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高麗
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{{Otheruses|10世紀から14世紀に[[朝鮮半島]]に存在した王朝|その他の高麗|高麗 (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = 高麗 |日本語国名 = 高麗 |公式国名 = {{lang|ko|고려국 (高麗國)}}<br /><small>{{lang|ko|고려왕조 (高麗王朝)}}</small> |建国時期 = [[918年]] |亡国時期 = [[1392年]] |先代1 = 後高句麗 |先旗1 = |先代2 = 後百済 |先旗2 = |先代3 = 新羅 |先旗3 = |次代1 = 李氏朝鮮 |次旗1 = Flag of the King of Joseon (Fringeless).svg |国旗画像 = |国旗リンク = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章幅 = |標語 = |標語追記 = |国歌 = |国歌追記 = |位置画像 =Locationmap Goryeo.png |位置画像説明 = 高麗(1374年) |位置画像幅 = |公用語 = [[高麗語 (古代語)|高麗語]] |首都 = [[開城]] |元首等肩書 = [[高麗王]] |元首等年代始1 = [[918年]] |元首等年代終1 = [[943年]] |元首等氏名1 = [[太祖 (高麗王)|王建]](太祖) |首相等肩書 = |首相等年代始1 = |首相等年代終1 = |首相等氏名1 = |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 = 建国 |変遷年月日1 = [[918年]] |変遷2 = 滅亡 |変遷年月日2 = [[1392年]] |通貨 = |通貨追記 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |注記 = }} {{朝鮮の事物 |title = 高麗 |picture = |caption = |hangeul = 고려/고려왕조 |hanja = 高麗/高麗王朝 |hiragana = こうらい/こうらいおうちょう |katakana = コリョ/コリョワンチョ |alphabet-type = [[文化観光部2000年式|2000年式]]:<br />[[マッキューン=ライシャワー式|MR式]]:<br />英語 |alphabet = Goryeo<small>/Goryeo wangjo</small><br />Koryŏ<small>/Koryŏ wangcho</small><br />Goryeo<small>/Goryeo Dynasty</small> }} '''高麗'''(こうらい)は、[[918年]]に[[太祖 (高麗王)|王建]](太祖)が建国し、[[936年]]に[[朝鮮半島]]を統一して、[[1392年]]まで続いた統一王朝である。都は[[開城市|開城]]。 元来「高麗」は[[高句麗]]の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、現代中国では区別のため'''王氏高麗'''と呼ぶこともある。 西洋語において朝鮮を表す'''Korea'''、'''Coree'''などの語源となった。 == 歴史 == === 建国 === [[新羅]]は朝鮮半島を統一したが、しかし8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き、地方でも農民の反乱が起き、混乱を深めて行った。この乱れは[[真聖女王]]の時に一層激しくなり、地方の有力な[[豪族]]たちが新羅を分裂させた。[[892年]]、半島西南部で[[甄萱]](けんけん、{{lang-ko|견훤}}(キョンフォン))が[[後百済]]を建国し、[[901年]]には[[弓裔]](きゅうえい、{{lang-ko|궁예}}(クンイェ))が[[後高句麗]](のちに[[泰封]]と改称)を建国した。これ以降を[[後三国時代]]と呼ぶ。 『[[高麗史]]』によると、[[太祖 (高麗王)|王建]]の先祖は北方から[[白頭山]]を越えて移住して来た[[高句麗]]の大族の末裔とされているが、2007年に中国の研究者から朝鮮に移住した[[漢民族|漢人]]の末裔という新説が出されている<ref>[[太祖 (高麗王)#生い立ち|生い立ち]]については「太祖」の記事に詳しい</ref>。王建は将軍として後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし[[弓裔]]には嫌われ、命を狙われたこともある。弓裔は、宮殿の造営で国力を消耗するなど失政を重ね、民衆の不満は高まった。また自分を[[弥勒菩薩]]と呼ばせて神秘的な超能力で人の心を見抜くことができると言い、反対派を粛清した。王建はついに反乱を起こし、弓裔を殺して自ら王位についた。これが高麗の建国である。その後、朝鮮半島は高麗と後百済の戦争が一進一退の状況が続き、[[935年]]、後百済の王の[[甄萱]]が四男金剛に王位を継がせようしたことに長男の神剣が不満を持ち、ついに反乱を起こして父を廃位し、みずから後百済の王となった。神劍は甄萱を寺院に監禁したが、甄萱は935年6月、高麗に亡命した。王建は甄萱を父と呼んで優遇した。同年11月には、新羅の[[敬順王]]が君臣を挙げて高麗に帰順し、新羅は高麗に吸収合併されることになった。政変の混乱で後百済は急速に弱体化し、[[936年]]には高麗の攻撃でついに滅亡した。こうして朝鮮半島は高麗によって統一された。 {{朝鮮の歴史}} === 北進政策と契丹侵入 === {{複数の問題 |section = 1 |独自研究 = 2014年5月 |出典の明記 = 2014年5月 |観点 = 2014年5月 }} {{main|契丹の高麗侵攻}} [[926年]]北方民族[[契丹]]の[[遼]]([[916年]]成立)が[[渤海 (国)|渤海]]を滅ぼし高麗と北方で国境を接した。一方、[[中国大陸]]の戦乱([[五代十国]])が[[宋 (王朝)|宋]]([[960年]]建国)によって統一されると、高麗は宋の[[朝貢]]国となり、歴代の王は宋から派遣される冊封使の承認に依って[[冊封国|冊封]]された後、国王に就く様になった。 宋は[[漢民族]]を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ、さらに[[993年]]から大規模な侵入を行った。高麗はこれに屈し、契丹の属国となる事を誓って赦され、[[994年]]から連年朝貢した。[[1009年]]に高麗で王が弑逆される政変が起きると、[[1010年]]契丹は不義を正す為に介入し、北部諸州を征服した後、首都開城へ迫った。高麗朝廷は将軍・[[姜邯賛]]の策により開城を放棄して羅州へ立て篭もるも、契丹軍が[[1011年]]1月に開城を攻略すると和を乞うて降伏、契丹軍は開城を焼き払い撤退した。高麗が再び盟約に違反した為、契丹は[[1013年]]から[[1015年]]まで継続して侵入し、高麗軍は度々破れ大きな損失を被っている。契丹はその年のうちに再再度侵攻した。[[1016年]]高麗が再び宋の藩[[属国]]に戻って契丹に背くと、[[1018年]][[蕭排押]]率いる10万の契丹軍が高麗へ攻め込むが、[[姜邯賛]]率いる高麗軍20万は契丹軍の分隊を鴨緑江支流河岸にある亀城で迎え撃ち撃退した。侵攻は[[1019年]]まで続き、高麗は最終的にこれを撃退した。契丹軍の侵攻は、高麗が請願によって女真族の土地である[[江東6州]]の権利を下賜されていながら度々背いた故である。遼の[[聖宗 (遼)|聖宗]]は、蕭排押の敗戦を受けて本格的な高麗征伐を準備していたが、高麗からの藩属国となり毎年朝貢を怠らない旨の謝罪を受け容れ、[[1020年]]降伏による和睦を許した。1022年以降、高麗は契丹の年号を用いて朝貢の義務を果たし、契丹が高麗の江東6州領有を許した事で、高麗は鴨緑江沿いの女真族の土地を占領した。 その後、北東地域では[[女真]]との戦いが続いた。女真が居住していた江東6州への侵略に際して女真族の抵抗に遭った為、[[1033年]]から[[1044年]]にかけて北部に半島を横断する長城を築いて報復に備えた。[[1037年]]に女真水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻した。 この後の女真の台頭は著しく、[[1104年]]の反撃では女真軍に敗れ略奪を受けている。女真は[[1115年]]に[[金 (王朝)|金]]を建て、[[1125年]]に高麗の宗主国である遼を滅ぼした。その為高麗は金へ服属し、翌[[1126年]]に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗は属国でありながらもそれほど政治介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、[[1145年]]には現存最古の朝鮮半島史書『三国史記』が完成した。 === 武臣政権とモンゴルの侵攻 === {{main|武臣政権}} [[12世紀]]中頃から、王や文人が政治をないがしろにするとして、武人が政権獲得の気運を伺うようになった。[[1170年]]には武臣([[軍人]])である鄭仲夫が[[クーデター]]を起こして国王を廃位し、[[武臣政権]]時代が始まる。しかし、他の武臣の反発を招き、[[1179年]]に暗殺される。その後、慶大升・[[李義ミン|李義{{lang|ko|旼}}]]が政権を握るが、[[崔忠献]]により暗殺され、その後、武臣同士の内紛を制して[[1194年]]に政権を掌握した崔忠献は4代続く安定政権を建てた。 {{main|モンゴルの高麗侵攻}} 崔氏武臣政権下、北方では[[チンギス・ハン]]率いる[[モンゴル帝国]](蒙古、後の[[元 (王朝)|元]])が台頭し、金を圧迫していた。このため[[1224年]]に金の年号を止め、独立を回復した。高宗5年([[1218年]])にモンゴルに離叛した契丹の一派が高麗領内に侵入した時、チンギスはこれを追討ちさせており高麗側も兵力を出してこの討伐行を助勢した。これにより高麗はモンゴル側との接触して朝貢国となっていたが、[[1224年]]に派遣されたモンゴル使臣が高麗領内で殺害される事件が起こり、国交は断絶した。[[1231年]]からモンゴル側から先年の使者の殺害を詰問し降伏・臣従を促す国書が来牒し<ref>『元史』、『高麗史』巻23・世家第23 高宗18年12月壬子(1231年12月25日)および甲戌(1232年1月16日)条にこの時にモンゴルの使者がもたらした牒状の写しが載せられている。</ref>、モンゴル軍の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて[[1232年]]に都を[[開京]]から[[江華島]]に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル軍に蹂躙され、荒廃した。[[1239年]]にモンゴルは高麗に入朝を命じたが、高麗側はこれに応じなかった。[[1247年]]に再びモンゴル軍が侵入した。この年からモンゴルは継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、[[1258年]]に北部の和州以北を占領され[[双城総管府]]が置かれた。結局、翌[[1259年]]に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族が元皇帝([[ハーン|カアン]])の侍衛組織である[[ケシク]]の要員に加わるようになった。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わり、元の[[行中書省]]の[[征東等処行中書省]]に組み込まれる。 一方南部では、[[1223年]]に初めて[[倭寇]]の名が登場し、倭寇などが沿岸を襲い始めていたようである。また、元宗のクビライ政権に降伏して接近する政策に反発した林衍らがクーデターを起こした。これを討伐するためモンゴル軍が派遣され、林衍派は[[三別抄]]らを動員して抵抗したものの敗退し、南方の[[珍島]]や耽羅([[済州島]])に落ち延びた。耽羅島の三別抄政権は[[鎌倉幕府]]に救援を求めて共同してモンゴルを撃退するよう要請したが、[[文永の役]]直前に日本派遣軍の司令官となる忻都、[[洪茶丘]]などが率いる派遣軍に鎮圧されている。 === 元の統治・元寇への参加・高麗王のモンゴル貴族化 === [[File:高丽油画.jpg|thumb|250px|モンゴルと高麗の戦いを描いた油絵(想像図)]] モンゴルはこれまでの契丹や女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれた。[[1270年]]には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、[[東寧府]]を置かれた。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、モンゴル支配に反抗する人々が[[三別抄]]の反乱を起こした。反乱者は属国だった[[済州島]]の政権を滅ぼして徹底抗戦したが、[[1273年]]に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、[[クビライ]]は[[日本]]を服属させようと試みたが交渉は失敗し、[[1274年]]と[[1281年]]に二度の日本侵攻([[元寇]])を行った。このため旧高麗領の多くが、前線基地として兵站の補給と軍艦の建造を命令され、供出と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた。一方、『高麗史』には[[忠烈王]]が元に日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、元軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。 忠烈王(在位[[1274年]] - [[1308年]])はクビライに[[公主]]の降嫁を懇願して許され、クビライの娘{{仮リンク|莊穆王后|zh|莊穆王后|ko|제국대장공주|label=忽都魯掲里迷失}}(クトゥルク=ケルミシュ)<ref name="荘穆王后">{{lang|ko|齊}}國大長公主忽都魯掲里迷失(『元史』巻109・諸公主表では「忽都魯堅迷失」)。皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。後の荘穆王后。舊妃は始安公{{lang|ko|絪}}娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には忠烈王は舊妃に近寄らなくなったという(高麗史)。[[忠烈王]]の項目も参照。</ref>と結婚して[[ハーン]]の娘婿(駙馬、グレゲン)となった。初期には高麗王室も一定の影響力を保っていたが、次第に[[征東行省]](第一次と第二次征東行省では高麗王は次官、第三次では無官)は高麗朝廷の人事にも関与する様になり、高麗領は元の支配下へ組み込まれた。 [[1297年]]11月、元は忠烈王を逸寿王に封じ世子の謜を高麗王に就けたが、[[忠宣王]]は元の官制を高麗風の官制へ改めたため征東行省の役人から不満を買って、[[1299年]]には廃位され平章政事の職も解かれた。忠烈王が高麗王に復位し、平章政事には{{仮リンク|コルグズ (高麗)|en|Korguz|label=闊里吉思}}が就き高麗行省の政務を執った。また、元は国王一族を[[瀋陽王]]に封じて別の宮廷を建てさせた。その中で忠烈王とモンゴル皇帝の公主との間に生まれた[[忠宣王]](1308年 - [[1318年]])以降の高麗世子は[[禿魯花]](トゥルカク、turqaq)として元の宮廷で育てられ、モンゴル女性の婿となって、高麗王就任以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、元の宮廷で生活しほとんどモンゴル貴族となり、父の死後、高麗王に任命されるのが慣例となる。忠烈王以降の高麗王の母は、みなモンゴル人となった。 また、[[胡服辮髪]]の令([[1278年]])を出したほか、一切の律令制定と発布は元朝の権限とされた。以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、[[忠粛王]]は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、[[忠恵王]]は「普塔失里」(ブダシリ)と、元風の名も持っていた<ref name="name">多くのWEB情報では、高麗が元の属国なので改名したとあるが、育ちが元の宮廷でなので改名ではなく2つの名前を持っているのが正しい。</ref>このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した。 忠烈王以降の何人かの高麗王は、元朝宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・駙馬のひとつ「駙馬高麗国王」の地位を得た<ref>『元史』巻108・表3「諸王表」。『元史』世祖本紀によると「駙馬高麗国王」に封じられたのは[[至元 (元世祖)|至元]]11年7月癸巳([[1274年]]8月22日)。</ref>。また、多くの高麗王族がモンゴル皇帝の侍衛組織である[[ケシク]]に出されることが恒例となり、ケシクとして皇帝に側近くに仕えた世子が次期高麗王となる慣例が出来た。皇帝に近侍することで宮廷儀礼に慣れ親しむ契機を得、モンゴル宮廷内での高麗王家の地位は向上した。同時に[[テムル]]以降の元朝宮廷の内紛の影響を直接受けるようになり、忠宣王のようにケシクとしてのモンゴル宮廷出仕を繰り返し、英宗[[シデバラ]]の治世に[[チベット]]へ配流される例もあった<ref>森平雅彦「元朝ケシク制度と高麗王家 <small>高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して</small>」『史学雑誌』110-1、2001年2月。69-70頁。</ref>。 === 滅亡への道 === [[14世紀]]に大陸で[[紅巾の乱]]が起こり元が衰え始める時期には征東行省による支配も形骸化、[[恭愍王]]([[1351年]] - [[1374年]])は[[1356年]]に元と断交し、双城総管府など北辺を奪還して蒙古侵入以前の高麗の領域を回復し、元の年号を止めて独立、さらに鴨緑江西方へ遠征し、これを制圧した。また、[[1350年]]頃から活発化した[[倭寇]](前期倭寇)に高麗は苦しむことになる。[[1356年]]から[[1362年]]までの紅巾賊侵入に至っては都・開京が陥落したが、[[崔瑩]]・[[鄭世雲]]・[[李芳實]]・[[李成桂]]らが率いる高麗軍は10万人にも及ぶ紅巾軍を撃退し開京の奪回に成功する。[[1359年]]には、[[李承慶]]・李芳實が西京(平壌)で、[[1361年]]には李成桂・鄭世雲が黄州で、紅巾軍に大勝した。倭寇についても、崔瑩・李成桂・[[羅世]]・[[鄭地]]・[[朴イ|朴葳]]らの有力武将は、次第に倭寇に打撃を与えて行き、[[1376年]]には崔瑩が鴻山で、[[1380年]]には、李成桂が荒山、[[崔茂宣]]・羅世が鎮浦で、[[1383年]]には鄭地らが南海島観音浦で大勝利を収め、[[1389年]]には朴葳が対馬攻撃を行った。[[1368年]]に[[明]]が中国に興り、元を北に追いやる([[北元]])と、[[1370年]]に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人[[李成桂]]([[女真族]]ともいわれる<ref> *[[池内宏]]『満鮮史研究 近世編』 中央公論美術出版 *[[山内弘一]]「朝鮮王朝の成立と両班支配体制」 [[武田幸男]]編集『朝鮮史』山川出版社 *[[室谷克実]]『日韓がタブーにする半島の歴史』[[新潮新書]] *[[岡田英弘]][[宮脇淳子]]研究室『[http://www10.ocn.ne.jp/~okamiya/liseikei.html 論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である]』</ref>)は、[[1388年]]に[[クーデター]]([[威化島回軍]])を起こして政権を掌握し、[[1389年]]に[[恭譲王]]を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、[[1392年]]に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、[[李氏朝鮮|李氏朝鮮王朝]]を興す。ここに高麗は474年で滅びた。 == 社会・経済・国際関係 == [[画像:Korea - Seoul - National Museum - Incense Burner 0252-06a.jpg|thumb|210px|高麗青磁(香炉)]] === 帰化人 === 高麗時代前時期にかけて異民族が[[帰化]]し、23万8000人に達するという説もある<ref name=a/>。帰化した[[漢族]]は国際情勢に明るく、[[文芸]]にたけていて多くは[[官僚]]となった。帰化した[[渤海人]]は[[契丹]]との戦争に参加して大きい功績を立てた。[[崔茂宣]]に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、[[江南]]地方出身帰化人である<ref name=a>[http://news.nate.com/view/20070821n11817 初等教科書、高麗の時「23万帰化」言及もしない]『京郷新聞』2007年8月21日</ref>。帰化した[[女真族]]は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。[[李氏朝鮮]]を建国した[[李成桂]]は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった[[李之蘭]]はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい<ref name=a/>。 === 女性の社会的地位 === 高麗の社会は朝鮮の歴史の中では、[[新羅]]に続き女性の社会的地位が高い時代だった。政治や生活全般には男性が優先されたが、財産の分配は、息子と嫁いだ娘とで同等に分配された。また夫に殴られた妻が官憲に告発し、逮捕された夫がむち打ちの刑を受けた事もあった。[[忠烈王]]の時、朴楡は王に貴族の蓄妾を法律で制度化することを建議した。その後、朴楡は街頭で女性たちに後ろ指を指され、面前で悪口を言われたという。[[離婚]]と[[再婚]]が自由だったとされるが、特別な理由もなく妻を見捨てると法律によって処罰された。12世紀に宋の徐兢が高麗を訪問した後に書いた『高麗図経』には、「離婚率が高いし、恋愛と別れが多すぎるので、風習がおかしい」と書かれている。息子がいなくても、祭祀は娘と婿が行なった。[[婿取婚]]の比率も高く、女性は影響力が強かった。 しかし、女性の地位が高いとはいっても、国王や官僚、軍人はほぼ全員男性であり、やはり公的な領域では歴然たる男性優位の社会であった。 === 国際貿易 === 高麗では貿易が栄え、特に[[開京]]から近い礼成江河口にある港・[[碧瀾渡]]は貿易港として繁栄した。詳細は下記を参照。 === 宋 === 高麗は宋に入朝し、親宋を標榜した。宋は高麗の最大の貿易国だった。高麗は宋に金・銅器・木材・棉織物・毛織物・花茣蓙・諸種の薬材・朝鮮人参を輸出し、宋から絹・陶磁器・薬材・書籍・楽器・香料を輸入した。[[1976年]]には、韓国の[[全羅南道]][[新安郡|新安]]の沖で高麗と宋の難破船が発見され、宋と高麗の遺物18000点が引き揚げられた。 === アラビア === 高麗の首都の[[開京]](現在の北朝鮮の[[開城]]市)の[[礼成江]]河口の国際貿易港だった碧瀾渡で[[アラビア半島|アラビア]]商人が賑やかだった。『[[高麗史]]』の記録には[[1024年]]([[顕宗 (高麗王)|顕宗]]15年)と[[1025年]]([[顕宗 (高麗王)|顕宗]]16年)、[[1040年]]([[靖宗]]6年)に大食国([[アッバース朝]])の商人らが高麗に入朝し、産物を献上したと記されている。高麗はアラビアから水銀・香料・ガラス工芸品・珊瑚を輸入した。この時代に高麗の名称がヨーロッパに知られ、アラビアの商人が高麗(コリョ)を「コリア」と呼び始め、今の朝鮮を指す英語表記「Korea」になった。 === 契丹 === 高麗は建国初期に[[太祖 (高麗王)|太祖]]が契丹との貿易を禁止した。[[遼]]を建国した契丹の国土が宋と高麗の間にかけて存在したので、高麗は海上貿易を通じて宋と交易した。3回目の遼の高麗侵攻が失敗に終わってから、高麗と遼は国交を回復し、高麗は遼に食料・銅・鉄・朝鮮人参を輸出した。高麗は遼から銀銭・羊・毛皮を輸入した。 === 女真 === [[女真]]は宋と高麗両国に朝貢してきたが、12世紀に入ると[[満州]]で成長し、[[金 (王朝)|金]]を建国した。高麗は女真から毛皮や馬を輸入し、書籍や農機具を輸出した。 == 思想・文化 == === 仏教 === [[File:Korea-Haeinsa-Tripitaka Koreana-01.jpg|250px|thumb|[[高麗八萬大蔵経]]]] 高麗初期から[[仏教]]は王族の支援を受けながら発展した。[[太祖 (高麗王)|太祖]]は[[開京]]に多くの[[寺院]]を建築し、『[[訓要十條]]』で仏教を崇尚して[[燃燈会]]と[[八関会]]など仏教の行事を開催することで仏教に対する国家の指針を提示した。貴族も仏教に関心を見せたが、これらは政治的理念にした[[儒教]]と相反するものではなかった。民衆も起伏信仰として仏教を信奉した。[[光宗 (高麗王)|光宗]]の治世からは、王が[[僧科]]を実施して、試験に合格した者には僧侶の地位を与え、[[国師]]を置き、王の顧問役を務めさせた。また、寺院には土地を支給して僧侶に各種の恩恵を与えた。 高麗時代には仏教思想の体系が整備され、仏教と係わる書籍を集めて体系化した『[[大蔵経]]』が編纂された。『大蔵経』の内容は仏教の経典の集大成であり、[[釈迦]]の説教を記録した「経蔵」、すべての戒律を記録した「律蔵」、仏者の論説を記録した「論蔵」の3点で構成されている。高麗は外勢の侵入を受ける度に[[仏陀]]の力を借りて勝利しようとし『大蔵経』を刊行した。[[元 (王朝)|元]]の侵攻開始時には『[[高麗八萬大蔵経|八萬大蔵経]]』を刊行している。38年にわたって完成した『八萬大蔵経』はその膨大な経典が収録されているにもかかわらず、校訂の精緻さと字体の美しさがそのすみずみにまで及んでおり、その点がひとつの特長として評価され、[[世界遺産]]に登録されている。『八萬大蔵経』は現在、[[海印寺 (陜川郡)|海印寺]]にて保管されている。 === 道教 === 高麗においては[[道教]]も盛んだった。不老長生と現世での豊かさを追い求めることを特徴にする道教を信仰する人々は、幾多の神々に仕え、災いから脱して救援を望み、国の平安と王室の繁栄を祈った。このため道教的行事がよく開催され、宮廷では天に祭祀を執り行なう[[醮祭|{{lang|ko|醮祭}}]]が開催された。[[新羅]]後期に流行った[[風水|風水地理説]]は未来を予言する[[図讖思想]]が追加され、高麗時代に大きく流行した。高麗時代には開京と西京([[平壌]])が[[明堂]]であるという説が確立し、西京遷都と北進政策推進の理論的根拠となった。しかしこのような明堂説は開京勢力と西京勢力の政治的闘いに利用された(仏教層[[妙清]]の「西京遷都運動」、および[[妙清の乱]])。[[文宗 (高麗王)|文宗]]の治世以後には[[ソウル特別市|ソウル]]が明堂であるという噂が流布し、こちらを南京と改称して王宮を建て、王がしばらく留まった。 === 学校 === 高麗は役人を養成するために、全国に多くの学校を建てて民衆への教育を奨励した。開京には今の国立大学校にあたる[[国子監]]があった。国子監には[[国子学]]、[[太学]]、[[四門学]]のような儒学部と[[律学]]、[[書学]]、[[算学]]などの技術学部があった。儒学部には名望高い高位級貴族の子弟が入学し、技術学部には下級貴族の子弟と庶民の子弟が入学した。そして地方には地方貴族と庶民の教育を担当する[[郷校]]があった。 === 文学 === 高麗は光宗による[[科挙]]の実施下で、[[漢文学]]が大きく発展した。[[成宗 (高麗王)|成宗]]の治世以後は[[文治主義]]が盛んになったことにより、漢文学は貴族の必須教養となり、[[朴寅亮]]と[[鄭知常]]など優秀な詩人が登場した。民衆社会では作曲家と作詞者の名前が不明である[[俗謡]]という歌謡が流行った。 高麗の[[文学]]は初期の詩と中期・後期の小説で区分できる。高麗[[仁宗 (高麗王)|仁宗]]時代の詩人[[鄭知常]]の漢詩『[[送人]]』は「雨歇長堤草色多(雨が上がり長い堤は草色が濃い)」で始まる七言絶句で、現在まで愛されている。その他に文学の形式の高麗歌謡が流行り、恋人との別れを悲しむ『西京別曲』、『カシリ(行ってしまいますよね)』がある。また俗世を脱して自分の寂しさや悲哀を歌った『青山別曲』は『西京別曲』・『カシリ』と共に現存する高麗歌謡として高く評価されている。中期と後期には執権者や社会の矛盾を[[風刺]]した小説が書かれた。特に物事を擬人化して創作した仮伝体小説が流行った。酒を擬人化した林椿の『麹醇伝』や[[李奎報]]の『麹先生伝』が特に有名である。 === 工芸・絵画 === 贅沢に生きた高麗の貴族は自らの欲望を満たすために多様な芸術作品を作って鑑賞した。その中でも一番脚光を浴びた分野は[[工芸]]だった。工芸は貴族の生活道具や、仏教儀式に使われる道具などを中心に発展した。高麗の磁器は新羅と[[渤海 (国)|渤海]]の伝統と技術を土台にし、宋の磁器技術を受け入れ、貴族の全盛期であった11世紀に独自の境地を成した。特に翡翠色が出る[[高麗青磁|青磁]]が発展した。 [[絵画]]の場合、王族と貴族の依頼によって[[仏画]]が描かれた。特に高麗の画家は[[極楽往生]]を祈る阿彌陀仏図と地蔵菩薩図、観世音菩薩図を描いた。現存する[[高麗仏画]]160点のうち130点が日本にある。また、仏教の経典を筆写する時、その経典の内容を絵で説明した[[写経画]]も流行った。高麗後期には[[四君子]]を主題にした[[文人画]]が流行った。 === 建築 === 高麗時代には主に王宮と寺刹が建てられたが、現在まで現存している建築物はほとんどない。 この時代の木造建築は、朝鮮太祖よる崇儒廃仏政策を逃れた仏教寺院などが残されている。 *[[修徳寺]]大雄殿(1308年建立、韓国最古の木造建築、[[大韓民国指定国宝]]第49号) *[[浮石寺]]祖師堂(1376年以前、大韓民国指定国宝第18号)、無量寿殿(1377年、大韓民国指定国宝第19号) *[[江陵客舎]]門([[:ko:임영관 삼문]]、大韓民国指定国宝第51号) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[高麗王]] - 高麗王朝の王の一覧と系図 * [[高麗王后]] - 高麗王朝の妃、王后の一覧と出目 * [[高麗年表]] - 高麗王朝の年表 * [[刀伊の入寇]] * [[高麗の入寇]] * [[元寇]] * [[高麗八萬大蔵経]] * [[消滅した政権一覧]] * [[朝鮮の君主一覧]] * [[三別抄]] * [[高麗人]] * [[高麗 (曖昧さ回避)]] - 「高麗」が付く項目の一覧 * [[武神 (テレビドラマ)]] {{DEFAULTSORT:こうらい}} [[Category:高麗|*]] [[Category:中国史に現れる周辺民族]] [[Category:元寇]] {{Link FA|hu}}
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