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高長恭
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'''高 長恭'''(こう ちょうきょう、[[541年]] - [[573年]])は、[[中国]]の[[北斉]]の[[皇族]]。長恭は字で、名は'''孝瓘'''、もしくは後世に残った碑文から'''粛'''とも。[[高澄]]の四男。'''蘭陵王'''(らんりょうおう)、または'''羅陵王'''(らりょうおう)の王号で知られる。 == 生涯 == [[541年]]、高澄の四男として生まれる。母の名は不詳。[[559年]]3月、蘭陵王に封ぜられ、并州刺史に累進した。[[突厥]]が晋陽に侵入したとき、力戦して迎撃した。[[564年]]11月、[[段韶]]・[[斛律光]]とともに[[洛陽]]の救援に向かい、高長恭は中軍を率い、芒山で戦って[[北周]]の軍を破った。高長恭は500騎を率いて北周軍に対して再突入し、金墉城にたどりついたが、包囲が厳しかったため、城の守備兵たちには高長恭の率いる部隊が味方かどうか分からなかった。高長恭が兜を脱いで素顔をさらしたところ(当時、将兵は戦闘時に兜とともに鉄の仮面をつけ、頭と顔を防御していた)、味方であること知った守備兵たちは弩を下ろして開門し、このことにより北周に勝利したという。北斉の兵士たちは「[[蘭陵王 (雅楽)|蘭陵王入陣曲]]」という歌謡を作り、彼の勇猛を称えた。この逸話が変化し、唐代には「その美貌が兵卒たちの士気を下げることを恐れ、常に仮面をつけて戦っていた」という、現在知られている逸話が誕生した。 564年12月、[[尚書令]]となった。後に司州牧・青瀛二州を歴任した。[[569年]]12月、録尚書事となった。[[571年]]2月、[[太尉]]となった。段韶とともに栢谷を討ち、また定陽を攻めた。段韶が病にかかると、高長恭はその兵を引き継いで統率した。前後の戦功により鉅鹿・長楽・楽平・高陽などの郡公の別封を受けた。[[572年]]8月、[[大司馬]]となった。[[573年]]4月、[[太保]]となった。 高長恭はその勇敢さと武勲を皇帝である[[後主 (北斉)|後主]]から忌避されるようになる。粛清されることを恐れて、わざと戦利品を貪って評判を落としたり、戦功を立てることを恐れて病にかかっても治療しなかったという。573年5月、後主より[[賜死|毒薬を賜り自殺]]した。このとき、王妃である鄭氏が「今からでも、陛下に申し開きはできないのでしょうか」と泣きながら訴えたが、高長恭は「今更、どんな訴えが聞き容れられよう」と答え、債券の類を全て焼き払わせ、家財を分け与えた上で、従容として死に臨んだという。[[諡]]は武といった。 勇猛な将軍である一方、「音容兼美」と史書に明記される麗貌に加え、「果物を贈られた際、将卒に分け与えた」「軍功を称えて皇帝から20人の美女を賜ったとき、1人だけ選んで辞退した」など、配下の将兵をいたわり、謙虚な人物でもあった。 == 知名度 == 勇猛な武将でありながら美貌の持ち主であり、なおかつ主君に妬まれて悲劇的な最期を遂げたことから人気は高かった。特に「蘭陵王入陣曲」は唐代に日本に伝わり、[[雅楽]]の演目「[[蘭陵王 (雅楽)|蘭陵王]](陵王)」として演じられている。また[[京劇]]では近年の新作の題材としても取り上げられている。2013年には台湾と中国の合作でテレビドラマ化([[蘭陵王 (テレビドラマ)]])され、ウィリアム・フォン([[馮紹峰]])が演じてている。 == 伝記資料 == *『[[北斉書]]』巻11 列伝第3 *『[[北史]]』巻52 列伝第40 {{DEFAULTSORT:こう ちようきよう}} [[Category:高氏 (北斉)|ちようきよう]] [[Category:刑死した人物]] [[Category:573年没]]
高長恭
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