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黒木知宏
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{{Infobox baseball player |選手名 = 黒木 知宏 |所属球団 = 北海道日本ハムファイターズ |役職 = コーチ |背番号 = 87 |選手写真ファイル名 = |写真サイズ = |写真のコメント = |国籍 = {{JPN}} |出身地 = [[宮崎県]][[日向市]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|1973|12|13}} |没年月日 = |身長 = 178 |体重 = 84 |利き腕 = 右 |打席 = 右 |守備位置 = [[投手]] |プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1994}} |ドラフト順位 = ドラフト2位 |初出場 = 1995年4月6日 |最終出場 = 2007年4月27日 |年俸 = |経歴 = <nowiki></nowiki> ; 選手歴 * [[延岡学園高等学校]] * [[王子硬式野球部|新王子製紙春日井]] * [[千葉ロッテマリーンズ]] (1995 - 2007) ; コーチ歴 * [[北海道日本ハムファイターズ]] (2013 - ) |代表チーム = {{Flagicon|JPN}}[[野球日本代表|日本]] |五輪 = [[シドニーオリンピックにおける野球競技|2000年]] |WBC = |選出国 = |選出年 = |得票率 = |選出方法 = }} '''黒木 知宏'''(くろき ともひろ、[[1973年]][[12月13日]] - )は、[[宮崎県]][[日向市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[プロ野球コーチ]]。 闘志を前面に押し出したプレースタイルで、[[千葉ロッテマリーンズ]]の「魂のエース」と称された。ニックネームは「ジョニー」で、「ジョニー黒木」名義でも活動する。{{by|2013年}}からは北海道日本ハムファイターズの一軍投手コーチを務める。 == 来歴・人物 == === プロ入り前 === 幼稚園のころ[[三角ベース]]で野球を始め、小学校に上がると地元の少年[[ソフトボール]]チームに入った。[[延岡学園高等学校]]では3年の夏に[[第73回全国高等学校野球選手権大会|甲子園]]に出場するも、初戦の第二試合で[[三重県立四日市工業高等学校|四日市工]]([[三重県]]代表)に4-8で敗れた。延岡学園高時代の後輩に[[黒木純司]]がおり、投手・黒木知と捕手・黒木純としてバッテリーを組んでいたこともある。黒木純は2002年にロッテに移籍したため、再びチームメイトとなった。 高校卒業後、[[社会人野球]]の[[王子製紙硬式野球部|新王子製紙春日井]]に入社、{{by|1994年}}の[[第65回都市対抗野球大会|都市対抗野球]]では[[Honda鈴鹿硬式野球部|本田技研鈴鹿]]の補強選手として[[森昌彦]](NTT東海から補強)と共に優勝に貢献した。 === プロ入り後 === 1994年の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]2位で[[千葉ロッテマリーンズ]]に入団。先発、リリーフとフル回転し、6月30日の対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]戦で毎回奪三振をして初勝利を完封勝利で挙げる。{{by|1996年}}には[[先発ローテーション]]入りし、初めて[[規定投球回]]数に到達すると、{{by|1997年}}には初の防御率2点台を記録。240イニング以上投げ、13完投とともにリーグ最多となるなど、[[小宮山悟]]と共に「チームのダブルエース」となる。 {{by|1998年}}7月7日、ロッテは16連敗中であり、この日の対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]戦に連敗脱出を懸けて先発登板。[[福澤洋一]]捕手とバッテリーを組み、2点リードで9回2死2ストライクまで打ち取るも、[[ハービー・プリアム]]に同点2ラン本塁打を浴びる。連敗脱出目前でよもやの同点本塁打を許した黒木はマウンド上に座り込み、悔し涙を流す(その後、延長にて[[近藤芳久]]が[[広永益隆]]から満塁本塁打を打たれ[[サヨナラゲーム]]となり、チームは日本プロ野球ワースト記録の17連敗となった)。この敗戦は「七夕の悲劇」と呼ばれている。しかし、そこから立ち直って[[1998年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]に初出場しており、[[最多勝利|最多勝]]・[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]のタイトルを獲得。なお、[[防御率]]は[[金村曉]]に次ぐ2位であったが、金村が[[規定投球回]]ぎりぎりの135イニングでのタイトル獲得であったため、黒木には[[三冠_(野球)|三冠王]]の可能性も十分にあった。連敗脱出後、[[小宮山悟]]から「なぜあそこで降りた?試合は終わってなかったぞ。最後まで諦めずに務めなくちゃ」と諭されたという<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_july2/KFullNormal20080701166.html あと1球が悲劇に…ジョニーが泣き崩れた日本新記録]スポーツニッポン</ref>。 翌{{by|1999年}}も[[1999年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に選出されるなど、長らくロッテのダブルエースとして小宮山悟と共に低迷時代を支え、{{by|2000年}}には小宮山がチームを去った後の正真正銘のエースとして期待されるが、キャンプにて右足に怪我を負う。無理を押して開幕に備えるも、開幕戦(対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦)で[[秋山幸二]]に史上最年長記録となる初回先頭打者本塁打を打ち込まれると、そのまま引きずってしまい、前半戦の防御率は10点台と絶不調に陥る。その後、前年から決まっていた[[シドニーオリンピック野球日本代表]]に向けて二軍で調整し、五輪でも活躍。後半戦はエースとして活躍するも、実は右肩の違和感を持ったままの投球が続いていた。9月13日には1000投球回数を記録した。 {{by|2001年}}[[3月24日]]、[[西武ドーム]]で[[開幕投手]]として[[松坂大輔]]に投げ勝ち[[21世紀]]初の[[日本プロ野球]]公式戦勝利投手となり、以降も絶好調が続くが、前年の肩の違和感を引きずったままであり、ファン投票で選出された[[2001年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]、27日のオリックス戦に強行出場した後、後半戦からは姿を消す。この闘病のため「[[弁当の呪い]]」を受けた選手の一人とされている。右肩の違和感に関して、当初は棘上筋炎症という比較的軽い怪我だという診断をされるも肩腱板の内側靭帯を数本完全損傷する重傷だったことが後に判明したが、手術を選択せず自然治癒を選択。単調なウェートトレーニングやランニングを繰り返す日々が続き、また投球フォームを肩に負担のかからないサイドスローに近いフォームに改造するなど、{{by|2004年}}に一軍へ昇格するまで3年という長い月日がかかっている。6月に3年ぶりに勝利を飾る。オフの[[契約更改]]では自ら申し出て球団提示額より1000万円減で契約を更改した。 {{by|2005年}}は右ひじを痛めて大幅に出遅れる。しかし8月28日、[[千葉マリンスタジアム]]での対[[オリックス・バファローズ]]戦で先発。3万人のマリーンズファンに支えられ自身1年2か月ぶり、本拠地では実に1545日ぶりに勝利を挙げる。この勝利はロッテのパ・リーグ[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]進出と、10年ぶりのAクラスを確定するものだった。[[2005年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]は登板機会なし。しかし[[2005年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]では第3戦に先発し3回を[[自責点]]0で初代アジアチャンピオンに貢献した。 {{by|2006年}}7月28日、降格から1か月半ぶりに一軍出場選手登録され、その日の[[神戸総合運動公園野球場|スカイマークスタジアム]]での対オリックス戦でプロ12年目で初セーブを記録している。全盛期には1億8000万円だった年俸が、{{by|2007年}}には10分の1以下にまで下がったものの、マリーンズファンから絶大な支持があり、登板時には誰よりも大きな声援を送られた。当時、「復活のマウンドで勝利投手となりお立ち台に立つのが今の目標」とコメントしている。 2007年は2001年以来の開幕一軍を得た。4月27日の対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦の7回裏2アウト一塁で登板し、[[G.G.佐藤]]を三振に仕留めた。8回も2アウト三塁のピンチを招くが[[片岡易之]]をサードゴロで抑えた。この年はこの1試合のみの登板となり、4月30日に登録抹消されてからは一軍登録されなかった。 === 引退 === 2007年10月2日に[[戦力外通告]]を受けたが、その時点では現役続行を宣言していた。しかし他球団からのオファーが掛からず、11月30日にロッテの保留選手名簿から外れて[[自由契約]]公示された。12月12日、現役続行を諦め、引退記者会見を行った。記者会見で黒木は「1998年の七夕の日にグリーンスタジアム神戸(対オリックス戦)で9回裏同点本塁打を打たれた試合と、チームの18連敗が忘れられない想い出。こうした経験を基に、野球の素晴らしさ、怖さを伝えて行けたらと思っています」と語った。 {{by|2008年}}3月15日、千葉マリンスタジアムの対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]オープン戦の試合後に引退セレモニーが行われた。オープン戦としては異例の前売り券25000枚が完売、当日券も発売10分で売り切れるなど、28926人の満員の観客を集めて行われ、同期入団の[[サブロー]]、同級生の楽天の[[礒部公一]]、最後は[[福浦和也]]と対戦し、サブローを三振、礒部を三塁ゴロ、福浦も三振に打ち取った。挨拶の後、ライトスタンド前で胴上げが行われた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/03/16/kiji/K20080316Z00001690.html 魂の17球でジョニーの勇姿焼き付けた]スポーツニッポン2008年3月16日</ref>。 2008年3月15日、[[ニッポン放送]]の『[[師岡正雄]]の[[ショウアップナイター]]編集部!』に出演し、ニッポン放送野球解説者として活動していくことが発表された。他に[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル]]、[[TBSテレビ]]と本数契約で出演。{{by|2012年}}11月23日に[[北海道日本ハムファイターズ]]一軍投手コーチへの就任が発表された<ref>[http://www.fighters.co.jp/news/detail/3213.html 2013年1軍コーチングスタッフについて]北海道日本ハムファイターズ(2012年11月23日)</ref>。 == エピソード == {{雑多な内容の箇条書き|date=2011年8月|section=1}} * 現役時代の登場テーマ曲は[[あしたのジョー]]の「[[美しき狼たち]]」だった。 * 愛称の「ジョニー」について、2008年4月13日の[[ニッポン放送]]『春のショウアップナイター検定』にゲスト出演した際に本人の口から理由が述べられた。ミーティング<ref>放送ではアマ時代かプロ時代かの言及はなかったが、以前は「社会人時代」と発言していた。</ref>の際に居眠りをしてしまい、その罰として「丸刈りにするように」と言われ、丸刈りではなく角刈りにしたところ後輩に「[[山本譲二]]に似ている」として「ジョージ」というあだ名が付けられた。この「ジョージ」がいつの間にか「ジョニー」となり、ピッチャーグラブに刺繍を施したり、周囲に「ジョニーと呼んでほしい」と言うようになったとのこと<ref>なお従前の説としては、入団時に黒木自身が「ジョニーと呼んでくれ」と言ったのがそのまま定着したという説・[[ウイスキー]]の「ジョニ黒」(=[[ジョニー・ウォーカー]]黒ラベル)から来ているという説・あるいは社会人時代に[[山本譲二]]に似ていたことから「ジョージ」と呼ばれていたが、あまり気に入っていなかったために新しい愛称を公表したという説・さらに同じ年にドラフト1位で入団した大村三郎が登録名を「[[サブロー]]」としたことで、サブローへの対抗意識から前述のようなアピールにつながったとする説などがあった。</ref>。 * 上述のように1998年7月7日、黒木はカウント2-1からプリアムに、内角にストレートを投げ同点2ランホームランを浴びる。このカウントではフォークボールまたはホームランを打たれにくい外角を投げるのが一般的には有効であるが、18連敗が始まる前の同年6月12日に黒木は対オリックス戦で1失点完投勝利を収めたが、この唯一の失点はプリアムに投げたフォークボールをホームランにされたものであった。これを踏まえて、バッテリーはフォークではなく、ストレートを選択し、さらにこの打席で全て外角にボールを投げていたことから、意表をついて内角に投げたと言われている。 * [[イチロー]]がその実力を認めた選手の一人。決して球が速いわけでも、ズバ抜けた変化球があるわけではないが、エースと呼ばれる前から「球に気持ちが入っている」「一番タフな対戦相手」と高く評価していた<ref>ちなみに、1998年7月7日の「運命の9回裏」の先頭打者はイチローである(三振。その後、[[トロイ・ニール|ニール]]の安打→[[谷佳知]]のファウルフライと続いてプリアムの打席に続く)。</ref>。 * ケガをして以来、黒木は走り込みを欠かさず行ってきた。[[ロッテ浦和球場]]には黒木が同じところを繰り返し走った結果、そこだけ踏み固められて草(芝)がなくなり道のようになった場所があった。いつしかファンや球団関係者はその場所を'''黒木ロード'''と呼ぶようになった(同様のエピソードが[[桑田真澄]]にもある。恵まれない体格で試行錯誤し、過酷なトレーニングで球速を上げた結果、肘を痛めるなど両者は共通したエピソードが多い)。 * 新王子製紙春日井(現[[王子製紙硬式野球部|王子製紙]])在籍時、[[第63回都市対抗野球大会|第63回都市対抗野球]]で補強選手としてチームに合流した[[西濃運輸硬式野球部|西濃運輸]]のエース[[吉井憲治]](現[[日本文理大学]]投手コーチ)から'''「球はハートで投げろ!」'''と気合を注入された。これが黒木の投球術の原点となっており、黒木は今でも吉井を師と仰いでいるという。 * 黒木のもう一つの代名詞であった背番号54は前任の[[石田雅彦]](1985年度のロッテドラフト1位入団で現在はロッテ球団[[打撃投手]])より譲られたものであった。本人は、ドラフト上位で入団したにもかかわらず、重い番号であることに最初は納得がいっていなかったと言うが、石田に「お前のためにこの番号を温めておいたよ」と言われたことに感激し、恩義を感じていた。そのため、現役選手の間は背番号は替えることはなかった。 * 2004年から監督に復帰した[[ボビー・バレンタイン]]は「自分がいたらこんな無用な怪我はさせていない」と語っている。これはバレンタイン解任後の1997年に、黒木が敗戦試合にも意味なく長いイニングを投げたことを意味すると思われる。この年、過度に肩を酷使して肩を消耗させたことが、黒木の投手生命を縮めたと言われている。 * 約3年ぶりの一軍での登板となった2004年4月17日の[[東京ドーム]]での対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦では、ファイターズファンからもマウンドに登る際、大きな拍手を送られた。また、普段はファイターズのホームゲームにおいてビジターチームの投手がノックアウトで降板するときに「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」が球場内に流されるが、黒木が7回に降板する際は東京ドーム側の配慮なのか流されず、ただスタンディングオベーションが続いた。 * 在京期間が長いものの、会話にところどころ自身の出身である宮崎訛りが出る。 * 趣味は[[釣り]]、[[パチンコ]]。TV番組で「野球と釣り、どちらか選べと言われたら?」の問いに「釣り」と答えたこともあるほどで、シーズンオフは野球を離れ、ひたすら磯釣りに没頭している。チームメイトの[[堀幸一]]と共に[[テレビ東京]]の『[[釣りロマンを求めて]]』に出演したこともある。 * 2007年レギュラーシーズン最終戦、試合終了後のスタンドにてグラウンドには黒木がいないにもかかわらず「ジョニー」コールが起こった。 * 黒木が使用していた[[SSK]]製のグラブは内野手用をベースに作られているので、一般的には大きめのグラブを使うことが多い投手の中では珍しく小ぶりなグラブを使っていた。 * 2010年4月7日に同郷の先輩である[[木村拓也]]が急逝した際には、自らのブログにて故人への思いを語った。 == 詳細情報 == === 年度別投手成績 === {| {{投手成績|リーグ= 日本プロ野球}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|1995}} |rowspan="11" style="text-align:center;"|[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]] |20||10||1||1||0||5||7||0||--||.417||331||80.0||72||7||26||2||2||58||3||1||35||33||3.71||1.23 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |28||19||0||0||0||8||7||0||--||.533||576||135.2||119||11||57||3||4||90||4||0||58||54||3.58||1.30 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1997}} |32||31||'''13'''||1||3||12||'''15'''||0||--||.444||995||'''240.2'''||206||'''24'''||86||5||2||179||'''13'''||1||98||80||2.99||1.21 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1998}} |31||'''28'''||8||2||'''3'''||'''13'''||9||0||--||'''.591'''||831||197.0||185||14||'''89'''||2||1||124||'''12'''||0||78||72||3.29||1.39 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1999}} |29||'''29'''||7||0||1||14||10||0||--||.583||850||'''212.2'''||164||14||68||3||1||171||8||0||67||59||2.50||1.09 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2000}} |26||24||5||1||0||10||12||0||--||.455||698||160.0||181||21||48||1||1||134||2||0||'''103'''||92||5.18||1.43 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2001}} |17||17||4||1||1||11||4||0||--||.733||499||125.0||102||12||30||0||0||89||5||0||44||42||3.02||1.06 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2004}} |7||7||0||0||0||1||3||0||--||.250||157||34.2||35||9||21||0||1||20||1||0||21||17||4.41||1.62 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2005}} |3||3||0||0||0||2||1||0||0||.667||78||17.2||21||3||3||0||2||9||1||0||9||9||4.58||1.36 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2006}} |5||0||0||0||0||0||0||1||0||----||20||4.0||5||1||4||0||0||3||0||0||3||3||6.75||2.25 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2007}} |1||0||0||0||0||0||0||0||0||----||5||1.1||0||0||1||0||0||2||0||0||0||0||0.00||0.75 |- !colspan="2"|通算:11年 |199||168||38||6||8||76||68||1||0||.528||5040||1208.2||1090||116||433||16||14||879||49||2||516||461||3.43||1.26 |} * 各年度の'''太字'''はリーグ最高 === タイトル === * [[最多勝利|最多勝]]:1回 (1998年) * [[最高勝率 (野球)|最高勝率]]:1回 (1998年) === 表彰 === * [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:2回 (2000年9月、2001年5月) * 日向市民栄誉賞第1号(2008年) ※[[青木宣親]]と同時受賞 === 記録 === * 初登板:1995年4月6日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]3回戦([[千葉マリンスタジアム]])、6回表1死に2番手で救援登板、1回2/3を無失点 * 初奪三振:同上、7回表に[[ケビン・ライマー]]から * 初先発:1995年5月28日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]10回戦([[東京ドーム]])、6回2/3を1失点で敗戦投手 * 初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1995年6月30日、対日本ハムファイターズ14回戦(東京ドーム) * 1000投球回数:2000年9月13日、対福岡ダイエーホークス25回戦([[福岡ドーム]])、7回裏1死目に[[小久保裕紀]]を三塁ゴロで打ち取って達成 ※史上286人目 * 初セーブ:2006年7月28日、対[[オリックス・バファローズ]]11回戦([[神戸総合運動公園野球場|スカイマークスタジアム]])、12回裏1死に8番手で救援登板・完了、2/3回無失点 * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:3回 === 背番号 === * '''54''' (1995年 - 2007年) * '''87''' (2013年 - ) == 関連情報 == === 書籍 === * 「マウンドの記憶-黒木知宏、17連敗の向こう側へ」(2000年・[[毎日コミュニケーションズ]] [[平山譲]]著) ISBN 9784839903435 * 「54『もう、投げなくていい』からの出発」(2008年・[[ロングセラーズ]] 黒木知宏著) ISBN 978-4-8454-2130-5(4-8454-2130-5) === 出演 === * テレビ番組 ** [[TwellV プロ野球中継]]・[[断然 パ・リーグ主義!!]]([[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|TwellV]]・[[日本BS放送|BS11デジタル]]) ** [[MLBスタジアム]]([[BS-TBS]]) ** [[野球好きニュース]]([[J SPORTS]])(出演は不定期) **[[Going!Sports&News]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、2011年4月 - 、コメンテーター) :土曜日に[[赤星憲広]]と隔週交代で出演。2012年3月24日の放送では、[[声帯ポリープ]]の手術を受けた[[上田晋也]]([[くりぃむしちゅー]])の代理で、初めてMCを兼務した。 * CM ** [[ロッテリア]](1999年) [[加藤あい]]と“間接”共演した。当初は実際に共演する予定だったが、スケジュールの都合で不可能となり、それぞれの出演シーンを別々に撮影して編集でまとめた。 ** [[アサヒビール|アサヒ]] スーパーモルト(2000年) *ラジオ番組 ** [[ニッポン放送ショウアップナイター]]([[ニッポン放送]]) ** [[ジョニー黒木のショウアップナイターマンデースペシャル]](中継のない月曜日、2009年シーズン [[ニッポン放送]]) ** [[東京スマートドライバー]]・[[SHARE SMILE]] ゲスト([[J-WAVE]]、2009年4月27日 - 5月1日) *ゲーム ** [[プロ野球スピリッツ]]6~2012([[コナミデジタルエンタテインメント]])ゲームの中で解説者として出演(2009年-2012年) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[宮崎県出身の人物一覧]] * [[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]] == 外部リンク == * [http://ameblo.jp/johnny54-kuroki/ 黒木知宏公式ブログ] {{北海道日本ハムファイターズ}} {{Navboxes|title=業績 |list1= </span> {{パシフィック・リーグ最多勝投手}} {{パシフィック・リーグ最優秀勝率投手}} {{千葉ロッテマリーンズ開幕投手|千葉ロッテマリーンズ}} }} {{シドニーオリンピック野球日本代表}} {{千葉ロッテマリーンズ1994年ドラフト指名選手}} {{DEFAULTSORT:くろき ともひろ}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:王子硬式野球部及びその前身チームの選手]] [[Category:オリンピック野球日本代表選手]] [[Category:最多勝利 (NPB)]] [[Category:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手]] [[Category:野球解説者]] [[Category:野球指導者]] [[Category:釣り人]] [[category:北海道日本ハムファイターズ関連人物]] [[Category:宮崎県出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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