黒田・三十六計』[[リイド社]] * [[さいとう・たかを]]『戦国謀略図』リイド社 * [[重野なおき]]『[[軍師 黒田官兵衛伝]]』[[白泉社]] * [[山田俊明]]『義風堂々!! 疾風の軍師 -黒田官兵衛-』[[徳間書店]] === 音楽 === * 名槍日本号 黒田の武士([[三波春夫]]) * [[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]「[[二流の人 (海援隊の曲)|二流の人]]」(『倭人傳』、[[1979年]][[12月1日]]、MR-3191) * 兵衛'z「ベー・アンベシャス」2011年 『[[戦国鍋TV~なんとなく歴史が学べる映像~#兵衛'z|戦国鍋TV]]』の「ミュージック・トゥナイト」内でのユニット。 === テレビドラマ === ==== 黒田孝高が主人公のテレビドラマ ==== * 『[[戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち]]』(2011年、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]])[[高橋克典]] * 『[[軍師官兵衛]]』(2014年予定、NHK大河ドラマ) [[岡田准一]] ==== 黒田孝高が登場するテレビドラマ ==== * 『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』(1965年、NHK大河ドラマ) [[田村高廣]] * 『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』(1973年、NHK大河ドラマ) [[江守徹]] * 『[[新書太閤記]]』(1973年、NET)[[垂水悟郎]] * 『[[黄金の日日]]』(1978年、NHK大河ドラマ) [[島田三郎 (俳優)|島田三郎]]→[[勝部演之]] * 『[[おんな太閤記]]』(1981年、NHK大河ドラマ) [[菅野菜保之|菅野忠彦]] * 『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』(1983年、NHK大河ドラマ) [[入川保則]] * 『[[豊臣秀吉 天下を獲る!]]』(1995年、テレビ東京[[新春ワイド時代劇|12時間超ワイドドラマ]])[[白竜 (俳優)|白竜]] * 『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』(1996年、NHK大河ドラマ) [[伊武雅刀]] * 『[[太閤記 サルと呼ばれた男]]』(2003年、フジテレビ)[[石黒賢]] * 『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』(2006年、NHK大河ドラマ) [[斉藤洋介]] * 『[[江〜姫たちの戦国〜]]』(2011年、NHK大河ドラマ) [[柴俊夫]] === 主役ルート・ステージの設けられたゲーム === * [[戦国無双]]シリーズ([[コーエーテクモゲームス]] 声:[[高塚正也]]) * [[戦国BASARA|戦国BASARA3]]([[カプコン]] 声:[[小山力也]]) * [[下天の華|下天の華 夢灯り]](コーエーテクモゲームス 声:[[興津和幸]]) * [[戦国大戦]]([[セガ]] 声:[[立花慎之介]](SR黒田官兵衛)、[[野宮一範]](BSS黒田官兵衛)) == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * [[金子堅太郎]]『黒田如水傳』[[博文館]]、1916年(文献出版、1976年) * 筑紫 豊『さいふまいり』[[西日本新聞社]]、1976年 * [[安藤英男]]『黒田如水のすべて』[[新人物往来社]]、1992年、ISBN 9784404019554 * 歴史群像シリーズ(38)『黒田如水』[[学研ホールディングス|学研]]、1994年、ISBN 9784056005851 * 武野要子『博多』[[岩波新書]]、2000年 * 森 弘子『太宰府発見』[[海鳥社]]、2003年、ISBN 4874154220 * [[太宰府市]] 編『太宰府市史』2004年 * [[本山一城]]『黒田軍団~如水・長政と二十四騎の牛角武者たち~』[[宮帯出版社]]、2008年、ISBN 9784863502871 * [[浦辺登]]『太宰府天満宮の定遠館』[[弦書房]]、2009年、ISBN 9784863290266 * 別冊[[歴史読本]]『稀代の軍師 黒田如水と一族』新人物往来社、2007年、ISBN 9784404033765 * [[小和田哲男]]『黒田如水 臣下百姓の罰恐るべし』(ミネルヴァ日本評伝選)、ミネルヴァ書房、2011年、ISBN 4623062457 * 『歴史読本』2013年5月号「徹底検証! 黒田官兵衛」 * [[渡邊大門]]『誰も書かなかった 黒田官兵衛の謎』[[中経出版]]、2013年、ISBN 9784806148470 * 渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像』講談社現代新書、2013年 * 諏訪勝則『黒田官兵衛 「天下を狙った軍師」の実像』[[中公新書]]、2013年、ISBN 9784121022417 * [[本山一城]]『秀吉に天下を獲らせた男 黒田官兵衛』[[宮帯出版社]]、2014年、ISBN 9784863669123 * [[小和田哲男]]監修『黒田官兵衛―豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師』[[宮帯出版社]]、2014年、ISBN 9784863669147 == 関連項目 == * [[福岡藩]] === 黒田氏 === * [[黒田氏]] * [[黒田職隆]] - 父。 * [[小寺休夢|小寺休夢(高友)]]・[[井手友氏]] - 叔父(職隆の弟)。 * [[黒田利高]]・[[黒田利則]]・[[黒田直之]] - 弟。 * [[黒田長政]] - 嫡男。 === 家臣団 === * [[黒田二十四騎]] * [[黒田八虎]] == 外部リンク == * [http://harima-kurodabushi.com/ 播磨の黒田武士顕彰会] - 黒田官兵衛・長政父子とその家臣たちを広く顕彰し、[[大河ドラマ]]化を目指していた。 * [http://www.geocities.jp/kazzuki2001/ 黒田武士の館] - 黒田氏の研究を行なっている[[漫画家]]の[[本山一城]]のホームページ。 * [http://club.kobe-np.co.jp/mint/article/odekake/ya0710261109.html 神戸新聞読者クラブ - はりま・名作の舞台 官兵衛を歩く] * [http://himeji-kanbee.jp/ ひめじ官兵衛プロジェクト] * [http://museum.city.fukuoka.jp/ 福岡市博物館] - 黒田記念室を設け、黒田氏伝来の品を所蔵し、展示している。 * [http://www.city.fukuoka.lg.jp/charm/kanbei/ 福岡市 - みんなで盛り上げよう 福岡!2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」] * [http://kanbee.kako-navi.jp/ 黒田官兵衛と光(加古川観光協会)] * [http://kanvee.com/ 官兵衛の] - 福岡の若手作家、編集者、コピーライターらで結成された「『官兵衛の』実行委員会」が主催するポータルサイト。 {{-}} {{黒田氏歴代当主|第4代|1567年 - 1589年}} {{DEFAULTSORT:くろた よしたか}} [[Category:黒田孝高|*]] [[Category:黒田氏|よしたか]] [[Category:小寺氏]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:福岡藩の人物]] [[Category:播磨国の人物]] [[Category:キリシタン]] [[Category:1546年生]] [[Category:1604年没]] [[Category:姫路城]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:-
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Main
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Pt
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Quotation
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 武士
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:脚注ヘルプ
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:要出典
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:黒田氏歴代当主
(
ソースを閲覧
)
黒田孝高
に戻る。
検索
検索
黒田孝高のソースを表示
話題を追加