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'''高階 栄子'''(たかしな の えいし、[[仁平]]元年([[1151年]])? - [[建保]]4年([[1216年]]))は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]前期にかけての女性。父は法印・[[澄雲]]とも上座・[[章尋]]とも言われている。通称は'''丹後局'''。 == 生涯 == [[後白河天皇|後白河法皇]]の側近であった[[平業房]]の妻となる。そしてこの間に権中納言となる[[藤原教成]]([[藤原実教]]の猶子)ら数名の子供を生んだ。しかし[[治承三年の政変]]で[[平清盛]]によって後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されると、法皇の側近であった業房も解官の上、[[伊豆国]]に流罪に処された。しかし業房は脱走しようとしたため、怒った清盛の捜索によって捕らえられ、[[福原京|福原]]において処刑された。 業房の死後、丹後局は鳥羽殿に幽閉された後白河法皇に近侍する。もともと美貌の持ち主だったらしく、たちまちのうちに法皇の寵愛を得た。[[養和]]元年([[1181年]])10月には法皇の皇女・[[きん子内親王|覲子内親王]]を産んでいる。同年閏2月の清盛の死去もあって、これを契機に丹後局は法皇の寵愛と信任を得た第一人者となり、政治にも介入するようになる。『[[玉葉]]』では丹後局のことを「朝務は偏にかの唇吻にあり」と評しているが、丹後局の権勢は著しく、かつての[[唐]]の[[楊貴妃]]にたとえられたとまで言われている。 [[寿永]]2年([[1183年]])7月、[[源義仲]]の攻勢の前に平氏が[[安徳天皇]]を奉じて都落ちした。8月、法皇は安徳天皇を廃して新たな天皇を擁立しようとしたが、このとき[[後鳥羽天皇]]を立てるように進言したのが丹後局であったと言われている。平氏滅亡後の[[文治]]2年([[1186年]])からは鎌倉の[[源頼朝]]との顔役となり、[[大江広元]]と何度も交渉に当たっている。文治3年([[1187年]])2月には従三位に叙された。[[建久]]2年([[1191年]])6月、覲子内親王に院号宣下があって「宣陽門院」となると、丹後局は従二位となる。 建久3年([[1192年]])、法皇が崩御すると、丹後局も出家する。しかし法皇の遺言により山科に所領を与えられた丹後局は、同じく遺言により長講堂領を与えられた宣陽門院と共に、なおも政治に介入する。法皇の死後、朝廷では頼朝を後ろ盾とする[[九条兼実]]が権勢を誇ったが、この兼実に反発する一派が[[源通親|土御門通親]]や丹後局らと手を結んで対立する。 丹後局は頼朝とも親密な関係にあったらしく、頼朝とは常に進物を贈りあいしているというしたたかさもあった。しかし頼朝が娘の[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]を後鳥羽天皇に入内させようとしたことには消極的であり、土御門通親と共に九条兼実を失脚させることに成功した。これを[[建久七年の政変]]という。その後、朝廷の実権は若年の後鳥羽天皇に代わって丹後局と通親が掌握したが、[[建仁]]2年([[1202年]])に通親が死去し、さらに後鳥羽上皇が本格的に[[院政]]を開始すると、丹後局の威信は急速に失墜する。 その後、丹後局は朝廷から去り、亡き夫・業房の所領にあった[[浄土寺]]に住んだ。このため、「浄土寺二位」と称されたという。 没年は異説も多いが、建保4年(1216年)2月(もしくは3月)が有力となっている。 == 関連項目 == * [[長講堂領]] * [[市川ジュン]] - 彼女を主人公としたマンガ『燁輝妃』がある。 {{DEFAULTSORT:たかしな えいし}} [[Category:高階氏|えいし]] [[category:平安時代の后妃後宮]] [[Category:鎌倉時代の女性]] [[Category:1151年生]] [[Category:1216年没]]
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